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婚約解消された令嬢は、強面公爵様の最愛の妻になりました  作者: 星舟能空


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第11話 船長の知らない航海

 ルセル湖には、潮の匂いがしなかった。

 水辺へ立ってから、その当たり前のことに気づいた。

 海賊の曲を何度も弾いているので、私は水を見ると全部、海にしたくなるらしい。


 六月の終わり、公爵家の湖畔の別邸へ、一週間の滞在に招かれた。

 叔母とエーベル夫人も一緒だった。

 誕生日の前に、フリーダの小舟を見てほしい、と公爵の手紙にはあった。

 別の小さな紙に、私自身も、湖をあなたと歩きたいと思っています、と書き添えてあった。


 私はその紙だけ、手帳へ挟んだ。


 別邸へ着くと、フリーダが玄関から飛び出してきた。

 紺色の上着を着ている。

 白い服はまだ仕立ての途中なので、誕生日用とは違うものだった。


「船を見ましょう」


 少女は、私の鞄を見た。


「それは、後で」


 女中が笑いながら鞄を受け取ってくれた。

 私は帽子だけ持ち直して、少女についていった。


 桟橋には、小さな手漕ぎ舟が繋がれていた。

 内側が赤く塗ってある。

 船首には、白い鳥が描かれていた。


「私の船です」


 フリーダは胸を張った。


「まだ、一人では乗れません」


 その次の言葉で、公爵が後ろからうなずいた。


「そこを、忘れずに」


 少女は父親を見た。

 どうやら、すでに何度か交わした話らしかった。


「今日は、三人で乗れますか」


 フリーダが聞いた。

 公爵は、私へ目を向けた。

 私は舟を見た。

 思ったより小さい。

 思ったより、水が近い。


「揺れますか」


 尋ねると、公爵は正直に答えた。


「少し」


 少女が、私の手を取った。


「大丈夫。私がいます」


 私はその顔を見た。

 頼られるばかりだった少女が、今日は頼られたがっていた。


「では、船長。お願いします」


 フリーダは、大きくうなずいた。


 *


 舟は、乗る時にいちばん揺れた。

 私は声を上げそうになり、公爵の腕を掴んだ。

 彼は桟橋に片足を残し、舟を安定させていた。


「ゆっくり」


 低い声が近かった。

 私は椅子へ腰を下ろした。

 フリーダが正面に座り、公爵が櫂を取った。


 舟が、岸を離れた。

 陸が遠ざかる。

 ほんの少しなのに、帰り方が変わった気がした。


「お上手ですね」


 私が言うと、公爵は櫂を引いた。


「この湖では、子どもの頃から遊びましたから」


 フリーダが、すぐに付け加えた。


「落ちたことも、あるのです」


 公爵が娘を見た。

 少女は、たいへん楽しそうだった。


「おばあ様が、おっしゃいました」

「母上は、詳しくお話しになる」


 私は笑った。

 公爵は、櫂を片方だけ動かして舟の向きを変えた。


「サビーヌ様へは、落ちた後に自分で岸へ戻ったことも伝えてくれ」


 フリーダは考えた。


「それは、聞いていません」


 公爵の評判には、少し不公平があるらしかった。


 私は水面へ手を伸ばしかけた。

 フリーダがすぐに言った。


「乗り出しては、いけません」


 私は手を戻した。


「はい、船長」


 公爵が、笑うのを堪えている顔になった。

 フリーダは気づいていたが、今日は叱らなかった。


 *


 岸の浅いところで、公爵が櫂を娘へ渡した。

 自分はすぐ横に座り、柄を一緒に持つ。

 フリーダは顔を真っ赤にして、引いた。

 舟は、横へ向いた。


「こちらではないのに」


 少女が言った。

 公爵は笑わず、片方の櫂を動かした。


「両方、同じだけ」


 もう一度。

 今度は、少し前へ進んだ。

 フリーダが私を見た。


「進みました」

「本当に」


 私は拍手をしそうになり、舟が揺れそうなのでやめた。

 代わりに、両手を胸の前で握った。


「立派な航海です」


 少女は得意そうにした。

 公爵の手が、娘の手のすぐ外側にあった。

 全部を代わってしまわず、必要な時だけ動く手だった。


 私はその手を見ていた。

 温室で繋いだ手と、同じものだった。


 帰りの舟で、フリーダは少し疲れたらしく、私の横へ移った。

 肩が触れる。

 私は背をまっすぐにして座った。

 少女が、だんだん寄りかかってきた。


「眠っても、大丈夫ですか」


 小さな声で尋ねると、公爵はうなずいた。

 櫂の動きが、少しゆっくりになった。


 湖の向こうには、低い山があった。

