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冤罪で追放された令嬢、呪い持ち魔導師公爵と100日限定の契約結婚します  作者: swingout777


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7/12

王宮書庫潜入

王宮の夜は、修道院より静かだった。

静かさの質が違う。祈りの静けさではない。――規則の静けさ。

人が音を立てないのではなく、音を立てた者が消える静けさだ。


リュシアは息を殺し、冷たい石壁に背を預けた。

胸の下で、布包みが硬く当たる。封印記号。暗号。首輪の条項。

ひとつ失えば終わるものばかりが、心臓の近くにある。


(スリル……)


怖い。

でも怖さの奥に、鋭い高揚がある。

命が削られるほど、世界が鮮明になる。

文字の陰影、金具の擦れ、遠くの足音の間隔。全部が“情報”になる。


エイドリアンが手で合図を出す。

一、二、止まれ。

裏の護衛がどこかで動いている気配がする。視界にはいない。いないから頼もしい。いないから怖い。


「ここからは私が前に出る」


リュシアが小声で言うと、エイドリアンの視線が鋭くなる。

反対ではない。――条件を思い出せ、という視線。


首輪。

失敗=永続保護。

暴走しない。手順を飛ばさない。

私は、私で選ぶ。選ぶのは“安全な侵入”だ。


王宮書庫の外廊。

扉は重く、留め具は三重。

そして、扉の横の石壁に埋め込まれた小さな板。

そこに――封印文字が刻まれている。


月明かりが当たり、文字が浮かぶ。

言葉ではない。

文字の形をした“誓約”。見ただけで喉が乾く、禁則の字。


(これが封印……)


リュシアの指輪がじんわり熱を帯びた。

刻印が反応する。

刻印回路が、封印文字を“同種”として認識している。


エイドリアンが低く囁いた。


「見るな。読もうとするな」


「読まない。――形だけ覚える」


リュシアは自分に言い聞かせた。

封印文字は“意味”で縛る。

意味に触れれば、心が削られる。

だから形だけ。癖だけ。証拠としての輪郭だけ。


書庫官が言っていた三つの封印記号。

そのうち一つは手元にある。残りは王宮側。

――審問の印が出る、と。


リュシアは影の中を進み、書庫の裏手へ回った。

そこに、小さな通気窓がある。

棚の裏に通じる細い隙間。書庫官が教えた侵入の段取りだ。


「棚へ」


リュシアが囁くと、エイドリアンが一拍置き、頷いた。

彼の息が浅い。結界はまだ乱れている。

それでも、彼は壁を張っている。壁が薄い場所に、裏の護衛を回している。


通気窓の留め具は古い。

石粉が溜まり、手入れされていない。

“ここは使われない”という顔をしている――使われる場所ほど、そういう顔をする。


リュシアは細い針金を滑り込ませ、留め具を外した。

カチ、と小さな音が鳴りそうで、心臓が止まりかける。

だが音は鳴らない。

針金が、金属の癖を掴んだ。


(癖は隠せない)


留め具が外れ、窓がわずかに開く。

冷えた紙の匂いが流れ出した。

古いインク。乾いた革装丁。蝋の残り香。

――記録の匂い。


リュシアは体を滑り込ませた。

肩が引っかかる。布包みが胸に当たり、息が詰まる。

でも止まらない。止まったら扉の外で見つかる。


中に入った瞬間、暗闇が“棚の影”として迫った。


書棚。

高い棚が壁のように並び、通路は狭い。

人が歩ける幅はあるが、視線が通らない。

ここなら隠れられる。

ここなら――捕まったら逃げられない。


(スリルが、骨に来る)


遠くで、鍵の音がした。

表の扉が開いた音ではない。

別の小扉。――審問の関係者が出入りする扉。


足音。二人。

一定の間隔。規律の足音。

その足音に混じって、衣の擦れる音がある。修道士ではない。役人でもない。

黒い手袋の擦れに似ている。


リュシアは棚の背に身を押し付け、息を止めた。

棚板の隙間から、通路の光が細く差す。

その光の中を、誰かが通り過ぎる。


袖口に、黒い輪の印。

そして、その手の甲に――封印文字と同じ形の刻み。


(本人……!)


