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壁を越えて君へ

『壁を越えて、君へ』~ボルダリングジムの天才クライマー~

第1期 前半(第1話〜第12話)


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第1話「引退した天才と、初めての壁」

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東京・下北沢。駅から徒歩五分の雑居ビル三階に、『クライミングジム VERTICAL』は静かに存在していた。

外観はそれほど目立たない。だが扉を開けると、十二メートルの壁が四方に広がる本格的なボルダリング施設が現れる。


「いらっしゃいませ」


受付カウンターから顔を上げたのは、日焼けした肌にすらりとした体躯を持つ少年——桐嶋きりしま かなで、十八歳。

白いスタッフTシャツの袖から伸びる腕は、年齢に似合わぬ筋肉の筋が浮いている。ボルダリングで鍛えられた前腕は、ある種の美しさを持っていた。

奏は今、このジムのスタッフだ。

だがかつては——日本ジュニアボルダリング選手権を三連覇し、十七歳でワールドカップを制した、文字通りの「天才」だった。


-


その日の午後、ジムの扉が勢いよく開いた。


「えーと……ボルダリングって、ここで体験できますか?」


声の主は、長い黒髪を一つに束ねた女性——鷹宮たかみや りん、二十二歳。スポーツウェアの上に薄手のパーカーを羽織り、少し緊張した面持ちでカウンターを見つめていた。

整った目鼻立ち。細いのに程よく引き締まった体。


「もちろんです。体験コースはこちらの料金表をご覧ください」


奏は淡々と説明を始めた。彼女が美人であっても、業務は業務だ。

——のはずだった。


体験講習が始まり、奏が壁に近づいた瞬間。


「じゃあまず、壁に正対して——」


凛がバランスを崩した。

後ろに倒れかけた彼女の体を、奏が反射的に支える。

気づけば、彼女の背中に奏の手が回り、顔と顔の距離は十センチもなかった。


「……っ!?」

「す、すみません! バランスが……」


凛の顔が耳まで赤くなる。奏も自分の手の位置に気づいて、素早く離れた。

が——そのとき、彼女の着ていたウェアの裾が奏の手に引っかかり、ずり上がった。

白い脇腹。そして、鮮やかなオレンジのスポーツブラの端が、一瞬だけ視界に入った。


「…………」

「み、見ましたね!?」

「……見てません」

「絶対見た!」


顔を真っ赤にした凛が手で腹部を押さえる。奏はカウンターに戻り、こめかみを押さえながら静かに言った。


「……次の課題に進みます」

「逃げてる!! スタッフとして謝ってください!!」


この日、鷹宮凛は体験コースを終えて帰った——そして翌日、正式に会員登録した。


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第2話「青いホールドと、赤い顔」

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凛が入会して一週間。彼女は週に四回ジムに通い始めた。

理由は明白だった——上達が早いのだ。


「腰をもっと壁に近づけて。ホールドは押すんじゃなく、引き付けるイメージ」

「こ……こうですか?」


奏の言葉を一つ一つ真剣に聞き、反復する。初心者とは思えない飲み込みの速さ。奏は内心、少しだけ感心していた。


この日、ジムにはもう一人の新規会員が来ていた。

大きな目と天真爛漫な笑顔の持ち主——花宮はなみや 莉子りこ、二十歳。体育大学の学生で、運動神経には自信があるという。


「わたし、ぜったい上手くなれますよね!?」

「努力次第です」

「そっけない……! でもそこがいい! ギャップ萌えってやつですね!」


莉子は来るなり奏の腕を掴んでブンブン振り回した。その際、彼女の豊かな胸が奏の腕に当たり——


「……っ」

「あ、ごめんなさい! 当たっちゃいました?」


莉子がきょとんとした顔で奏を見上げる。奏は表情を変えずに答えた。


「……問題ありません。講習を始めます」


その様子を壁の前で見ていた凛が、なぜか口をとがらせた。


「……べ、別に気にしてませんけど」

(誰も凛さんに聞いてないですよ、と奏は思ったが口には出さなかった)


-


その夜、一人のジムに残って壁を眺めながら、奏は小さくため息をついた。

——今日も壁を登らなかった。

スタッフとして、生徒に教える姿勢は見せる。ホールドの位置を指示する。体の使い方を実演することもある。

でも、「本気で」登ることはしない。

それが奏の、引退の形だった。


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第3話「更衣室の向こうの声」

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ジムの奥には更衣室が二つある。スタッフは管理のため、時々備品チェックに入ることがある。

