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冤罪で追放された令嬢、呪い持ち魔導師公爵と100日限定の契約結婚します  作者: swingout777


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8/12

すれ違い(呪いの代償)

会計局へ向かう途中、エイドリアンの歩幅が急に変わった。

速くなったのではない。――乱れた。

同じ速度なのに、重心が揺れている。結界の“薄い場所”が、彼の歩き方に出てしまっている。


リュシアが声をかけようとした瞬間、彼が先に言った。


「来るな」


突き放す言葉。

第5話と同じ拒絶。

でも、今回は違う。拒絶の輪郭が鋭すぎる。余裕がない拒絶だ。


「……閣下?」


リュシアが一歩近づくと、エイドリアンは肩越しに振り向いた。

目が冷たい。冷たいのに、焦点が合っていない。

まるで“今”を見ていない目。


そして、右手。


袖口の下、黒紋の周囲の皮膚が裂けている。

ひび割れが、昨日より深い。

赤黒い線が増えている。

傷が、広がっている。


リュシアの喉が詰まった。

怖い。

敵より怖いのは、この傷の増え方だ。

“削れるだけ”では済まない増え方。


「……傷、悪化してる」


言った瞬間、エイドリアンの口元がわずかに歪んだ。

笑いではない。痛みを噛み潰す歪み。


「見るな」


低い声。

命令というより、懇願に近い。

見られたら崩れる、という声。


リュシアは息を吸った。

見ないまま進めば、彼は一人で崩れる。

見て止めようとすれば、彼は突き放す。

どちらも地獄だ。


「私は――」


言いかけた瞬間、エイドリアンの結界が揺れた。

空気が“割れる”感覚。

薄い膜が裂け、冷気が溢れ出す。


通行人の足音が一瞬止まった。

誰も理由を口にしない。

理由を口にした者から消される街だ。

でも、空気の異常は伝染する。

恐怖が、群衆の肩に乗る。


エイドリアンが息を荒くし、右手を強く握りしめた。

黒紋が脈打ち、絵面が“黒い火傷”みたいに広がる。

その輪郭が、封印文字に似てきている気がする。

共鳴が、彼自身を“封印側”へ寄せている。


(自我が……崩れかけてる)


彼の視線が、ふっと泳いだ。

リュシアではなく、何もない空間を見ている。

“過去の一日”を見ている目。

記憶を失った夜の続きを、今ここで見ている目。


「……お前は、近づくな」


声が変わった。

いつもの公爵の声ではない。

もう少し低く、もう少し乾いている。

まるで、別の誰かが口を借りているみたいな声。


リュシアの背筋が凍る。

突き放しが、ただの拒絶ではない。

彼の中の“守り”が、彼の自我を侵食し始めている。


(兆候だ。終盤の兆候)


百日が切れる日が近いわけじゃない。

でも“切れ目”は、すでに入っている。

結界異常が悪化し、黒紋の傷が増え、視線が今を外し始めている。


リュシアは拳を握り、口癖を喉の奥で固定した。


(私は、私で選ぶ)