喉が鳴りそうになるのを、歯で止めた。

読まない。触れない。意味に近づかない。

ただ、形を盗む。癖を盗む。


リュシアの指輪が熱を増した。

刻印が、相手の封印文字に反応している。

回路が繋がりかけている。


怖い。

でも――今夜は、ここまで来た。

棚の影で息をして、原本へ滑り込む。


“本人”は、すぐ近くにいる。


棚の背で息を止めたまま、リュシアは“本人”の袖口を見送った。

黒い輪の印。手の甲の封印文字。――確かに、今夜の鍵が通った。


(追えば……)


思考が先に走り、足が動きかけた瞬間。


紙の匂いが、変わった。


甘い。

喉に絡む、眠りの匂い。

修道院の香に似ているのに、もっと鋭い。もっと実務的な匂い。


(……罠)


気づいた瞬間には遅かった。

棚板の隙間、床の低い位置から、薄い霧が滑るように広がってくる。

煙ではない。煙なら上がる。これは這う。――人の足と肺を狙う這い方。


リュシアの喉がひゅっと縮んだ。

息を吸えば、入る。吸わなければ、酸素が足りない。

選択肢が削られる。第5話の路地と同じ手順。


焦りが胸に燃え上がった。


(まずい、今ここで白くなる……!)


指輪が熱く脈打つ。

刻印の熱が膜になる。

けれど、今夜の熱は薄い。――結界が乱れている夜だ。

膜が薄いときに来る罠は、容赦がない。


遠くで足音が止まった。

止まった、というより“止めた”足音。

気づいたのだ。誰かが書庫内の空気の変化に気づいた。


次の瞬間、棚の向こうから声が落ちた。


「……侵入者だ」


短い。確信している声。

確認ではない。手順の開始だ。


リュシアの判断が一段落ちるのが分かった。

焦りで視界が狭くなる。

普段なら拾えるはずの情報――足音の数、距離、出入り口の位置――が、ひとつずつ欠けていく。


(落ち着け、落ち着け……手順、手順)


そう言い聞かせるのに、言葉がうまく繋がらない。

頭の中に白いノイズが走る。

“数分が消える”前の、あの嫌な前兆。


棚の背で動けば音が出る。

動かなければ霧が濃くなる。

霧が濃くなれば判断が鈍る。

鈍れば、首輪の“失敗”に近づく。


(私は、私で選ぶ……!)


口癖を胸で繰り返し、リュシアはゆっくり息を吐いた。

吸わない。吐く。吐いて、膜を保つ。

指輪の熱が喉の奥へ走り、意識を繋ぎ止める。


そのとき――棚の影が、別の影に塗り替えられた。


冷気が一気に落ちる。


エイドリアンだ。

書庫内の温度が一段下がり、霧が“止まる”。止まるというより、凍りつく。

凍った霧は白い粉のように床へ沈み、音もなく砕ける。


そして、彼の右手。


袖がわずかにずれ、手の甲の黒紋が覗いた。

黒が、黒を上塗りする。

墨を落としたような紋様が、皮膚の上で脈を打ち、ひび割れた傷が赤黒く光る。

――絵面が、怖い。


守りの紋のはずなのに、刃の気配がある。

暴走の一歩手前の“黒”。


リュシアの胃がきゅっと縮んだ。

敵より先に、その黒が怖い。

怖いのに、頼ってしまう自分が苦しい。


「動くな」


エイドリアンの声は低かった。

命令というより、結界の一部みたいな声。


だが、その声の直後――彼の指先がわずかに震えた。

黒紋が、封印文字の気配に引かれて疼く。

共鳴が始まっている。さっき第6話で言ったとおりだ。


(まずい……ここで共鳴したら……)


リュシアの判断が、さらに落ちかける。

逃げる? 隠れる? 触れて鎮める?

選択肢が多いほど、人は焦りで誤る。

首輪が、脳裏で鳴る。


――失敗すれば永続保護。


その瞬間、通路の向こうから足音が増えた。

二人ではない。四人、六人。規律の足音。

そして混ざる、黒手袋の擦れ。


「封印区画を閉じろ。棚列を挟め」


指示の声。

書庫の“棚”を、罠の迷路に変える手順。

侵入者を棚に追い込み、霧で鈍らせ、封印で削る。


混乱が書庫の構造そのものになって迫ってくる。


リュシアは棚の背で拳を握りしめた。

焦りで判断が落ちる。

落ちるからこそ、固定する。


(私は、私で選ぶ。――手順を選ぶ)