その日、奏は倉庫と更衣室が隣接していることをすっかり忘れていた。


「あれ、チョーク袋ってここだったっけ……」


奥の棚を探していると、薄い壁越しに声が聞こえてきた。


「りこちゃん、あのスタッフの人どう思う?」

「どうって——めちゃくちゃ格好良くないですか!? 無口なのに、教え方すごい丁寧で!」

「年下なのにね。でもなんか、目が大人っぽい……」


凛と莉子の声だ。

奏は棚の奥で微動だにしなかった。


「でもさ、昨日ちょっと触れちゃったとき、あの子すごい慌ててたじゃないですか。かわいくないですか?」

「かわいいって年下に言う?」

「言います! あ、でもわたし今日ウェア忘れてきて、一回帰ろうかな……」

「脱いで登る気?」

「……それもアリかな、と!」


壁の向こうでどたばたと笑い声がする。奏は棚からチョーク袋を無言で取り出し、倉庫を出た。

——顔が熱い。

今日はエアコンの設定温度がおかしいのかもしれない、と奏は思うことにした。


-


翌日、莉子が更衣室からジム本体に戻ってくる扉を、奏が反対側から開けた。

バターン——という音とともに、二人はぶつかった。


「きゃっ!?」


莉子がたたらを踏んで倒れかける。奏が咄嗟に支えようとした結果、体が密着した。

彼女はまだ着替えの途中だったらしく——スポーツブラ一枚の状態で、奏の胸に飛び込んできた。


「ご、ごめんなさい!? ノックしなかった私が悪いんですけど!?」

「……こちらこそ失礼しました」


奏はすぐに距離を取り、無表情で頭を下げた。


「なんで謝ってる方が顔赤いんですか!!」

「……エアコンが」

「壊れてないですよ!?」


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第4話「才能の痕跡」

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ジムのオーナーは奏の父の旧友で、奏を引き取るようにしてスタッフに雇った壮年の男性だ。