 山の青が水へ映っている。

 静かな午後だった。


 公爵が、私を見た。

 私は、眠りかけた少女を起こさないように、少しだけ笑った。

 彼も笑った。


 何かを約束したわけではない。

 でも、この景色の中に自分がいることを、私は嬉しく思った。


 *


 夕食の後、フリーダは早く眠った。

 舟を漕いだ腕が重いと言いながら、明日も乗ると宣言していた。


 大人たちは、小さな広間でお茶を飲んだ。

 叔母とエーベル夫人は、湖畔に咲く花の話を始めた。

 マルタ様は、その花が昔より減ったとおっしゃった。

 私は窓の外を見た。


「少し、歩きますか」


 公爵が隣で尋ねた。

 私はうなずいた。


 庭は、月の光で白く見えた。

 遠くの桟橋に、小さな灯りが一つある。

 昼間より、水の音がよく聞こえた。


「腕は、お疲れではありませんか」


 私が聞くと、公爵は自分の腕を見た。


「明日、娘より先に弱音を吐かないようにします」


 私は笑った。

 彼が少し、歩調を緩めた。


「演奏会の日のことを」


 私は顔を向けた。

 公爵は、続けた。


「一つだけ、お話ししたかった」


 私はうなずいた。

 謝ってもらうために、覚えていたわけではない。

 でも、彼が何を話すかは聞きたかった。


「あなたが、聞いてほしかったと言ってくださって、よかったと思っています」


 私は、すぐには返事をしなかった。


「困らせたのでは」

「残念でした。ですが、平気だったことにしてしまう方が、後で困ったでしょう」


 公爵は、湖を見た。


「私は、間に合ったことにできません。次の機会を作って、埋め合わせた顔をするのも違う」


 私は彼の横顔を見た。


「ですから、次にあなたが弾く時は、私が聞きたい。そのお願いを、改めてさせてください」


 私は小さく笑った。


「湖の曲を、書きたくなりました」


 彼がこちらを向いた。


「今日の舟の曲ですか」

「はい。船長が途中で眠る曲です」


 公爵が笑った。


「では、急がずお待ちします」


 私も、笑った。

 これで、次の話ができた。


 *


 桟橋へは行かず、庭の端の低い石垣で止まった。

 公爵が、私へ手を差し出した。

 私は自分の手を重ねた。

 温室の夜より、迷わなかった。


「サビーヌ様」


 名前を呼ばれ、顔を上げた。

 彼は、しばらく私を見ていた。


「私は、あなたに会う日を数えています」


 胸が、大きく鳴った。


「娘の稽古の日も、あなたから本が届く日も。仕事の予定と並べて書いて、先にそちらを見てしまう」


 私は彼の手を握った。


「私も、手紙が来ると、すぐに開けます」


 公爵の目が、少し柔らかくなった。


「あなたが好きです」


 夜の水音が、遠くなった。

 私は、その言葉を聞いていた。

 何度も心の中で繰り返す前に、自分でも答えたかった。


「私も、あなたが好きです」


 言えた。

 公爵が、一度、深く息をした。

 いつもより若く見えた。


 彼の手が、私の頬へ触れた。

 私は目を閉じた。


 最初の口づけは、短かった。

 唇が離れてから、私は彼の上着へ手を置いた。

 うつむくと、胸元の布しか見えなかった。


「サビーヌ」


 もう一度、名前を呼ばれた。

 今度は、少し違った。


 私は顔を上げた。

 彼が、笑っていた。

 私も笑った。


「アウグスト様」


 初めて、声に出して呼んだ。

 彼の表情が変わった。

 その変化が嬉しくて、私はもう一度、同じ名前を呼びたくなった。


 けれど、先に彼が顔を近づけた。

 私は目を閉じた。

 今度は、短くなかった。


 *


 広間へ戻った時、叔母はお茶を飲んでいた。

 エーベル夫人は窓の外を見た。

 マルタ様だけが、私たちの手を見た。


 私は慌てて離しかけた。

 公爵は、強くは握らなかったが、すぐにも離さなかった。


「夜風は、冷たくありませんでしたか」


 大奥様が尋ねた。


「大丈夫でした」


 私が答えると、大奥様はうなずいた。

 それ以上、何も言わなかった。


 部屋へ戻る階段で、公爵は私の手を離した。


「おやすみなさい」


 彼が言った。

 私は、手すりへ手を置いた。


「おやすみなさい、アウグスト様」


 彼は、またあの顔をした。

 嬉しさを、うまく隠せない顔。


 私は階段を上がった。

 娘さんは、もう眠っている。

 今日の船長が知らない航海を、私は一つ、始めてしまった。


 明日も、同じ家で彼に会える。

 そのことを考えるだけで、足音が軽くなった。


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