そして、視線はエイドリアンの黒紋へ落ちる。

黒の絵面は、恐怖そのもの。

だが同時に、“今夜ここで破れない壁”でもあった。


怖い。苦しい。

それでも、今は――この黒が崩れる前に、出口を選ばなければならない。


棚列が、迷路に変わる。

灯りが揺れ、影が増える。足音が増え、呼吸が浅くなる。

その混乱の中で、リュシアの頭の片隅に“監査の回路”が戻ってきた。


焦りは判断を落とす。

――だから、数字へ落とす。

構造へ落とす。

欠落へ落とす。


(私は、ここで“探す”)


リュシアは棚の背で、視線だけを動かした。

棚板の段差。分類札。目録札の色。

王宮書庫の棚は、規則で整理されている。規則は人間の癖が入りにくい。

だからこそ、ひとつの“乱れ”が目立つ。


通路の奥から声が飛ぶ。


「棚列三、封印札を回せ」


封印札。

札が動く。札が動くなら、記録も動く。

記録が動くなら、必ず“痕”が残る。


リュシアは床の低い位置にある引き出しに気づいた。

棚の脚元。人の目線より下。

そこだけ、鍵穴の金属が新しい。

周囲の古い棚と不釣り合いだ。

――交換した。最近、何かを出し入れした。


(癖は隠せない)


鍵穴の縁に、薄い黒い粉。

封印文字と同じ匂いの粉。

封印を触った手が、ここに触れている。


リュシアの胸が高鳴った。

恐怖ではない。

有能の快感。――“当てた”快感だ。


(ここだ)


彼女は指輪を握り、熱を抑えた。

触れるな。暴走するな。

首輪の条項が脳裏で鳴る。

手順で勝つ。癖で勝つ。


棚板の影に指を差し入れ、引き出しの取っ手をほんの数ミリだけ動かす。

ギリ、と音が鳴りそうで、全身が固まる。

だが、鳴らない。

油が差してある。新しい鍵穴、新しい油。――最近使っている証拠。


引き出しの中から出てきたのは、冊子ではなく薄い紙束。

目録の“控え”だ。

持ち出し・閲覧・移送の記録。書庫官が触れない、王宮側だけが触れる“裏目録”。


リュシアは目で追う。

数字。日付。箱番号。封印記号の印。

――そして、連番。


連番が、飛んでいた。


「……ない」


声にせず、喉の奥で呟く。

一枚だけ、抜かれている。

第4話で見た“重要ページ無し”と同じ欠落。

欠落の作り方が同じ。

同じ者がやっている。


有能快感が、さらに強くなる。

怖さが薄まる。

薄まるのではなく、“扱える怖さ”になる。


(欠落が、犯人の指紋)


リュシアは連番の前後を拾う。

前の記録:原本箱の移送、夜間。

後の記録:原本箱の返却、夜間。

中だけない。

つまり、その一枚には“何か別の行き先”が書かれていた。

原本が一度、別の場所に寄った。

あるいは、返却せずに“上”へ上げた。


そこに押されている印がある。

黒い輪。封印記号の輪。

そして――小さく、別の印。


王宮の官印。

会計局の官印。


リュシアの背筋が冷えた。

しかし、冷えは恐怖ではない。確信の冷えだ。


(局長系統――確定)


修道院の回収係。

審問の噂。

王宮書庫の裏目録。

欠落の一枚。

その全部が、会計局へ収束する。


局長ヴァルター。

もしくは、局長の直轄。

封印登録者=本人が誰であれ、指示の出どころはここだ。


「……見つけた」


リュシアは紙束を布包みに滑り込ませた。

持ち出すのではなく、証拠を“残す”ために持つ。

欠落は欠落のままじゃ弱い。

欠落の前後が揃って初めて刃になる。


そのとき、棚の向こうでエイドリアンの結界が軋む気配がした。

冷気が増す。

封印文字が近い。

共鳴が強くなる。

彼の黒紋が、また絵面として浮き上がりかける。


「……急げ」


エイドリアンの声が低く落ちる。

限界が近い声。


足音が近づく。

棚列を挟み、光が揺れる。

追手は“棚”を知っている。

棚を使って追い詰める手順を知っている。


リュシアは歯を食いしばった。

今、逃げるだけなら逃げられるかもしれない。

でも逃げるだけでは、首輪は外れない。

原本へ繋がる刃が足りない。


――だから、次の一手を選ぶ。


欠落を見つけた。局長系統を確定した。

次は、“本人”へ繋ぐ。

封印登録者の固有符号を、ここで掴む。


有能快感が、恐怖に勝つ。

勝ったまま、リュシアは棚の影から動き出した。


裏目録の紙は薄いのに、重かった。

胸元の布包みに滑り込ませた瞬間、心臓の鼓動が一段速くなる。

証拠を掴んだ――はずなのに、全身に広がるのは冷たい絶望だった。


(半分だ)