選ぶのは、彼に近づいて鎮静することか。

それとも、突き放しを受け入れて距離を取ることか。

首輪が鳴る。失敗すれば永続保護。


リュシアは一歩だけ、踏み出した。

その一歩を、限界まで小さくする。

距離ゼロではない。

でも距離を捨てもしない。

――“飛べるように付ける首輪”の範囲での前進。


「私は、あなたを壊させない」


声は震えないようにした。

震えれば、彼の中の“別の声”が勝つ気がした。


エイドリアンの目が一瞬だけリュシアに戻る。

戻った目の奥に、恐怖があった。

敵への恐怖じゃない。自分への恐怖だ。


次の瞬間、彼は背を向け、さらに冷たく言い捨てた。


「……ついてくるな」


突き放し。

でも、その言葉の裏に、確かな“願い”がある。


――巻き込むな。

――消えるな。

――俺が壊れる前に、逃げろ。


リュシアはその願いを飲み込み、息を吸った。

逃げない。

でも、無理に触れない。

今は、彼の崩壊兆候を“記録”し、手順として扱う。


自我が崩れる前に、局長私室へ。

原本の残り半分を奪い、審問の舞台を潰す。

それが、彼を壊さない最短距離だ。


エイドリアンの「ついてくるな」が、背中に刺さったまま歩く。

言葉の棘が痛い。

でも棘の奥にある願い――巻き込むな、消えるな――が分かってしまうから、余計に苦しい。


会計局の外壁が見えた。

白い石。整然とした窓。秩序の顔。

あの中に局長の私室がある。残り半分がある。

それなのに、足が一瞬だけ重くなる。


理由は、彼の結界だ。


さっきまで、歩くたびに感じていた“膜”が薄い。

空気の温度差が、曖昧になっている。

いつもなら守りの輪郭が、肌に触れるように分かるのに――今は分からない。


(……紋が薄い)


リュシアは無意識に指輪を握り、刻印の熱を確かめた。

熱はある。

あるのに、外側の壁が弱い。

刻印だけが熱くて、守りが追いつかない。


「閣下……?」


呼びかけても、エイドリアンは返事をしない。

歩幅は乱れたまま。呼吸は浅いまま。

そして右手の甲を、袖の中で何度も握り直す癖。

痛みを抑える癖。

――抑えるほど薄くなる癖。


黒紋は“濃く”見えるのに、結界は“薄い”。

矛盾が怖い。

濃いのは傷。薄いのは守り。

つまり、削れているのは守りの方だ。


(守り低下……)


守りが低下すれば、追手は近づける。

声を嗅げる。息を嗅げる。

会計局の耳が、こちらの息遣いまで拾える。


リュシアの背筋が冷えた。

不安が胸に膨らむ。

首輪の条項が、遠くで鳴っている気がする。

失敗すれば永続保護。

失敗の定義は“私の暴走”だけ。

でも、守りが薄いと暴走は誘発される。誘発は敵の得意だ。


(百日が近い)


日数の実感ではない。

空気の“期限”が近い。

守りの膜の厚みが、確実に減っている。

まるで百日の残りが、目に見える形になっているみたいに。


リュシアはエイドリアンの横顔を見た。

強い輪郭。冷たい目。

けれど、その奥に“焦り”がある。

焦りがあるから突き放す。

突き放すほど孤立する。

孤立するほど、守りは薄くなる。


「……ねえ」


リュシアは、距離を詰めずに言った。

触れない。距離ゼロにしない。

でも、切らない。

首輪の範囲で、声だけ繋ぐ。


「守りが薄い。……あなた、限界が近いの?」


エイドリアンの肩が、ほんの僅かに揺れた。

返事はない。

でも、揺れが返事だった。


リュシアの喉が痛んだ。

怖い。

怖いのは彼が壊れること。

壊れたら、私はまた奪われる。

奪われたら、首輪が永続になる。


(だから急ぐ)


守りが薄いなら、手順を短くする。

余計な動きを削る。

局長私室へ一直線。

“残り半分”だけを奪う。

審問の舞台が完成する前に、根拠を折る。


リュシアは口癖を胸に固定した。


(私は、私で選ぶ)