ある日、彼がカウンターに一枚の写真を置いた。


「懐かしいだろ?」


写真には、優勝トロフィーを掲げた少年が映っていた——十五歳の奏だ。

満面の笑顔で、目が輝いている。今の奏とは別人のようだった。


「……捨てといてください」

「なんでだ。お前が誇るべきものだろう」


奏は答えなかった。


その様子を、偶然受付近くにいた凛が見ていた。

彼女は何も聞かなかった。ただ、少しだけ奏の横顔を見つめた。


-


講習の後、凛が水を飲みながら奏に話しかけた。


「……ねえ、奏くんって昔、ちゃんと登ってたの?」

「今も登っています。指導のために」

「そうじゃなくて」


凛の言葉は静かだった。奏はしばらく黙っていた。


「……昔は、登っていました」


その短い言葉の中に、凛は何かを感じた。


帰り道、彼女はスマホで「桐嶋 奏 クライミング」と検索した。

出てきた記事のタイトルを見て——息を呑んだ。


『天才クライマー桐嶋奏、突然の引退。理由は語られず』


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第5話「夜のジムと、伸ばした手」

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閉店後のジムに、凛だけが残っていた。

奏が最後の清掃をしていると、壁の前で凛が一人、難しい課題に挑んでいた。


「……まだいたんですか」

「もう少しだけ。この三段のルート、絶対に落とすから」


三段——初心者に挑めるレベルではない。だが凛は食い下がっていた。


奏は止めなかった。黙って見ていた。


三回目の挑戦。凛の指先が最後のホールドに届いた、その瞬間——指が滑った。

落下。マットに背中から落ちた凛が、天井を見上げながら言った。


「……くやしい」


奏はしゃがんで凛の目線に合わせた。


「右手の三本指が弱い。もう少し手首を返せば止まる」

「……なんで、そんなにわかるの?」


凛がゆっくり起き上がる。奏は答えなかった。

代わりに——壁に向かった。

ゆっくりと、課題のスタートホールドに手をかける。

そして一手、また一手。無駄のない動きで、課題を完登した。


「……!」


凛は息を呑んだ。

奏の動きは、美しかった。

技術というより——まるで壁と対話しているような、静かな強さがあった。


「こういうムーブです」


奏はマットに降り、振り向きもせず言った。


「……奏くん」

「はい」

「また、教えてくれる?」


奏は少し間を置いた。


「……それが、仕事です」


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第6話「三人目のホールド」

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ジムの会員が増えてきた。

奏はその日、新しい体験者の対応をしていた。


現れたのは、ストレートの茶髪をサラリと流した女性——神代かみしろ みお、二十四歳。IT企業のエンジニアで、運動不足解消のために来たという。


「私、運動神経ゼロなんですよね。でもボルダリングって頭使うって聞いて」

「はい。課題を読む思考力が重要です」

「じゃあエンジニア向きかも。よろしくお願いします、先生」


澪はにこりと微笑んだ。目が細くなる、落ち着いた笑顔。知的な印象の女性だった。


講習が始まった。


澪の問題は、握力というよりも「体を壁に預けることへの恐怖」だった。

奏がスタート位置で動けない澪の後ろについて、腰を支えながら言った。


「重心を前に。怖くないです、落ちてもマットがある」

「わかってるんですけど……体が言うこと聞かなくて」


奏が手を引いて体を傾けさせる——その拍子に、澪の体が奏の方にもたれかかってきた。

背中から胸まで、全体重が奏に預けられた形になる。


「……あ」


澪が気づいて素早く立て直したが、奏の手はまだ彼女の腰に当たっていた。


「す、すみません……」

「問題ありません。よくあることです」


奏が平然と言う。

少し離れた壁で見ていた凛がぼそりとつぶやいた。


「……よくあることって何が?」


横から莉子が小声で言う。


「ねえ先輩、もしかして嫉妬してます?」

「してません」

「顔に書いてあります」

「してません!!!」


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第7話「感動回——指先の記憶」

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澪が入会して半月が経った。

彼女は毎回、同じ課題に取り組んでいた。初段のルート——初心者には難しい壁だが、澪は黙々と挑み続けていた。


ある夜、澪がスマホを見ながら浮かない顔でジムに来た。


「……今日は少しだけ登って帰ります」


奏は何も聞かなかった。澪が壁に向かうのを、ただ見ていた。


だが、スタートから三手目で澪の動きが止まった。

手が震えている。


「……っ」


彼女がホールドから離れ、マットに座り込む。目を閉じて、唇を噛んでいた。


奏はゆっくり近づき、隣に座った。


「話さなくていいです」

「……奏くんって、なんで引退したの」


突然の問いだった。


奏はしばらく黙っていた。


「……父が、病気になったんです。ちょうど大きな大会の直前だった」

「……」

「試合に出るか、傍にいるか。父は出ろと言いました。でも——出られなかった」


澪は奏を見た。


「父は今は回復しています。でも、あのとき一度、辞めると決めたから」

「……後悔してる?」

「……たまに」


奏は正直に言った。


「でも、ここにいると、登ることが嫌いじゃないってわかる」


澪は少しだけ目を細めた。


「私も今日、大事なプロジェクトが失敗したんです。自分の設計ミスで。みんなに迷惑かけて」

「……それで、ここに?」


澪がうなずく。


「落ちてもいい場所に来たかった」


奏は何も言わなかった。

ただ、課題の壁に向かって立ち、言った。


「一緒に登りますか」


その夜、澪は初めて初段を完登した。

マットに降りた彼女の目には、涙が光っていた。


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第8話「水着の間違い」

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夏が近づいてきた。


ジムが海の近くではないにも関わらず、その日更衣室に忘れ物があった。

ビニール袋の中に入った——水着一式。


「……なんで?」


奏がカウンターで途方に暮れていると、莉子が駆け込んできた。


「あった! よかったー! 来る前に海寄ったから入れてたやつ!」

「……更衣室に置いていかないでください」

「すみませんでした! でも、見てないですよね? 中身」

「見てません」


奏は答えたが——ビニール越しに、鮮やかな黄色のビキニが透けていたことは言わなかった。


「よかった! あ、じゃあ着替えてきます!」


莉子が更衣室に消える。


数分後。


「奏くーん! ファスナー壊れちゃったみたいで! ちょっと来てもらえますか!?」

「……え」

「水着のじゃないですよ! ウェアのです!」


更衣室の扉が少し開き、莉子の腕だけが外に伸びる。

扉越しにウェアの背中を渡されて、奏は黙ってファスナーを確認した。


「あー完全に噛み込んでる。新しいの持ってきます」


倉庫で替えのウェアを持ってきて扉越しに渡す。と思いきや——莉子が扉を少し広く開けすぎた。

一瞬。水着のまま立っている彼女の上半身が、視界に入った。


「——っ」


奏は即座に目をそらした。


「……ウェア、ここに置きます」

「あ、ありがとうございます……って、見ましたよね!?」

「一ミリも」

「嘘つかないでください!!!」


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第9話「四人目の挑戦者」

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八月。ジムの扉を豪快に開けて入ってきた女性がいた。


「ここがVERTICALか! 噂は聞いてたぜ!」


ショートヘアに筋肉質な体。小柄だが全身からエネルギーが溢れている——城ノじょうのうち 桃香ももか、二十一歳。同じ区内の別のジムに通っていたが、奏の評判を聞いて移ってきたという。


