第13話 雨の日の共犯者
湖の上が白く煙るほどの雨になったのは、滞在六日目の昼前だった。
フリーダは窓に両手をつき、雨粒をにらんでいた。
「昨日降ればよかったのです」
「昨日も舟に乗っていましたよ」
「昨日は、今日がありました」
明日の朝には王都へ発つ。
たしかに、昨日の雨と今日の雨は違う。大人になると雨宿りの理屈は上手になるが、残念なものは残念だった。
私は窓の隣の机に楽譜を広げた。昨夜、眠る船長の曲が半分ほどできた。船長本人に聞かせると「眠っていません、目で風をよけていただけです」と訂正されたので、題名はまだ決めていない。
「海賊は、雨の日はどうしていたのでしょう」
私が言うと、少女が振り向いた。
「海賊ですから、濡れても平気です」
「服を乾かさずに?」
「……火を焚きます」
「木のお船で?」
彼女は窓から離れた。
しばらくして、暖炉の前に椅子が四つ並び、上に大きな布がかけられた。別邸の船は、燃えないことを最優先に建造された。
エーベル夫人が菓子の皿を差し入れ、叔母が椅子一脚を押さえ、マルタ様は「その膝掛けの房は切らないこと」と注意した。大人三人から資材を集めた船長は、最後に父親を呼びにいった。
帰ってきた彼女は、不機嫌だった。
「お仕事だそうです」
机の上の封書は朝から見えていた。休暇中でも、彼だけに返事を求める書類が来るらしい。
私は船の中へ潜り、裾を膝に集めた。
「捕虜を入れる場所が、なくなってしまいましたね」
「小さくなってもらいます」
彼女も潜ってきた。
布越しの光は柔らかく、外の雨音が近く聞こえた。子どもの頃、姉と食卓の下に隠れたことを思い出す。姉は秘密の家だと言い、私は本当に誰にも見えないのだと思っていた。母はいつも、私たちの足にぶつからないところへ盆を置いた。
「サビーヌ様にも、お姉様がいるのでしたね」
「ええ」
「お姉様は、サビーヌ様に命令しますか」
「小さい頃は、ずいぶん」
「何をですか」
「秘密の家に入るために、お菓子を持ってくるように、と」
フリーダが皿を見た。
「それは、よくありません」
いま同じことをしてきた人が言った。
「ですから私は、大きくなってから姉の好きなお菓子を先に食べました」
「怒られませんでしたか」
「怒られました」
「どうしたのです」
「二人で台所に謝りにいきました。お客様の分だったので」
少女は口を開け、それから声を立てて笑った。
私が誰かの妹だったことを知る顔だった。彼女の知っている私は、伴奏を弾き、転びそうな椅子を押さえる大人ばかりだったのだろう。
「サビーヌ様は、叱られたことがなさそうです」
「たくさんあります」
「今も?」
「今は、叔母が少し呆れます」
昨夜、部屋へ戻る途中、私は叔母に『階段の途中で笑わないでちょうだい。転ぶわよ』と言われた。何がおかしかったのかは聞かれなかった。それがかえって、おかしかった。
船長は菓子を一つ取り、半分に割ろうとした。固くて割れず、私に一つ丸ごと渡す。
「お姉様と、今も秘密の家に入りますか」
「もう、入れないでしょうね。二人とも大きくなりました」
「そうですか」
声が少し沈んだ。
私は、布の端からのぞく白い靴下を見た。膝を抱えていても、フリーダの足はもう船からはみ出していた。
「でも、姉の家に泊まると、夜更かしはします。子どもの頃はできなかったことです」
「叱られないから?」
「お茶を自分で淹れられるからです」
彼女はそれを考えた。
「私は、まだ、お湯は駄目です」
「そうですね」
「お茶ではなくて、果物水ならできます」
船長は船から這い出した。
しばらくして、使用人と一緒に小さな盆を運んで戻った。瓶から注いだ果物水は、三つの杯に分けられていた。
「お父様の分です」
言ってから、少し迷う顔になった。