欠落の連番は見つけた。

会計局の官印も見つけた。

局長系統は確定した。

でも――決定打がない。


“欠落の一枚”そのものがない。

つまり、原本の行き先は「飛んだ」ままだ。

飛んだ先が分からなければ、証拠は“疑い”で止まる。

疑いは審問で潰される。

潰されたら、首輪だけが残る。


棚列の奥で、足音が近づく。

規律の足音。黒手袋の擦れ。

棚と棚の間の細い通路が、じわじわ狭くなる感覚。


エイドリアンの結界がまた軋む。

冷気が増し、黒紋の絵面が浮き上がりかける。

共鳴。

王宮書庫の封印文字が近い。

ここに長居はできない。


リュシアは一度、目を閉じかけて――止めた。

閉じたら白くなる。

閉じたら判断が落ちる。

首輪の“失敗”へ寄ってしまう。


(執念で繋ぐ)


絶望はある。

でも絶望は、執念の燃料にもなる。

半分しか掴めないなら、残り半分を“逆算”する。


リュシアは裏目録の端を指でなぞり、紙の下部にある空白を見た。

余白が不自然に広い。

書式なら、こんな余白は取らない。

ここは本来、誰かの署名欄、もしくは“移送先の欄”が入るべき場所だ。


――書き換えがあった。


インクの濃淡が違う。

同じ字面なのに、筆圧の癖が少し違う。

削った痕。上からなぞった痕。

そして、紙の繊維がわずかに毛羽立っている。

擦って消した。書き換えた。

消したのは、行き先。もしくは、関係者の名。


(書き換えの余白……ここが決定打の入口)


そのとき、棚の影から“本人”の気配が戻ってきた。

さっき通り過ぎた黒い輪の袖口。

今度は足音が近い。

彼は追手ではない。追手を動かす側だ。

追手と同じ規律の間隔で歩くが、音が少し違う。重心が高い。

――書類を運ぶ人間の歩き方だ。


リュシアは棚板の隙間から、わずかな光を拾う。

その手が見えた。


封印文字。黒い輪。

そして、指先に――赤い染み。

血ではない。

インクだ。新しいインク。ついさっき署名したような濃さ。


(審問の前後だ)


本人は今、何かを“書いた”。

書いた場所はどこだ。

ここではない。ここなら裏目録で済む。

もっと安全な場所。もっと個人的な場所。


――局長私室。


脳裏に、鋭い線が走った。

会計局の官印がある。欠落の一枚がある。

それを保管できる場所は、局長の権限が及ぶ場所。

しかも“表の書庫”ではなく“私的な保管”が可能な場所。


局長私室。

そこでなら、行き先欄の書き換えもできる。

そこでなら、欠落の一枚も握れる。

そこでなら、原本の“移送”を隠せる。


絶望が、執念に変わる。

半分しか掴めないなら、半分の手掛かりで残りを刺す。


(残りは、局長の机の上だ)


リュシアは布包みを握りしめた。

今夜、ここで原本を奪うのは難しいかもしれない。

だが、局長へ繋がる導線は掴んだ。

欠落は、局長私室へ矢印を向けている。


棚列の奥で、声が落ちた。


「棚列四、塞げ。侵入者を挟め」


塞がれる。

このままだと詰む。

詰めば、首輪が締まる。


リュシアは息を吸い、心の中で口癖を繰り返した。


(私は、私で選ぶ)


選ぶのは、今夜の成果を“半分の勝ち”として持ち帰ること。

そして次の戦場――局長私室へ、執念で踏み込むこと。


背後で、エイドリアンの結界がまた揺れた。

黒紋の冷気が、限界の形をして押し寄せてくる。

今は撤退。

撤退は逃げじゃない。次を刺すための手順だ。


半分の絶望を抱えたまま、リュシアは棚の影から動き出した。

残り半分を取りに行く。

局長の私室へ。

書き換えの余白の“元の文字”を、必ず引きずり出す。


棚列四の奥、灯りが一段明るくなった。

火が増えたのではない。人が増えた光だ。

提灯の揺れ。金具の反射。金属が擦れる音。――捕える手順が進んでいる。


「塞げ」


短い号令が落ちる。

棚の迷路が、獲物の檻になる。


リュシアは布包みを胸に押し当て、背中を棚板に擦らないように体を薄くした。

紙が鳴けば終わる。布が擦れれば終わる。呼吸が聞こえれば終わる。

“音”が敵だ。音は記録より速い。


エイドリアンの冷気が、背後で波を打つ。

結界が乱れている。

薄い場所がある。

追手はそこを嗅ぐ。嗅げば、封印文字が共鳴し、黒紋が跳ねる。


(今夜は、ここで欲張らない)