「桐嶋奏くんだろ? 三連覇の元天才。あんたに教わりたくてきた」

「……ここでは、ただのスタッフです」

「はっ、謙遜するな。そのムーブ、本物かどうか俺が試してやる」


桃香はすでに実力者だった。スタート直後から流れるようなムーブで壁を登り始める。

他の女性メンバーも目を丸くして見ていた。


「……うまい」


奏が思わず言った。桃香が振り向いてニヤリとする。


「だろ? じゃあ次はあんたが教えてくれ」


桃香の実力は本物だったが——弱点もあった。「力技」に頼りすぎることだ。


「全身で壁と対話する感覚が必要です」

「対話ね……体のどこで?」


「……こういうことです」


奏が桃香の腕を取り、ホールドへの正しいアプローチを実際に誘導した。

桃香が奏の手の誘導に従いながら、真剣な顔で言った。


「……あんたの手、あったかいな」

「……講習です」

「わかってるって。でも——ちょっと鼓動速くなった」

「……それは運動のせいです」

「そうかな?」


桃香はまっすぐな目で奏を見た。

奏は視線をはずした。


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第10話「感動回——桃香の壁」

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桃香が入会して二週間が経ったある日、彼女がいつもと違う顔でジムに来た。

表情が固い。


奏は声をかけなかった。桃香が壁に向かい、同じ課題に何度も挑み、何度も落ちる様子を見ていた。


一時間後、桃香は荒い息のままマットに倒れ込んだ。


「……なんで、できないんだ」


低い声だった。


奏がそっと近づいた。


「……前のジム、辞めさせられたんですか?」


桃香の肩が震えた。


「……インターハイの選考でミスって。チームに迷惑かけた。コーチに——もうお前はいらないって言われた」


奏は黙って聞いた。


「強くなって証明したい。でも、いくらやってもあいつらの顔が浮かんで……体が固くなる」


奏はしばらく考えてから、壁の前に立った。


「見ていてください」


そして——奏が、本気で課題に挑んだ。

いつもの「指導用」ではない。本来の、奏の動きだ。

壁と対話するような、滑らかで力強い登り。


他の会員もざわめいた。凛も、莉子も、澪も、手を止めて見ていた。


奏が完登し、マットに降りる。


「……誰かに証明する必要はない。壁は正直です。あなたが本当に強くなれば、壁が認めてくれる」


桃香はしばらく黙っていた。


そして——泣いていた。


「……バカみたい、私」

「強い人間が泣くのは、バカじゃないです」


桃香はぐしぐし目をこすって、立ち上がった。


「……もう一回、やる」

「どうぞ」


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第11話「壁際の告白未満」

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秋が来た。


VERTICALには今や、固定の常連メンバーが揃っていた。

凛、莉子、澪、桃香——四人とも、最初に奏が教えた女性たちだ。


ある夜、ジムの棚の整理をしていた奏に、凛が近づいてきた。


「……ねえ」

「はい」

「奏くんって、好きな人いるの?」


奏の手が止まった。


「……仕事中です」

「仕事関係ない。答えて?」


凛は珍しく、真剣な顔をしていた。


「……いないです」

「じゃあ、私のこと——」


そのとき、バン! と勢いよく扉が開いた。


「ただいまーーー!! 今日の大会、三位でしたー!!」


桃香が汗だくで飛び込んできた。莉子と澪も後ろからついてきて、ジムが一気に騒がしくなった。


「お疲れ、おめでとう」

「ありがとう奏! 凛先輩と澪さんと莉子が応援来てくれてさ!」


凛は少し間があってから、表情を和らげて笑った。


「……よかったね、桃香」


奏は凛を横から見た。

彼女が言いかけたこと——何だったのか。

それを聞けないまま、夜が更けていった。


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第12話「五人目と、引力の法則」

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十月のある昼下がり、ジムにまた新しい顔が現れた。


ゆるいウェーブがかかった金茶色の髪。ゆったりとしたワンピースの上から大きめのカーディガンを羽織った女性——水無月みなづき 沙羅さら、二十五歳。ファッション誌のスタイリストという職業に、誰もが納得する見た目だった。


「ここって、ネイルしてても大丈夫ですか?」

「できれば外してください。ホールドが滑ります」

「あー、そうですよね……」


沙羅はため息をついた。


「実は友人に勧められて来たんですけど、運動はほとんどしてなくて。でも綺麗な体になりたくて」

「目的は明確なので、続けやすいと思います」


奏が淡々と答える。沙羅はくすりと笑った。


「褒めてるんですか?」

「事実を言っています」

「それが褒め言葉ってわかってて言ってます? ……この子、天然?」


沙羅が小声で凛に聞くと、凛がうなずいた。


「天然というか……独自の周波数で生きてるというか」

「ふふ、それ好きかも」


沙羅の体験講習が始まった。

彼女の問題は柔軟性ではなく「重心移動の感覚」だった。


「腰が後ろに引けてます。もっと壁に体を預けて——」


奏が実演しようとして、沙羅の位置を調整しようと後ろから手を添えた。

その瞬間、沙羅のカーディガンのボタンが奏の袖に引っかかり、するりと一つ外れた。


何が起きたかわからない沙羅と、何が起きたか理解した奏。


「……あの」

「……気づいていないなら気づかないままで」


奏が静かに言った。


「ちゃんと気づいてるじゃないですか!!!」

「……失礼しました」


その夜、ジムには凛・莉子・澪・桃香・沙羅の五人全員がいた。

五人で笑いながら話している姿を、奏は少し離れた場所から見ていた。

——なぜだろう。この光景が、嫌いじゃない。


奏の口元に、かすかに笑みが浮かんだ。


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      第1期 前半 了

    (第13話〜第24話に続く)