「書類にこぼしたら、もっと長くなりますか」
「たぶん」
彼女は父親の杯を船の入口に置いた。
待つ場所を作ったのだと、私は思った。
◇
父親が来たのは、果物水がすっかりぬるくなってからだった。
戸口に現れた彼は、布の船を見て一度立ち止まった。
「帆が低いな」
「雨ですから」
船長の返事には、理屈よりも威厳があった。
「ここから入ってください」
公爵は上着を脱いで椅子にかけ、片膝をついた。そこから先が難しかった。まず肩がつかえ、次に背中で布を持ち上げ、最後に椅子の脚を蹴りかけた。
「船を壊さないでください!」
「努力している」
彼がどうにか腰を下ろすと、船の容積の半分ほどがなくなった。
私は壁となっている椅子に寄った。フリーダは父親の膝を遠慮なく押し、杯を渡した。
「ぬるくなりました」
「ありがとう」
「お仕事は終わりましたか」
「今日は終わりだ」
彼女の足が、私の足に当たった。嬉しいとき、人は広くなるらしい。
三人で菓子を食べた。
彼は私のそばの小皿を取ろうとして、また布を揺らした。私は皿を渡す代わりに、菓子を一つ、その手に載せた。
指が触れる。
それだけで、雨音が一瞬遠くなった。
彼が私を見る。私は少女を見た。少女は父親の杯の中身が減ったかどうか見張っていた。
こういう場所でこそこそ喜ぶ二十四歳になるとは、秘密の家にいた頃の私には想像できなかった。
「お父様は、小さいとき何をして叱られましたか」
「誰から聞いた」
「まだ何も聞いていません」
見事な自白だった。
彼は一つ息をつき、庭の梨を採ろうとして、木に登った話をした。上がるときは簡単で、降りるときには枝が遠く見えたという。
「お祖父様が助けたのですか」
「庭師が梯子をかけてくれた」
「お祖父様は?」
「下で梨を食べていた」
私は笑ってしまった。
地図に『宿料理まずい』と書いた人が、枝の下で実になっている息子を見上げていた。その姿は、不思議にはっきり想像できた。
「ひどいです」
フリーダは憤慨した。
「翌年から、長い棒の先に袋をつけて採ることを教わった」
「最初に教えるべきでした」
「私もそう思った」
父親と娘が、会ったことのない人の意地悪さについて意見を一致させた。けれど彼の声には、会えないことを嘆く重さはなかった。懐かしさが、雨の日の菓子と一緒に座っていた。
そのあと船長は、海の探偵ごっこを始めた。
消えた菓子の犯人を捜す話だった。皿が空なので容疑者は三人しかいない。私が調べ役をすると言った途端、二人から疑われた。
「犯人は、そう言うものです」
「読んでいない巻まで、よく分かっているな」
父親が感心している。
「では証拠を見つけてください」
私は胸を張った。
直後、フリーダが私の袖に付いた菓子屑を見つけた。
逃げ場がない船だった。
◇
夕方、荷造りのために船は解かれた。
布がなくなると、広間は急に大きく見えた。フリーダは折り畳まれた膝掛けを見て、少し唇を突き出したが、最後には自分で房を揃えた。
彼女が祖母のところへ衣装を持っていったあと、私は残った楽譜を集めた。
「明日は、馬車が別だな」
隣で椅子を戻していた彼が言った。
「王都へ戻っても、会えます」
「分かっている」
分かっていても嫌なのだという顔をしていた。
私は楽譜を胸に抱えた。
「私も、朝食でお会いできなくなるのは残念です」
「パンを落とす人は減る」
「バターを塗りすぎる人も」
彼が笑い、私の髪に触れた。
湖はまだ煙っていた。最後に晴れてくれなくても、この一日は失敗ではなかった。
私は彼の手首を取り、指先に短く口づけた。
彼の表情が変わったことが、嬉しかった。
「王都でも、私からお誘いします」
「待っている」
そう答えた人の手が、なかなか離れなかった。