選ぶのは、焦りに飲まれずに急ぐこと。

矛盾みたいな選択だ。

でも、今はその矛盾を抱えないと勝てない。


会計局の門が見えた。

門番の視線が刺さる。

刺さるのに、いつもより刺さり方が痛い。

結界が薄いからだ。

守りが薄いと、視線が刃になる。


エイドリアンが低く言った。


「……話すな。見るな。息を揃えろ」


命令の形をした、自分への言い聞かせ。

彼は今、守りを張りながら、自分の自我も繋いでいる。

薄い膜を、必死に繋いでいる。


リュシアは頷き、息を揃えた。

一緒に崩れないために。

一緒に消えないために。


百日が近い。

時間ではなく、膜の厚みがそう告げていた。


会計局の門をくぐった瞬間、空気がさらに乾いた。

紙と金属の匂い。インクの匂い。秩序の匂い。

そして――“封印文字”に似た、冷たい匂い。


守りの膜が薄いせいで、その匂いが直接肺に刺さる。

リュシアは息を揃えた。揃えないと、白くなる。


廊下の角を曲がったところで、エイドリアンが急に足を止めた。

壁際の影。誰もいない場所。

なのに彼は、そこへ“逃げる”みたいに寄りかかった。


右手が震えている。

黒紋が疼く。

薄い結界が、ちぎれそうに揺れる。


「……閣下」


声を落とすと、エイドリアンは顔を上げた。

目が冷たい。けれど、冷たいだけじゃない。

怖がっている目だった。自分の内側を。


「近づくな」


また、突き放し。

でも今の声は、さっきより弱い。

弱いからこそ怖い。弱い拒絶は、崩れる前兆だ。


リュシアは距離を詰めずに言った。


「薄い。守りが薄い。……理由を言って」


一拍。

エイドリアンの喉が動いた。

言うか言わないかで迷う動き。

迷いのあと、彼は吐くように言った。


「呪いだ」


たった一言で、廊下の空気が変わった。


「……呪い?」


リュシアの声がかすれる。

怖い。

“呪い”という単語は、説明不能の闇だ。理屈の外側だ。

理屈の外側は、監査では戦えない。


エイドリアンは、右手を袖の中から出した。

黒紋が見える。

絵面が、痛々しい。

ひび割れが増え、赤黒い線が皮膚を走っている。


「これが、契約の“対価”じゃない」


低い声。

告白というより、事実の宣告。


「俺は生まれつき、封印と同じ性質を持ってる。守りに見えるのは……反転した封印だ」


反転。

守りの壁が、実は封印の裏返し。

だから封印文字に共鳴する。

だから王宮書庫で増幅する。

だから薄くなる。


リュシアの背筋に恐怖が走る。


「……じゃあ、守りは最初から“削る前提”なの?」


「そうだ」


即答。

その即答が、さらに恐怖を増やす。

逃げ道がないと分かるから。


「守れば守るほど、封印が俺の内側に戻る。戻った分だけ……俺の“自我”が削れる」


自我。

第8話S1で見た焦点の合わない目。

別の誰かが口を借りる声。

崩壊兆候は、気のせいじゃなかった。


恐怖が、怒りに変わった。


「……そんなの、ひどい」


言葉が鋭くなる。

怒りは彼に向けたものじゃない。

この仕組みを作った“誰か”に向く怒りだ。


「誰がそんな呪いを――」


エイドリアンが、笑ったように息を吐いた。

笑いじゃない。自嘲だ。


「誰だと思う」


リュシアの胸が冷えた。

答えが、もう見えている。


会計局。局長。審問。封印登録者。

王宮書庫の封印を動かす“本人”。

この世界の記録を握る者が、人の存在も握れる。


リュシアの怒りが、さらに強くなる。

拳が震える。


「……局長が?」


「局長“だけ”じゃない。あいつは手順を握ってるだけだ。呪いは……もっと古い」


古い。

王宮の根。貴族の根。血統の根。

“表に出ない名”の根。

書庫官が言った言葉が蘇る。


リュシアの怒りが、次の段階へ落ちた。

哀しみだ。

この男は、ずっとこれを抱えて生きてきた。

守るほど自我が削れる仕組みの中で、“公爵”を演じてきた。


「……だから、百日なの?」


リュシアの声が小さくなる。


エイドリアンは頷かない。

けれど、目を逸らした。

逸らした目が答えだった。


「百日で、薄くなる。守りの膜が。……限界が来る」


リュシアの胸が痛い。

痛すぎて息が詰まる。

怖い。怒り。哀しみ。全部が同時にある。


「じゃあ、百日を越えたら――」


言いかけて、言葉が途切れた。

答えを聞きたくない。

でも聞かないと、選べない。


