第24話 船長は引っ越しません
翌日、フリーダは私の手を見るなり、眉を寄せた。
「大きいです」
私は椅子に座りかけたまま止まった。
「指輪ですか」
「私の石より」
彼女は、楽譜の青い留め金を指した。
隣の父親が、少しだけ咳をした。
「競争ではない」
「お父様は、大人ですから」
それは、競争をしていない人の言い方ではなかった。
私は座り、楽譜を膝に置いた。
「青い石は、今日もここです」
少女は確認した。
それから、少しだけ肩の力を抜いた。
「結婚するのですね」
父親が頷いた。
「昨日、お願いして、サビーヌが頷いてくれた」
フリーダは私を見た。
私は頷いた。
少女はしばらく考え、椅子の端を握った。
「いつですか」
「まだ、日を決めていない」
「また、まだです」
公爵は返す言葉を失った。
私は笑いをこらえた。
「決まったら、お話しします」
そう言うと、少女は父親を見た。
「サビーヌは、ここへ住みますか」
私は顔を上げた。
様が、落ちていた。
彼女は気づいたのか、口を一度結んだ。でも、言い直さなかった。
「そのつもりだ」
父親が答えた。
「では、お部屋が要ります」
「ああ」
「見ましょう」
少女は立った。
父親が、少し驚いたように私を見た。
私も、驚いていた。
けれど船長は、もう扉へ向かっていた。
「今なら、まだ、空いているところがあります」
まるで公爵邸が、混雑する宿のような言い方だった。
◇
最初に案内されたのは、少女の部屋の隣だった。
小さな居間として使われている部屋で、窓辺に本棚がある。机の上には、未完成の旗の刺繍が載っていた。
「ここなら、すぐ来られます」
「素敵なお部屋ですね」
私は窓から庭を見た。
「ただ、寝台を置いたら、刺繍の机はどこへ?」
少女は机を見た。
「廊下へ」
「寒くなる」
父親が言った。
「では、お父様のお部屋へ」
「私の部屋が、物置になるな」
「広いです」
事実を突きつけられた父親は、苦しそうだった。
私は窓辺の棚を見た。
白い熊が座っている。例の見張りだった。小さな布を肩からかけ、任務を終えた人のように、ゆったりしていた。
「ここは、フリーダの好きなものが、たくさんありますね」
「はい」
「私のものを入れると、押し合いになりそうです」
少女は棚を見回した。
どれも、動かしたくなさそうだった。
「では、反対です」
次に、廊下を挟んだ部屋へ案内された。
こちらは客用の寝室だった。窓が大きく、落ち着いた色の寝台がある。少女は得意そうに両手を広げた。
「机も、あります」
「よく調べているな」
「住んでいますから」
父親への返事が、ますます短くなっていた。
私は寝台のそばへ歩いた。
フリーダは満足そうに頷き、次の瞬間、窓辺の長椅子を指した。
「お父様は、そこです」
公爵が止まった。
私は窓の方を向いた。
笑う顔を隠すためだった。
「父さんは、長椅子で寝るのか」
「サビーヌの寝台を取ってはいけません」
「取らない」
「では、大丈夫です」
船長は、話がまとまったと思っていた。
私は口元を押さえた。
公爵がこちらを見る。
助けを求める目だった。
捕虜の練習は、確実に役に立っていた。
「まだ、お部屋は二人で考えます」
私は言った。
「でも、ここからフリーダのお部屋が近いことは、覚えておきます」
少女は少し不満そうだったが、案内を続けた。
◇
音楽室へ戻る途中、廊下の角で立ち止まった。
壁に、小さな肖像画があった。
明るい色の衣装を着た女性が、幼い少女を膝に抱いている。少女の頬は今よりずっと丸く、片手で母親の袖を握っていた。
フリーダが、私の視線を追った。
「お母様です」
「ええ」
私は絵を見上げた。
エルザ夫人の目は灰色で、口元には、少し悪戯を思いついたような笑みがあった。
帽子の花が三つで十分だと言った人。
苦い茶葉を、夫と一缶飲んだ人。
私の中に、すでに少しだけ、その人の暮らしがあった。
「私は、覚えていません」
少女が言った。
「これを描いたときです」
父親が絵を見た。
「動きたがって、大変だった」
「動いていません」
「絵の中ではな」
彼は少し笑った。
「母さんの膝から下りて、画家の鞄を開けようとした」
「何が入っていたのです」
「筆だ」
「お菓子は?」
「なかった」
少女は、幼い自分に同情するような顔をした。
私は笑った。
「とても、フリーダらしいですね」
「今は、勝手に開けません」
「知っています」
少女は絵を見上げた。
「これは、ここにあります」
誰に言ったのか、はっきりしない声だった。
私は頷いた。
「毎日、通るところですね」
「はい」
父親は何も付け足さなかった。
フリーダは、それで先へ歩いた。
私は一度だけ振り返った。
絵の中の少女は、母親の袖をつかんでいる。
いま廊下を歩く少女は、私を待っている。
どちらも、ここにいてよかった。
◇
音楽室へ着くと、フリーダは鍵盤の横の小さな机を指した。
「ここは、サビーヌの楽譜を置けます」
「ありがとうございます」
「青い石も、置けます」
「楽譜についていますから、一緒です」
彼女は頷いた。
そのあと、父親を見た。
「お父様の本は?」
「私の部屋に置く」
「ここに、持ってくるでしょう」
私と彼は、目を合わせた。
昨夜の求婚を、彼女は聞いていないはずだった。
フリーダは机の端を指で区切った。
「ここだけです」
「狭いな」
「大きな本は、持ってこないでください」
公爵は、娘から与えられた小さな領地を見た。
「承知した」
少女は満足そうだった。
私は楽譜を机に置いた。
青い石が、木の上で光った。
まだ、引っ越してはいない。
けれど私のものを置く場所が、今日、一つできた。