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『壁を越えて、君へ』~ボルダリングジムの天才クライマー~

第1期 後半(第13話〜第24話)


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第13話「チョーク袋と指の距離」

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十月下旬。VERTICALには今や活気が満ちていた。

五人の常連たちがそれぞれ課題に向き合い、笑い、時々悔しがる——その光景が日常になっていた。


この日、奏は新しい課題のホールドを壁にセットしていた。

高い位置のホールドに脚立を使ってアプローチしていると、下からチョーク袋を渡してくれたのは沙羅だった。


「はい、これ」


手渡す際に、二人の手が重なった。

沙羅の細い指と、ホールドで鍛えられた奏の指。


「……ありがとうございます」

「どういたしまして」


沙羅が笑う。奏は視線をホールドに戻す。


その様子を見ていた莉子がぼそっと言った。


「……最近、さらさんよく奏くんの近くにいますよね」

「気のせいでしょ」と凛。

「先輩の目が笑ってないですよ?」

「笑ってます!!!」


-


その日の終わり。帰り際に沙羅が奏に話しかけた。


「ねえ、手の皮って厚くなる?」

「続けていれば」

「痛い?」


奏は自分の手のひらを見た。たくさんのホールドと、落ちた衝撃と、積み重ねた時間が刻まれた手。


「慣れます」

「……それって壁のことだけじゃなくて、色々なことに言えそう」


沙羅がしみじみと言った。


「……登ることが好きですか?」


奏は少し間を置いてから、答えた。


「……わかりません。でも、嫌いじゃない」


沙羅はその言葉をしばらく転がすように聞いて、微笑んだ。


「それ、案外大切なことかもしれないですよ」


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第14話「シャワーと、壁と、すれ違い」

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ジムには小さなシャワーブースが二つある。閉店後は基本的にスタッフ用だが、遅い時間まで残った会員が使うこともある。


その夜、奏が掃除道具を片手に廊下を歩いていると、シャワーブースの扉が勢いよく開いた。


「——っ」

「きゃ!!」


タオルを巻いた凛が飛び出してきた。

廊下の電球が一つ切れていてうす暗く、奏は凛に気づかなかった。


二人が真正面からぶつかる。

奏の腕が咄嗟に凛を支え、凛の手が奏の肩を掴む。


一瞬の静止。


凛がタオル一枚の状態で、奏の腕の中にいた。


「……」

「……」


「で、出てってください!!!」


奏は素早く反転して廊下の端まで歩いた。


「……電球、切れていました」

「それを先に言う!? そういう問題じゃないでしょ!?」


凛の声が廊下に響く。


「……目、つむってました」

「嘘ですよね?」

「嘘じゃないです」

「……なんで言い切れるんですか! 顔赤いじゃないですか!」

「……暗いのでわかりません」


電球が切れているのに「暗い」と言えた奏の精神力を、凛は少しだけ認めたくなかった。


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第15話「感動回——凛の過去」

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十一月に入り、VERTICALの外は木枯らしが吹くようになった。


