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婚約解消された令嬢は、強面公爵様の最愛の妻になりました  作者: 星舟能空


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第29話 もう一曲だけ意地悪を

 ユリアが、弓を構えた。


 私は彼女を見た。


 短い呼吸。


 そのあと、二人で音を出した。


 舞曲は、最初から軽かった。


 練習では何度も重くなったところを、今日は通り抜けられた。全部を握りしめなくても、旋律は逃げない。ユリアの弓が進み、私の指がそれを受け取る。


 難しいところが来た。


 私は少しだけ、息を吸った。


 右手が一音、浅くなった。


 戻らなかった。


 次へ行った。


 ユリアの音が、すぐそばにあった。


 私は笑いそうになった。


 彼女の方を見ると、口元が上がっていた。


 聴いている人には、どこで私たちが何度も止まったか分からない。


 分からないまま、楽しんでもらえたらよかった。


 曲は回り、跳ね、少し静かになる。


 私は彼女の旋律が戻るところに、柔らかな音を置いた。


 ユリアが、そこへ降りてきた。


 それから、二人で最後まで走った。


 終わりの音が揃った。


 今度は、ひどい演奏の終わりではなかった。


 拍手が、すぐに来た。


 私は立ち上がり、ユリアと並んだ。


 手を取る。


 礼をする。


 顔を上げると、ユリアが私に小さく頷いた。


 それが、いちばん嬉しかった。


     ◇


 予定の曲がすべて終わると、主催の菓子商人が客へ礼を言った。


 そのあと、もう一曲だけ、短い曲をお願いしたいと私を呼んだ。


 前日の打ち合わせで、短いものならと引き受けていた。


 私は客席を見た。


 アウグスト様が、少し首を傾げた。


 話していなかったからだ。


 私は口元を引き締めた。


「小さな曲を、一つ」


 声が、よく響いた。


「大きな人が、小さな椅子へ座る曲です」


 客席から笑いが起きた。


 フリーダが父親を見た。


 父親が、天井を見た。


 私は鍵盤へ向かった。


 低い音を一つ。


 高い音を二つ。


 大きな人は、椅子を見下ろしている。


 座れるか、迷っている。


 高い音が急かす。


 低い音は威厳を保とうとするが、途中で膝がつかえる。


 客席に、また笑いが広がった。


 私は少しだけ、間を置いた。


 その間に、大きな人はどうにか座る。


 低い音と高い音が、同じ速さになる。


 最後の低い音は、柔らかくした。


 あの日、彼に気づかれないように書き直したところだった。


 短い曲は、そこで終わった。


 拍手の中に、笑い声が残っていた。


 私は立ち上がった。


 彼は、笑っていた。


 娘は、得意そうだった。


 自分の父親が出てくる曲を、会場の人が楽しんでいる。


 そのことが、彼女には誇らしいらしかった。


 私は二人へ、ほんの少し深く礼をした。


     ◇


 終演後の小さな控え室は、いつもより狭く感じた。


 楽器の箱と、花と、人が入ってきたからだ。


 叔母が私を抱き、マルタ様が素敵でしたと手を握ってくれた。フリーダは白い熊を差し出した。


「よく聴いていました」


「ありがとうございました」


 私は熊へ礼をした。


「でも、湖の曲で、眠っているところがありました」


 少女の目が鋭くなった。


「気づきましたか」


「気づきます」


 私は笑った。


「曲の中の船長は、少し眠くなったようです」


「本当の船長は、眠っていません」


「そうでしたね」


 彼女はしばらく私を見て、それから小声で言った。


「でも、帰るところは、好きです」


 私は頷いた。


「私もです」


 少女は満足そうに熊を抱き直した。


 アルノー氏も、娘を連れて挨拶に来た。


 少女はフリーダより少し幼く、両手で楽譜を持っていた。私が写して送ったものだった。


「最後まで、弾けました」


 小さな声で言った。


 私はしゃがんだ。


「聴いてみたいです」


 少女は父親を見た。


 父親は笑った。


「今日は、聴く方を頑張ったので。いずれ、ぜひ」


 私は頷いた。


 譜面の端は、少し丸くなっていた。


 何度も開いてもらった紙だった。


 胸がいっぱいになった。


 私の曲は、ちゃんと、知らない家へ帰っていた。


     ◇


 皆が少しずつ外へ出ると、アウグスト様が残った。


 彼は、私の鞄を椅子へ置いた。


 私は小さな布を開き、指輪をはめた。


「お帰り」


 彼が言った。


「ただいま」


 私は笑った。


 今日、二度目の言葉だった。


「椅子の曲は、聞いていなかった」


「驚かせたかったのです」


「十分に驚いた」


「お嫌でしたか」


 彼は首を振った。


「最後が、好きだ」


 私は顔を上げた。


 彼は私の手を握った。


「座れて、よかったと思った」


 胸の奥が、温かくなった。


 私は、あの日の彼を思い出した。


 娘の気の早い招待に困りながら、それでも小さな椅子へ座り、私の話を聞いてくれた人。


 彼がそこへ座らなければ、私はあの青い目を、あんな近くで見なかったかもしれない。


「私も、よかったと思っています」


 彼が笑った。


 私はその胸へ、少しだけ寄りかかった。


「湖の曲は?」


「途中から、もう一度、あの舟にいた」


「はい」


「あなたの髪に触れたことを、思い出した」


 私は目を閉じた。


 その音を、彼が聞きつけてくれた。


 誰にでも伝わる必要はないところが、伝えたい人へ届いた。


「書いて、よかったです」


「また、聴かせてほしい」


 私は頷いた。


「また、書きます」


 扉が開いた。


 ユリアが顔を出した。


「お二人とも、片づけるなら手伝って。帰らないなら、私が先に帰るわ」


 私は慌てて離れた。


 彼は笑い、楽譜の束を持ち上げた。


「どこへ運べばいい」


 公爵は、今日も運ぶ仕事を頼まれた。


 その姿を見ながら、私は自分の荷物を抱えた。


 演奏会は終わった。


 けれど、曲を書く暮らしは、ここからも続いていく。


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