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冤罪で追放された令嬢、呪い持ち魔導師公爵と100日限定の契約結婚します  作者: swingout777


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証人が消える

路地の空気が、刃になった。


黒い手袋の男たちは、声より先に配置で語る。

左右に割れ、背後へ回り、出口を塞ぐ。――逃げ道を消す動き。奪うのは命じゃない。まず奪うのは“選択肢”だ。


リュシアは紙束を胸に押し当てた。

紙が薄いせいで、心臓の鼓動がそのまま伝わってくる。ドクン、ドクン。音が大きすぎる。怖い。指先が冷たい。


(狙いは私じゃない)


瞬間的に理解した。

狙いは“証言”だ。

職人の口。職人の手。職人の記憶。――そして、リュシアが胸に抱えた欠落の束。


男の一人が、職人へ視線を投げた。

その目が、獲物を見る目だった。値段ではなく、処理の対象としての目。


「おい。こっちだ」


声は低い。優しくも荒くもない。

“回収”の声だ。物を持ち帰る声。


職人の肩が跳ね、足が一瞬止まった。

止まった瞬間が、死ぬ瞬間だ。


リュシアは咄嗟に職人の袖を掴んだ。

掴んだ自分の手が震えている。恐怖で震える手なのに、離したくない。


「走って!」


声が裏返る。

その瞬間、男の手袋が空を切った。リュシアの掴んだ袖を狙って伸びる。指先が布に触れかける。


――そこで、空気が凍った。


エイドリアンの結界が一段厚くなる。

見えない膜が路地の幅いっぱいに張られ、男の指先が“止まる”。止まるというより、押し返される。金属が磁石を嫌うように。


男が舌打ちした。


「やっぱり公爵家か」


その言葉に、リュシアの背中が冷たくなる。

彼らは最初から分かっている。公爵の存在も、黒紋も、“そういう日”も。だからこの人数で来た。


エイドリアンは前に出ない。

前に出たら包囲される。彼は“壁”の位置を崩さないまま、低く言った。


「引け」


男たちは笑わない。

笑う余裕がないのではない。笑う必要がない。仕事だからだ。


「引けるなら来ねえよ」


男の一人が、外套の内側から細い筒を取り出した。

刃ではない。矢でもない。――匂いが先に来る。甘くて、喉に絡む匂い。


(薬?)


リュシアの頭が一瞬白くなりかけ、指輪が熱く脈打った。

熱が意識を繋ぎ止める。

“忘れる”方向へ落ちるのを、刻印の膜が受け止める。


男が筒を床に投げる。

パリン、と小さく割れる音。白い煙が低く這い、路地の足元を覆った。


職人が咳き込み、膝を折った。


「……っ、やめ……」


声が途中で切れる。

言葉が削られる。第2話の発作の夜と同じ“削られ方”。

これは偶然じゃない。彼らはそれを狙って使っている。


(証言消し――)


殺す必要はない。

“証言できない状態”にすればいい。記憶が抜ければ、言葉が出なければ、証人は使えなくなる。

そして証人が消えれば、矛盾はただの“疑い”に戻る。


リュシアの胸に恐怖が膨らみ、同時に怒りが鋭くなる。


「……やめて!」


叫びかけた瞬間、男の一人がリュシアへ視線を切り替えた。

次は、紙束だ。

彼は躊躇なく、リュシアの胸元へ手を伸ばす。


その手が触れる寸前、エイドリアンの声が落ちた。


「触れるな」


低く、短く。

刃より冷たい声。


男の手が止まった。

結界が“点”で圧をかける。指先が痺れるように引き攣り、男が顔を歪める。


だが、男は引かない。

引かない代わりに、言った。


「閣下。局長が嫌がってるんだよ」


局長。

その単語が、耳の奥で炸裂した。


(ヴァルター……!)


“修道院の使い”の顔の下に、会計局長の系統がある。

指示系統が一本で繋がった感覚。

修道院は隠れ蓑。回収係は下請け。動かしているのは、王宮の中心にいる男。


リュシアの恐怖が、確信へ変わる。

確信は刃になる。刃になった瞬間、震えが少しだけ収まる。


エイドリアンの右手の甲が、袖の下で疼いた。

黒紋の痛みが、空気を冷やす。

守りを強めるほど削れる。今まさに、それが起きている。


男が低く笑った。


「ほら、来るだろ。“そういうの”が」


挑発。

発作を誘う挑発。

結界を揺らし、黒紋を暴れさせ、数分を奪うための言葉。


リュシアは指輪を握り込んだ。

熱い。痛いくらい熱い。

忘れるな。今ここで言葉を失うな。


「証言は消えない!」


叫ぶと、声が少し掠れた。

煙が喉に絡む。視界の端が滲む。

でも、まだ立っている。刻印が、彼女だけは立たせている。


そのとき、路地の奥の足音が近づいた。

規律の足音。複数。速い。

味方か、別の追手か――判断する暇はない。


エイドリアンが、背中越しに短く言った。


「職人を連れて、右へ」


「でも――」


「今だ」


命令の声。

政治力の声じゃない。戦場の声だ。


リュシアは職人の肩を支え、必死に引きずった。

職人は咳き込み、焦点が合わない。

それでも、腕の中に“証言の核”がある。連れていかないと終わる。


男たちが動いた。

右へ回り込む。先回りして潰す。

回収は手順。手順は迷わない。


――その瞬間、エイドリアンの結界が“裂ける音”がした。


音はしない。

でも、空気が割れる感じがした。

黒紋が疼き、冷気が一気に広がる。


リュシアの頭が白くなりかける。


(来る、数分が消える――!)