ある夜、凛が珍しく一人でジムに来た。それも、夕方の六時という早い時間に。

午後のジムに客は少なく、奏がカウンターに一人でいた。


「……今日、早いですね」

「なんか、家いたくなくて」


凛が壁の前に座り込んで、膝を抱えた。


奏は何も言わず、お茶を二つ持ってきて隣に置いた。自分もその場に座る。


「……ありがとう」


しばらく沈黙。


「私さ、昔バレーやってたんだよね」


凛が話し始めた。


「高校でキャプテンで、インターハイも出て。でも大学で怪我して、もう試合には出られなくなった」

「……」

「部活はコーチで残ったけど、選手の子たちが活躍するの見てると、時々すごく苦しくなって。今でも夢でバレーしてる。起きたら泣いてることもある」


奏は黙って聞いていた。


「だからボルダリング始めたの。違うスポーツなら、あの頃と比べなくていいから」

「……賢い選択だと思います」

「でも……最近、また夢見て。今日は実家から連絡来て、昔のチームメイトが結婚するって聞いて。なんか色々、混ざっちゃって」


凛が目元を拭った。


奏はしばらく考えてから、立ち上がった。


「——壁、登りますか」

「……え?」

「今夜は、ただ登りましょう。課題じゃなくていい。好きなように」


凛は一瞬考えて、立ち上がった。


その夜、二人は二時間、並んで壁を登った。

言葉はほとんどなかった。ただ、壁があって、ホールドがあって、体を動かした。


帰り際、凛が言った。


「……ありがとう、奏くん」

「……どういたしまして」


凛が扉を閉める直前、振り返った。


「あなたのそばにいると、なんか——楽になれる気がする」


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第16話「真冬のウェアと暖かさ」

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十二月になった。


ジムの外は本格的な冬だが、VERTICALの中は体を動かす人間たちの熱気で温かかった。


莉子が新しいウェアを着て現れた。白地に淡いピンクのストライプ。体にフィットしたデザインで、運動する彼女に似合っていた。


「どうです、かわいいでしょ?」

「……動きやすそうです」

「そこ! そこで『かわいい』って言うとこですよ!」


奏は淡々と次の課題説明を続けた。


「はあ……奏くんって女の子に免疫ないんですか?」

「ありません」

「正直すぎ!!!」


この日の課題はダイノ——両手で大きく飛んでホールドを取る、ダイナミックなムーブだ。


莉子が大きくジャンプし、ホールドを取った——が、戻るバランスを崩し、真後ろに落ちた。

奏が反射的にキャッチする体制で前に出た結果——莉子が正面から奏に飛び込む形になった。


胸に顔を埋めた形で止まる。


「……ふごっ」


莉子が顔を上げる。鼻先が奏の顎にぶつかるほどの距離。


「……大丈夫ですか」

「ふ、ふふふ……奏くんって胸板あるんですね……」


莉子の顔が段々赤くなる。


「……降ります」

「あ、うん!」


後ろで見ていた桃香が腕を組んで言った。


「あいつ、全然動揺してないように見えて目だけ泳いでるよな」


凛がしみじみとうなずいた。


「わかる」


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第17話「元天才の試験」

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十二月中旬。VERTICALに、見知らぬ男性客が来た。

三十代前半、がっしりとした体躯。腕のホールドタコが本物の登り手であることを示していた。


「桐嶋奏くんだよね?」


男は奏を見て言った。


「はい」

「俺、青峰って言って——今、ナショナルチームのコーチやってるんだ」


ジムの中の空気が変わった。


「……お越しいただきありがとうございます。体験でしょうか」

「違う違う。君のことを観に来た。今でも登れるって聞いたから」

「……誰から?」

「オーナーさん。君、最近また本気で登り始めてるって」


奏は何も言わなかった。


青峰コーチは壁を見上げた。


「一本、見せてくれないかな」


-


奏は一分ほど黙っていた。

そして——壁に向かった。


五人の女性たちが、それぞれの場所から奏を見た。

凛が。莉子が。澪が。桃香が。沙羅が。


奏の指がホールドに触れる。


そこから先は——誰も口を開かなかった。

奏の動きは以前よりも更に洗練されていた。

一手一手に感情が宿っているようで、技術というより芸術に近かった。


完登。


静寂の後、桃香が口を開いた。


「……すごい」


青峰コーチがゆっくりと言った。


「……まだやれる。君はまだ、トップを狙える」


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第18話「感動回——奏の決断」

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青峰コーチが帰った後、ジムに残っているのは五人だけだった。