エイドリアンは、静かに言った。


「越えたら、守りは崩れる」


「……崩れると?」


「封印が戻り切る。俺の中に。……俺は俺じゃなくなる」


その言葉が、喉を刺した。

怖いのは、死じゃない。

“自我が死ぬ”ことだ。

存在が帳簿から消えることより、本人が本人でなくなることのほうが残酷だ。


リュシアの目が熱くなる。

泣きたいのに、泣けば判断が落ちる。

首輪の“失敗”に近づく。

だから泣かない。泣かない代わりに、哀しみを刃にする。


「……じゃあ、あなたはずっと」


言葉が震えた。

震えを止めるために、リュシアは歯を食いしばった。


「守りながら、自分を削ってたの?」


エイドリアンの指先が、わずかに震えた。

返事はない。

沈黙が肯定だった。


リュシアは深く息を吸い、怒りを静かに整えた。

今は感情に溺れない。

感情を、段取りに変える。


「代償は理解した」


声を低くする。

監査官の声に戻す。

泣く声ではなく、戦う声に。


「だからこそ、局長私室で終わらせる。

審問の舞台を壊す。

原本を揃える。

あなたの呪いが“必要になる状況”を、消す」


エイドリアンがこちらを見た。

焦点が、少しだけ戻った。

“今”を見た目になった。


リュシアは、震えるほど小さく――でも確かに言った。


「あなたが壊れるのが、もっと怖い」


哀しみが落ちる。

落ちた哀しみは、もう戻らない。

戻らないから、前に進むしかない。


廊下の奥で、金属の音が鳴った。

局長私室の方向。

扉が開く音。

誰かが入った音。


時間切れが近い。

敵が舞台を作る前に、こちらが舞台を壊す番だ。


局長私室の方向から、扉の蝶番が鳴った。

小さな音なのに、脳の奥が警鐘みたいに反応する。

――中に誰かがいる。あるいは、もう“準備”が始まっている。


リュシアは一歩だけ前に出た。

距離は詰めない。触れない。

けれど、逃げない。

その一歩が、今の二人の関係の形だった。


エイドリアンは壁に背を預けたまま、息を整えようとしている。

黒紋が疼く。守りの膜が薄い。

呪いの告白が、まだ空気に残っている。


――守るほど自我が削れる。百日で限界が来る。


その事実の前で、リュシアは泣かなかった。

泣けば崩れる。

崩れれば“首輪”が締まる。

だから泣かない。泣かない代わりに、強さを出す。


「……ねえ」


リュシアは静かに言った。


「あなたが守るのは、私じゃない」


エイドリアンの目が動く。

反論を探す目。

だが、リュシアは続ける。


「“私が守られる側”でいる限り、あなたは削れる。

それが呪いの仕組みなら、私はもう、その仕組みに乗らない」


言葉が、胸の奥から出てくる。

強がりではない。

現実を見たうえでの選択だ。


エイドリアンが低く言った。


「無理だ。お前が前に出れば――」


「出る。でも、暴走しない。手順を飛ばさない」


首輪の条項を、自分の口から言う。

縛られているから言うのではなく、選んだから言う。


リュシアは自分の指輪を見せるように、拳を少し上げた。

赤い刻印が熱を帯び、薄い結界と微かに共鳴する。


「触れれば鎮まる。あなたが言った。

なら、あなたが削れる前に、私が“鎮める手順”を持つ」


エイドリアンの瞳が揺れた。

拒絶ではない。

“対等”という発想に、初めて触れた揺れだった。


リュシアは、さらに踏み込む。

踏み込むが、距離は詰めない。

言葉だけで詰める。


「あなたは壁になるな。

壁になるほど、あなたの自我が削れる。

私は、それを犠牲として受け取らない」


犠牲拒否。

それはわがままに見える。

でも、わがままじゃない。

犠牲を前提にした勝利は、最後に必ず折れる。

勝っても負けても、残るのは傷だけになる。


「私が勝つのは、あなたを壊して勝つことじゃない」


声は震えない。

震えたら説得じゃなくなる。

これは宣言だ。夫婦の役割の宣言。

守る者と守られる者の固定を崩す宣言。


エイドリアンは一拍、黙った。

そして、かすかに笑ったように息を吐いた。


「……強くなったな」


その言葉が、リュシアの胸の奥に落ちる。

嬉しいわけじゃない。

悲しいわけでもない。

“対等の芽”が、確かにそこに生まれた感覚。


リュシアは首を横に振った。


「強くなったんじゃない。

弱いままでも、選ぶって決めただけ」


口癖が胸で鳴る。


(私は、私で選ぶ)