半分は掴んだ。

局長私室への矢印も掴んだ。

なら、ここで“生きて持ち帰る”ことが勝ちになる。


リュシアは棚の隙間から、通路の靴先を確認した。

規律の靴。二人。

その後ろに、黒手袋。

本人は?――見えない。だが匂いが近い。封印文字の匂いがする。


感づかれている。


彼らは“侵入者がいる”ではなく、

“侵入者が何を触ったか”を探り始めている。

だから棚列を塞ぐ。

出口ではなく、棚の中で“手元”を押さえる。


(布包み……見られたら終わり)


リュシアは布包みを内側の衣に押し込み、衣紐を締めた。

動きは最小。

焦りを動きにすると、首輪が鳴る。


背後で、エイドリアンが指先だけで合図を出した。

三つの指――「三呼吸で動け」。

彼の声は出ない。声を出せば共鳴が増える。

黒紋を抑えながら指で指示する。

それだけで、彼が削れているのが分かる。


リュシアは三呼吸、数えた。


一。

息を吐く。

二。

足音の間隔を読む。

三。

灯りが揺れた瞬間に、体を滑らせる。


棚板の影から影へ。

視線の通らない背面通路へ移る。

その瞬間、袖が棚の角に触れた。

カサ、と布が鳴る。


心臓が止まった。


「……今の音」


通路の向こうで声が落ちる。

声の温度が変わる。確信に寄った声。


「鼠か」


別の声が応じる。

だが“鼠”と言いながら、足音が近づいてくる。

確認に来る。確認するための手順。


リュシアの判断が一瞬揺らぐ。

走る? 止まる?

走れば音が出る。止まれば捕まる。


(私は、私で選ぶ)


口癖を胸で固定し、リュシアは“止まる”を選んだ。

止まる。

動かない。

動かないことで、鼠に見せる。

動かないことで、呼吸を殺す。


追手の灯りが棚の隙間を舐める。

細い光が、棚板の裏へ差し込む。

光の線が、リュシアの靴先に触れそうになる。


その瞬間、冷気が落ちた。


エイドリアンの結界が、薄い場所だけを“点”で塞いだ。

壁全体を厚くしない。厚くすれば共鳴が増える。

薄い場所だけを塞ぐ。

――高度な制御。削れるほどの制御。


灯りの線が、わずかに曲がった。

光が“見えない壁”に押し返されるように揺れる。


追手が眉を寄せる気配。


「……風?」


誰かが言い、次に別の誰かが苛立ち混じりに言った。


「風が曲がるか。……誰か、いる」


感づかれた。

今度は確信だ。

棚列の挟み込みが強くなる。足音が増える。


「封印区画、完全閉鎖! 裏通路も塞げ!」


完全閉鎖。

逃げ道が消える言葉。

言葉だけで、扉が閉じる音が聞こえた気がした。


(まずい――!)


リュシアの喉が詰まる。

焦りが戻る。判断が落ちる。

首輪が鳴る。


そのとき、エイドリアンの声が、極小で落ちた。


「……今」


同時に、棚列の反対側で金属が落ちる音がした。

カン、と派手な音。

わざとだ。裏の護衛か、エイドリアン自身の小細工か。

注意を一瞬だけ、反対へ引く。


追手の灯りがそちらへ揺れる。

足音も、一拍遅れる。


その一拍で、リュシアは動いた。

棚の影を滑り、通気窓の方向へ戻る。

戻るのは怖い。戻れば見られる。

でも、戻る道が一番“音が少ない”と分かっている。

来た道は、音の癖を知っている。


通気窓の前に着いた瞬間、背後で声が鋭くなる。


「……女だ。匂いが残ってる」


匂い。

封印文字の匂い。刻印の熱。

追手は嗅いでいる。

つまり、もう長くは持たない。


リュシアは窓の留め具に指をかけ、ゆっくり外へ滑り出た。

肩が引っかかる。

布包みが胸に当たる。

息が詰まる。音が鳴りそうになる。


――そこで、背後から低い声が来た。


「止まれ」


近い。

棚列の角を曲がれば、見える距離。


リュシアの体が凍る。

凍った瞬間、指輪が熱を上げる。

熱が、白さを押し返す。


(出る)