誰も何も言わなかった。


奏はカウンターで書類を整理するふりをしていた。

凛が近づいた。


「……戻るの?」

「……まだ決めていません」

「戻りたいの?」


奏の手が止まった。


「……わかりません」


桃香が腕を組んで言った。


「戻れよ。勿体ない」

「桃香……」と凛。


「いや、マジで。あんな動きができるのに現場にいないとか、ありえない。私が代わりに行きたいくらい」


桃香の声には怒りではなく、切実さがあった。


澪が静かに言った。


「でも、奏くんが決めることだよ」


沙羅が続けた。


「ここにいたい理由も、戻りたい理由も、どっちもあるんじゃないかな」


莉子は何も言わなかった。ただ、奏をまっすぐ見ていた。


奏はしばらく黙ってから、立ち上がって壁に向かった。


ゆっくりと、課題のない壁を手で触れた。


「——ここが好きです」


振り向いた奏の表情は、いつもより少し柔らかかった。


「みなさんが登るのを見ていると、楽しい。誰かが壁を越えるのを見ると——嬉しい」


一瞬の沈黙。


「だから——今は、ここにいます」


莉子の目に涙が光った。

凛は下を向いて、唇を噛んで、笑った。


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第19話「クリスマスとホールドと誤解」

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十二月二十四日。


VERTICALは通常営業だったが、五人全員がジムに来た。

誰かが小さなクリスマスツリーの置物を持ってきて、カウンターに飾られていた。


「クリスマスにジムってどうなんですか私たち」と莉子。

「いいじゃないですか。好きな場所でいたい人たちといる」と澪。

「ロマンある」と沙羅。

「私はパートナーがいないからここが一番落ち着く」と桃香。

「……同じく」と凛。


奏は黙ってカウンターで作業していた。


この日、課題のセット替えがあり、奏は高い位置のホールドを取り付けていた。

脚立に乗り、壁の上部を作業していると——脚立が少し揺れた。


反射的に壁を掴んだ拍子に、上にいた奏の体が前のめりに傾く。

下にいた沙羅が支えようとして——奏が沙羅の上に重なるように降りてきた。


二人が壁際でもつれて、マットに倒れ込む。


沙羅の上に奏が乗っかった形。顔が近い。


「……大丈夫ですか」

「……は、はい……」


沙羅の顔が真っ赤だった。


そこへ全員が振り返った。


「「「「……」」」」


凛が空を仰いだ。莉子が「ズルい……」とつぶやいた。桃香が「なんで脚立ごときで」と言った。澪が「クリスマスだから?」と言った。


「違います!!」と奏と沙羅が同時に叫んだ。


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第20話「年越しと五人の本音」

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大晦日。


ジムは夜に閉まった。だが五人は帰らず、奏を含めた六人でオーナーから借りた小さな会議室でひっそりと年越しをすることになった。


カップラーメンと缶チューハイと菓子が並ぶ、質素な年越し。


「なんでこうなった」と桃香。

「誰かが言い出したんですよ」と莉子。

「私じゃないです」と澪。

「私も」と沙羅。

「……私かも」と凛。


奏は黙ってお茶を飲んでいた。


カウントダウンの少し前、莉子がぽつりと言った。


「私さ、体大で運動やってるのに全然自信なかったんですよね。ここ来て、初めてスポーツが楽しいってわかった気がした」


澪が続けた。


「私は失敗が怖かった。でも壁は、何回落ちても怒らないから」


桃香が言った。


「……強くなるって、誰かに認めてもらうことじゃないってわかった。奏に言われてから、ちょっと楽になった」


沙羅が笑った。


「私はまだ、探してる途中かな。でもここに来るのが一番好きな時間になってる」


凛が最後に言った。


「……私は——奏くんのそばにいたくて、来てる」


全員が静まった。


奏がお茶を飲もうとして、止まった。


「……それは——」

「冗談です」


凛が笑った。でも——目は笑っていなかった。


カウントダウンが始まった。


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第21話「新年と初日の出と転落」

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元旦。


六人は近くの公園に初日の出を見に行った。

防寒具に身を包んで、夜明け前の公園で並んで座る。


凛が奏の隣にそっと座った。


「……寒い?」

「少し」


奏が答えると、凛がコートのポケットからホッカイロを取り出して差し出した。


「はい」

「……ありがとうございます」


日が昇り始めた。

薄いオレンジ色の光の中に、VERTICALの五人と奏がいた。


莉子が写真を撮りながらはしゃいでいる。澪が静かに空を見ている。桃香が一人で柔軟している。沙羅がスマホに景色を収めている。


凛が奏に小声で言った。


「……ねえ」

「はい」

「今年も、ここにいてくれる?」


奏はしばらく空を見てから、答えた。


「……います」


凛が小さく笑った。

その瞬間、足元で莉子が滑った。莉子が凛に寄りかかり、凛が奏に激突し、三人がドミノ倒しで雪の残る地面に転がった。


「いたたたた!!」

「もう莉子!!」

「すみません!!」


奏が下敷きになった形で、凛と莉子の二人に乗られた。


「……あけましておめでとうございます」

「あ、「あけましておめでとうございます!!!」」


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第22話「春前の告白リレー」

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二月。バレンタインデーの直前。


ジムのカウンターに小さな包みが五つ置いてあった。


「全員からですか」


奏が目の前に並ぶ五人を見た。