そして、選んだ先にあるのは――局長私室。


リュシアは廊下の奥、扉の影を見た。

敵が作ろうとしている舞台。審問。正しさの処刑。

それを止めるには、局長の手元の“残り半分”を奪うしかない。


「行くよ」


短く言う。

命令ではない。合意を求める言葉でもない。

“共同作業”の開始の言葉。


エイドリアンが壁から離れ、わずかに姿勢を正した。

守りの膜は薄いまま。

でも、目の焦点が戻っている。

今を見ている目だ。


「……ああ」


その返事は、許可でも保護でもない。

同行。

対等の芽が、返事の形になっていた。


リュシアはもう一度、釘を刺すように言った。


「私を犠牲で守らないで。

あなたも、犠牲にならないで」


二人の間に、薄いけれど確かな“線”が引かれる。

守る・守られるの線ではない。

並ぶ線だ。


次の扉の向こうに、局長の私室がある。

残り半分がある。

そして、敵が舞台を作る前の、最後の隙がある。


廊下の奥、局長私室の扉は閉じているのに、気配だけは漏れていた。

インクの匂い。乾いた紙の匂い。金属が触れ合う匂い。

――“書き換える場所”の匂い。


リュシアは歩幅を落とした。

急げば失敗に寄る。

守りが薄い今夜は、焦りがそのまま首輪になる。


エイドリアンも同じ速度に合わせてくる。

合わせる。

その事実だけで、さっきの衝突が終わったと分かった。

突き放しでも保護でもなく、並走。


二人は扉から少し離れた影で止まり、呼吸だけを整えた。

言葉はいらない。

でも、言葉を交わさないと“作戦”は固まらない。


リュシアが、布包みをそっと取り出す。

裏目録の控え。欠落の前後。会計局の官印。

半分の原本。半分の矢印。


「……これが今夜の成果」


声は小さく、落ち着いている。

興奮はある。

でも興奮の熱は、手先まで降ろしていない。

静かな決意の温度に留めてある。


エイドリアンが目で確認し、頷く。

黒紋が薄く疼くが、暴れない。

少なくとも今は、彼の自我が保たれている。


「残りは局長私室」


リュシアが言うと、エイドリアンが即座に続けた。


「持ち出しの一枚。書き換え前の行き先。封印登録者の照合痕――全部そこにある」


作戦の言語化。

二人の頭が同じ方向を向く。


リュシアは指を折る。

段取りを、短く、確実に。


「作戦は二段」


侵入は“扉を開ける”じゃない

 → まず“局長の机”に触れる。

 → 欠落の一枚と、書き換え余白の元の文字を押さえる。


証拠は持ち出さない。痕を残す

 → 原本の押さえは“複製”で固定。

 → 欠落は欠落のまま残し、前後を揃えて“手”を浮かび上がらせる。


エイドリアンが低く言う。


「封印記号は?」


「揃えてない。だから王宮書庫は開けない。……開けないままでいい」


リュシアは言い切った。

ここで“原本全部”を狙うと欲張りになる。

欲張りは、守りが薄い夜に死ぬ。


「今夜の勝ち筋は、審問の根拠を折ること。

局長が持っている“欠落の一枚”を奪えば、舞台は崩れる」


エイドリアンは一拍置いて頷いた。

そして、確認するように言う。


「首輪の条項。――暴走するな」


「しない」


即答。

即答できるのは、覚悟が固いからだ。


リュシアはさらに言葉を重ねる。

ここが、合意の核。


「あなたは壁にならない。

私が前に出る。でも、触れない。

必要なときだけ、刻印回路で“鎮静”を使う」


エイドリアンが短く返す。


「俺は“点”で壁を置く。薄い場所だけを塞ぐ。

共鳴を増やさない」


二人の役割が決まった。

守る・守られるではない。

互いに欠けている部分を補い、犠牲を拒否する形。


リュシアは最後に、作戦の“終点”を確認した。


「私室から出たら、すぐ退く。追わない。追撃しない。

証拠を持って、審問の前に出る。

舞台を敵に作らせない。――こちらが先に崩す」


エイドリアンの目が、確かに“今”を見ている。