出た瞬間に、走る。

走れば音が出る。

でも今は、音より命。


リュシアは窓から外へ転がるように抜け、石畳に手をついた。

背中に冷気が落ちる。エイドリアンが続く合図。

結界の波が、追手の視線を一瞬遅らせる。


「外だ!」


叫び声が上がる。

鍵が鳴る。扉が叩かれる。

完全閉鎖の“次”の手順が動き出す。


リュシアは歯を食いしばり、闇へ走った。

胸の布包みが、命の重みとして跳ねる。


背後で、確信の声が飛ぶ。


「持っていかれた。……局長に知らせろ」


その一言が、背中に刺さる。

感づかれた。

局長へ繋がった。

次は、こちらが追われる番ではない――追い詰められる番だ。


それでも、リュシアは走る。

半分の証拠を抱えたまま、残り半分を奪うために。


闇に飛び出した瞬間、肺が焼けた。

冷たい夜気が喉を切り、血の味がする。走るたび布包みが胸を叩き、証拠の重みが命の重みに変わる。


背後で、王宮書庫の鐘が鳴った。

礼拝の鐘じゃない。

区画閉鎖の鐘。人を集める鐘。

――“舞台を整えた”合図。


「局長に知らせろ」


さっきの声が、追手の合図として闇に飛ぶ。

ただ逃げるだけでは終わらない。

敵はすでに次の場を作っている。

審問の場。処刑に近い場。

こちらが動くより先に、向こうが“正しさの形”を用意する。


(時間切れ……!)


リュシアは息を吸い込み、胸の奥の焦りを押さえ込んだ。

焦りは判断を落とす。判断が落ちれば、首輪が鳴る。

首輪が鳴れば、自由が終わる。


だが、時間は待たない。

審問が動くなら、原本は“根拠”として出し入れされる。

そして出し入れされる瞬間に、欠落は作られる。

欠落は既にある。なら、次は“確定の欠落”を作りに来る。


エイドリアンが隣で走りながら、声を落とした。


「迷うな。止まれば君が消される」


その言葉が、胸に刺さる。

消されるのは命だけじゃない。

証言が消える。記憶が消える。行動の自由が消える。

――私という存在が、帳簿から消える。


リュシアは歯を食いしばり、走りながら布包みを確かめた。

裏目録の控え。

欠落の前後。

会計局の官印。

局長系統の確定。

でも、“欠落の一枚”そのものはない。


半分。

掴んだのは半分。


そして、その半分が示しているのは、はっきりしている。


――残りは、局長の手元。


リュシアの頭に、棚の引き出しの余白が浮かぶ。

不自然に広い余白。擦って消した痕。上からなぞった痕。

空白は、誰かが触れた跡だ。

触れた者の癖が、空白の形になる。


リュシアは走りながら、低く言った。


「空白は“誰かの手”の形になる」


誰の手か。

会計局長ヴァルターの手。

あるいは、局長の私室で手を動かせる“本人”の手。

どちらにせよ、空白の続きを持っているのは王宮ではない。

会計局長室――さらに奥。私室。


敵が舞台を作るなら、こちらも舞台をずらす。

審問の光の下ではなく、審問が始まる“前”に。

原本が審問へ運ばれる前に。

あるいは運び出される直前に。


(局長私室へ)


脳の中で、段取りが再構築される。

王宮書庫で原本を奪うのは難しい。共鳴が強すぎる。

結界が乱れすぎる。

なら、原本が“動く途中”を狙う。

原本が“私室にある時間”を狙う。


敵は、審問でこちらを裁くつもりだ。

裁く前に、根拠を奪う。

根拠を奪えば、舞台は崩れる。


背後で足音が増える。追手が合流している。

屋根の上、路地の角、街灯の影。

視線が刺さる。

逃げるだけなら追いつかれる。

逃げる先に“目的”が必要だ。


エイドリアンが一瞬だけ振り返り、冷気を薄く伸ばした。

追手の足音が一拍遅れた。

薄い壁を“点”で置く制御。削れる制御。

彼の顔色が、ほんの僅かに悪い。


(削らせない。壊させない)


首輪の条項が頭を叩く。

失敗=永続保護。

暴走しない。手順を守る。

私は、私で選ぶ。


選ぶのは、今夜の次の一手。

審問より先に、局長私室へ滑り込む。


そして、残り半分――欠落の一枚と、書き換え前の“元の行き先”を奪う。


原本は半分。残りは会計局長の私室にある。

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