「ははは」と桃香が後頭部を掻く。「義理だよ、義理」

「ほぼ義理ですよ」と澪が笑う。

「私のは六割本気です」と莉子。

「……本気の割合を言わないでください」と凛が顔を赤くする。

「センスで包んだだけで気持ちは素直に受け取ってもらえれば」と沙羅。


奏は五つの包みを一つずつ受け取り、丁寧にカウンターに並べた。


「……ありがとうございます」


それだけ言って、次の課題説明に入った。


「もっと何か言ってよ!!!」


五人の声が重なった。


-


その夜遅く、ジムに一人残った奏が五つのチョコレートを前に静かに座っていた。

——こんなに、大切に思ってくれる人たちがいる。

かつては壁だけが全てだった。

今は——ここに来ると、彼女たちがいる。笑う。ぶつかってくる。泣く。強くなる。

奏の口元が、ほんの少し緩んだ。


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第23話「感動回——桜と、伸ばした手の続き」

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三月。ジムの窓から桜が見え始めた。


この日、奏に呼び出しがあった。父からの電話だ。


「奏、元気か。青峰さんから聞いたぞ。お前のこと、ナショナル候補に推薦したいって言ってた」


奏は黙っていた。


「お前が引退した理由——俺のせいだな」

「……違います」

「違わないだろ。でも奏——お前はもう、俺の心配しなくていい。もう一度、登ってくれ」


電話を切った後、奏はしばらく窓の外を見ていた。


-


夜、ジムに来た凛が奏の様子に気づいた。


「……何かあった?」

「……父から電話が」


奏が少しだけ話した。凛は黙って聞いた。


「また、考えてるの? 戻ること」


奏はゆっくりうなずいた。


「でも——ここも、大切です」


凛が立ち上がって、壁に向かった。


「じゃあ、一緒に登ろう。今夜は何も考えないで」


二人で並んで壁に触れる。桜の色が夜空に滲んで見えた。


登り終えた後、凛が言った。


「ねえ、奏くん」

「はい」

「私——ずっと好きだよ」


奏は動かなかった。


「……答えなくていい。言いたかっただけだから」


凛が歩き始めようとする。


「——凛さん」


奏が呼び止めた。


「……もう少し、待ってください」

「……え?」

「今はまだ、自分のことがわかっていない。でも——気持ちがないわけじゃ、ない」


凛は少しだけ目を潤ませて、笑った。


「……うん。待つ」


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第24話「壁の向こうへ」

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四月。春の風が下北沢の路地を吹き抜ける。


VERTICALに、五人全員が集まっていた。


奏はこの日、ナショナル候補の選考会への参加を決めた——とオーナーから告知された。


「……やっぱり行くんだ」と桃香。表情は複雑だが、目は輝いていた。

「当然だよ」と澪がうなずく。

「絶対頑張ってください!」と莉子の目に涙が光る。

「……応援してます」と沙羅が微笑む。

「……うん」と凛が一番短く、でも一番重く言った。


奏はカウンターの前に立って、五人を見渡した。


「選考会が終わっても——ここには戻ります」

「戻ってくるってこと?」

「スタッフを辞めるわけじゃないです。選手としてやりながら、ここで教えることも続けたい」


オーナーが苦笑した。


「まあ、そういう無茶も悪くないか」


奏が壁に向かった。


「最後に——一本見ていてください」


五人が壁の前に並ぶ。


奏がホールドに手をかけた。

指が滑らない。足が迷わない。体が壁に沿って流れるように動く。

それは講習でも実演でもない——ただ、奏が壁を登ることを楽しんでいる姿だった。


完登。


五人が拍手した。


桃香が叫んだ。

「かっこよすぎんだろ!!」


莉子が泣きながら笑った。


澪が「また明日ね」と言った。


沙羅が「写真撮っておけばよかった」と悔やんだ。


凛が壁を一歩、触れた。


「——私も登る」


奏が隣に立った。


「どうぞ」


凛が笑って、壁へと手を伸ばした。


-


春の夜、VERTICALの窓から明かりが漏れていた。

壁に向かう人たちの声と、ホールドを掴む音が聞こえる。

外を歩く人は、なんとなくその窓を見上げた。

そこには——壁と、人と、笑顔があった。


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      第1期 後半 完

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【登場人物まとめ】


桐嶋きりしま かなで18歳

元ボルダリングジュニア三連覇・ワールドカップチャンピオン。父の病気を機に引退し、VERTICALのスタッフに。口数は少ないが教え方は丁寧。感情を表に出さないが、目は正直。


鷹宮たかみや りん22歳

高校バレーのインターハイ選手だったが怪我で引退。今はボルダリングで新しい自分を探している。ツッコミ担当。奏への気持ちを誰より先に自覚した。


花宮はなみや 莉子りこ20歳

体育大学在籍。天真爛漫な関西弁混じりの元気娘。奏のギャップにはっきりと弱い。泣き笑いが得意。


神代かみしろ みお24歳

IT企業エンジニア。静かで知的。プロジェクト失敗の夜に奏と壁を登り、人生観が少し変わった。


■ 城ノじょうのうち 桃香ももか21歳

別ジムから移ってきた実力者。サバサバしているが、奏に「壁が認める」と言われて変わった。実は涙もろい。


水無月みなづき 沙羅さら25歳

ファッションスタイリスト。最年長。包容力があり、全員の関係をそっと見守っている。奏への感情は自分でも整理中。


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      第2期へ続く

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