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婚約解消された令嬢は、強面公爵様の最愛の妻になりました  作者: 星舟能空


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第31話 船長がお泊まりに来ました

 結婚式の五日前、フリーダが叔母の家へ泊まりに来た。


 小さな鞄を一つと、白い熊を一匹。


 それから、方位磁針を持っていた。


「帰り道が分かります」


 彼女は玄関で説明した。


「馬車で帰る」


 送ってきた父親が言った。


「馬車が迷うかもしれません」


 御者の方が、帽子のつばを少し下げた。


 笑っているのだと思った。


 泊まりたいと言い出したのは、フリーダ自身だった。


 私が結婚すれば、こちらの家で会うことが少なくなる。それを聞いた少女は、まだ私の部屋を見ていないと言った。


 叔母が、では一晩どうぞと誘った。


 父親は娘の荷物に上着が入っているか確かめ、マルタ様は帰る時刻を聞き、少女は眠る前に読む本を自分で選んだ。


 そうして、今日になった。


 アウグスト様は玄関で私の手を取りかけ、娘の視線に気づいた。


「今夜は、よろしく頼む」


「はい」


「私も、あとで迎えに――」


「明日です」


 フリーダが言った。


 父親は口を閉じた。


「お泊まりですから」


「分かっている」


 私は笑った。


 彼は少し困ったように私を見て、短く手を握った。


 それから、本当に帰っていった。


     ◇


 フリーダは、私の部屋へ入ると、まず窓を見た。


 それから寝台、机、残っている衣裳箪笥。


 箱が壁際に積まれ、本棚は半分ほど空いていた。


「狭くなっています」


「荷物を出している途中なので」


「お父様のお部屋は、まだ広いです」


 私は笑った。


「これから、私の箱も増えます」


 少女は箱を数えた。


 途中で、何かを決意したように頷く。


「お父様の長椅子を、動かしましょう」


 父親の寝場所は、まだ長椅子のままだった。


 私は返事をせず、彼女の鞄を客用の小さな部屋へ運んだ。私の部屋と扉一枚で繋がっている。


 少女は寝台へ熊を座らせた。


 枕の向きを確かめ、方位磁針を机へ置く。


「北は、こちらです」


「私の部屋では、あちらになりますね」


 壁を指すと、彼女は少し考えた。


 それから笑った。


「同じです」


「ええ。同じ方です」


 部屋が変わっても、北は同じだった。


 彼女はそのことが面白いらしく、扉のこちらと向こうを何度か往復した。


 私はそのあいだに、彼女の上着を掛けた。


 自分のものが少しずつ減っている部屋へ、少女の小さなものが増えた。


     ◇


 夕食では、叔母がフリーダに大人と同じ皿を出した。


 少女は背筋を伸ばした。


 いつもよりゆっくり食べ、苦手らしい野菜も、一つずつ選んで口へ運んだ。


 叔母は何も褒め立てず、今日の買い物の話をした。


 帽子店に、白い熊に似合いそうな小さな帽子があったという。


 フリーダが顔を上げた。


「本当ですか」


「ええ。お人形用ですけれど」


「見張りに、使えます」


 叔母が私を見た。


「まだ、お勤めなの?」


「近頃は、お客様です」


 私が答えると、少女は少し考えた。


「お父様が、端の椅子へ座らせましたから」


 私は杯を持つ手を止めた。


「ご存じだったのですか」


「お父様が言いました」


 口の堅い熊より、父親の方がよく喋ったらしい。


 フリーダは、少し得意そうだった。


「次は、もっと大きな熊にします」


 叔母が笑った。


 私も笑った。


 少女は最後の野菜を食べ、それから、菓子があるかどうかを丁寧に尋ねた。


     ◇


 食後、私は母の舟歌を弾いた。


 青い本は母へ返したが、曲は覚えている。


 フリーダは隣に座り、私の手を見ていた。


「これも、サビーヌの曲ですか」


「いいえ。母がよく弾いていた曲です」


「サビーヌのお母様」


「はい」


 少女は頷き、また聴いた。


 湖の曲よりもゆっくりで、少し古い歌だった。母はよく、途中で歌詞を忘れた。そういうときは鼻歌になり、私と姉は、次の言葉を知っているふりをして笑った。


 私も歌ってみた。


 二番の途中で、忘れた。


 フリーダがこちらを見る。


 私は、そのまま鼻歌にした。


「忘れましたね」


「はい」


「お母様も?」


「よく」


 少女が笑った。


「同じところですか」


「確かめておきます」


 歌い終わると、彼女は鍵盤の端へ手を置いた。


「私のお母様は、歌ったでしょうか」


 私は彼女を見た。


「今度、お父様に聞いてみましょう」


「覚えていません」


 声が、少し小さくなった。


 私は鍵盤から手を下ろした。


 少女は膝を見ていた。


「帽子は、あります。字も。でも、声が、よく分かりません」


 私は答えを探した。


 覚えていなくても大丈夫だと言えば、彼女の欲しいものが戻るわけではなかった。


 私は隣に座ったまま、少し待った。


「聞きたいですね」


 そう言うと、少女は頷いた。


 私は、その肩に手を置いた。


 フリーダは、少しだけこちらへ寄った。


 泣かなかった。


 ただ、しばらく、そうしていた。


 やがて彼女は顔を上げた。


「サビーヌは、二番を覚えてください」


「はい」


「私も、覚えますから」


 私は頷いた。


 母へ、手紙を書こうと思った。


     ◇


 夜、少女は持ってきた本を自分で読んだ。


 途中で分からない言葉があると、隣の部屋へ聞きに来た。私は荷物を畳みながら答え、彼女は戻って続きを読んだ。


 三度目に来たときは、言葉の質問ではなかった。


「明かりが、違います」


「暗いですか」


「影が、動きます」


 私は彼女の部屋へ行った。


 窓の外の枝が、灯りを受けて壁に揺れていた。


 昼間には面白かった知らない部屋が、夜には少し遠い場所になる。


 私は椅子を寝台のそばへ運んだ。


「何を読んでいるのですか」


 少女は本を開いた。


 航海の途中で、島に降りた人たちの話だった。宝物はまだ見つかっていない。


「続きを、聞かせてください」


 私が言うと、彼女は少し驚いた。


 それから読み始めた。


 ゆっくりだった。


 分からないところで止まり、戻り、また進む。


 私は聴いた。


 やがて、声が小さくなった。


 本の端が下がる。


「船長は、眠くなりましたか」


「まだ、です」


 返事の途中で、あくびが入った。


 私は本を受け取り、頁に栞を挟んだ。


 少女は熊を抱き、目を閉じた。


 私はすぐには椅子を離れなかった。


 私の部屋には、荷物を詰める箱がある。


 彼女の家には、私の楽譜を置く棚がある。


 今夜はその間で、少女が眠っていた。


 扉を少し開けたまま、自分の部屋へ戻った。


 明日、父親が迎えに来る。


 あと五日で、私は彼と同じ家へ帰る。


 私は灯りを落とし、隣の静かな寝息を聞きながら、しばらく目を閉じていた。

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