焦点が揺れない。

崩壊兆候が、一瞬だけ引く。


「……合意だな」


その言葉は、命令でも許可でもない。

対等な確認。


リュシアは頷いた。


「合意」


静かすぎるほど静かな決意が、二人の間に落ちる。

もう衝突ではない。

もう一人で抱えない。

一緒に、同じ手順を選ぶ。


扉の向こうで、紙が擦れる音がした。

誰かが書いている。

誰かが空白を作っている。

誰かが手順を整えている。


――なら、こちらも今、動く。


リュシアは息を吸い、口癖を胸の中で一度だけ唱えた。


(私は、私で選ぶ)


そして、局長私室へ向けて、足を踏み出した。


局長私室の扉の前で、時間の匂いがした。

砂時計の砂が落ちる匂い。

誰にも見えないのに、確実に減っていくものの匂い。


守りの膜が薄い。

黒紋が疼く。

焦点が外れかける瞬間がある。

――残り日数が、体感として迫ってくる。


リュシアは呼吸を整え、扉に手を伸ばしかけて止めた。

触れたくない。触れれば気配が動く。

いまは“触れずに入る”手順だ。


そのとき、エイドリアンが低く言った。


「……残りは、もう多くない」


リュシアの指先が冷えた。

日数の話をされると、胸の奥が急に現実になる。

百日契約が“物語の設定”ではなく、肉の期限に変わる。


「何日」


短く聞く。

聞かないと選べない。

怖いからこそ、数字にする。


エイドリアンは一拍、躊躇ってから答えた。


「……二十日を切った」


二十日。

息が止まる。

たった二十日で、この男は“俺じゃなくなる”かもしれない。

守るほど削れる仕組みが、もう残り二十日で限界に触れる。


不安が喉を締める。

でも、その不安に飲まれたら首輪が鳴る。

首輪が鳴れば自由を失う。

自由を失えば、彼の呪いと同じ形で自分も壊れる。


リュシアは唇を噛み、言葉を探して――選んだ。


「安心がなくても立てる私になる」


それは、自分への宣言だった。

守りが薄くても、期限が近くても、恐怖があっても。

安心の上でしか立てない自分は、結局また奪われる。


エイドリアンの目がわずかに揺れた。

拒絶でも承認でもない、揺れ。

そして、彼は急に声を硬くした。


「好きになるな。俺は好きなものから壊す」


突き放し。

でも、突き放しの中身が違う。

これは命令じゃない。

警告だ。

自分を知っている者の、残酷に正しい警告。


好きになれば、守りたいと思う。

守りたいと思えば、触れる。

触れれば鎮まる。

鎮まる代わりに、彼は削れる。

好きなものを守るほど、自分が壊れていく。

――だから、好きなものから壊す。


リュシアの胸が痛む。

怒りでも恐怖でもない。

哀しみと、決意が同時に刺さる痛み。


「……分かってる」


リュシアは小さく答えた。

でも、分かっていても選ぶ。

選ぶことが主体性だ。

選ばないことは、相手の手順に流されることだ。


リュシアは扉の向こう――局長の机、欠落の一枚、書き換えの余白を思い浮かべた。

ここで取れなければ、審問が始まる。

敵が舞台を作る。

そこで裁かれれば、彼はさらに削れる。

二十日は、もっと短くなる。


だから、今夜。

この扉の向こうで、舞台を折る。


リュシアはエイドリアンを見た。

突き放しの言葉の奥にあるものを、見落とさない。


――巻き込むな。

――消えるな。

――俺を好きになって、壊れ方を増やすな。


それでも、リュシアは静かに言った。

言葉にすると首輪が鳴るような、重い選択を。


「それでも私は――」


息を吸う。

怖さがある。安心はない。

でも立つ。立てる私になる。


「あなたを選ぶ」


言い切った瞬間、指輪が熱く脈打った。

刻印が、選択を固定する。

首輪の鎖が鳴るのではなく、背骨がまっすぐになる音がした気がした。


それでも私は、あなたを選ぶ。

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