指輪が熱く爆ぜるように脈打った。

赤い刻印の膜が、白さを押し返す。押し返すが――完全ではない。視界が一瞬、途切れかける。


その一瞬に、男の声が滑り込んだ。


「局長は言ってたよ。――“口を潰せ”ってな」


言葉が、リュシアの中で釘になる。

口封じは続行。

しかも、系統は会計局長。

敵は“紙”じゃなく、“口”を先に潰しに来た。


リュシアは歯を食いしばり、職人を抱え直した。


(逃がす。証人を残す。原本へ繋ぐ)


恐怖はまだ消えない。

でも恐怖の形が分かった以上、次の手は打てる。


路地の出口が見えた。

そこへ向かって――二人の影が塞ぐ。


襲撃は、これからが本番だった。


路地を抜けたはずなのに、空気が逃げない。

背中に貼りつく冷気が、追ってくるのではなく“広がって”くる。

――黒紋の冷気だ。


リュシアは職人の肩を抱え、壁沿いに身を滑らせた。

職人は咳き込み、目の焦点が揺れている。煙のせいだけじゃない。言葉が削れている。証言の核が、今まさに削られかけている。


(早く、離れないと)


離れたいのに、離れられない。

敵の影よりも、今は“隣の冷気”のほうが怖かった。


エイドリアンの背中が、路地の入口に残っている。

彼は追手の前に立ち、動かない。

動かないことで壁になる。壁になることで守る。

守るほど削れる――その仕組みが、今夜は露骨に鳴っていた。


男たちの挑発が耳に残る。


「ほら、来るだろ。“そういうの”が」


リュシアの喉が詰まった。

“そういう日”――数分が消える夜。

発作が起きれば、職人は白くなる。

自分も白くなる。

そして、証拠はその“数分”で消える。


(彼が怖い)


怖い。

敵より怖い、というのは残酷だ。

でも、黒紋が暴れたときの“消える感覚”を知ってしまった。あの白さ。あの欠落。

守りが暴走に変わる瞬間がある。それが、今夜の冷気だ。


リュシアの指輪が熱い。

熱いのに、冷気が勝ち始めている気がする。

熱は膜になって意識を繋ぐけれど、膜の外側が凍りついていく。

温度差が、胸を苦しくする。


(苦しい……)


恐怖が胸を締め、同時に罪悪感が刺す。

彼が壁になっている。

壁になるほど、彼が壊れていくのに、私はその壁の内側で息をしている。


リュシアは振り返った。


エイドリアンの右手が、わずかに震えている。

袖の下の黒紋が、見えないのに“見える”。脈打つ気配が空気を冷やし、灯りの色が変わって見える。

彼の呼吸が浅い。抑えている。抑え込んでいる。


――抑え込めなくなる前兆。


リュシアは思い出す。

契約の条文。百日。指輪。結界。

そして、あの夜の言葉。


「近づくな……守れなくなる」


守れなくなる。

守りが反転する。守りが凶器になる。

もし今夜ここで暴走したら、何が起きる?


数分では済まないかもしれない。

数分が“もっと長く”消えるかもしれない。

あるいは、消えるのが記憶だけじゃなくなるかもしれない。


(百日……危険だ)


百日は、期限ではない。

安全装置の稼働限界かもしれない。

契約期間が満了するとき、何かが切れる。

彼が削られ続けた先で、最後に壊れる――そんな予感が、喉の奥で冷たく固まる。


リュシアの胸が痛い。

怖い。

でも、この怖さは“逃げたい怖さ”ではなく、“止めたい怖さ”に変わっていた。


(この人を壊させたくない)


その感情が、自分でも怖い。

取引相手だ。契約相手だ。

それなのに、守られているうちに、情が生まれてしまう。

情は弱点になる。敵はそこを突く。終盤で必ず突かれる。


――終盤伏線。


リュシアは息を吸い、歯を食いしばった。

今は情に溺れない。

情は、手順に変える。


「……閣下!」


声を出すと、喉が少し掠れた。

煙のせい。冷気のせい。恐怖のせい。


エイドリアンがこちらを見ないまま答える。


「行け」


短い。

それでも声が揺れている。

揺れているのは怒りじゃない。痛みだ。


リュシアは職人を支え直し、必死に路地の角へ進んだ。

だが、足が止まる。止まってしまう。

このまま背中を向けたら、彼が壊れる気がした。

壊れる音が、もう聞こえそうだった。


(私が彼を怖がるほど、彼は孤立する)


怖いから距離を取る。

距離を取れば、彼は一人で抑え込む。

一人で抑え込めば、暴走の危険が増える。

悪循環。第2話と同じ輪。


リュシアは拳を握り、指輪の熱を確かめた。

まだ熱い。まだ膜はある。

なら、今なら近づけるかもしれない。今なら、言葉で繋げるかもしれない。


――その瞬間、エイドリアンの息が、ひゅっと詰まった。


空気が一段、冷える。

黒紋の疼きが“跳ね上がる”。

まるで、内側から鎖が引きちぎられそうな気配。


リュシアの心臓が跳ねた。


(暴走前だ)


怖い。怖いのに、足が動く。

怖さが、彼を見捨てない方向へ押す。

恐怖が、逃げる恐怖から、助ける恐怖へ変わる。


リュシアは職人を壁際に座らせ、震える声で言った。


「……ここで待って。絶対に、目を閉じないで」


職人は朦朧としながらも頷く。

指先が震え、言葉が出ない。証言が削られかけている。


リュシアは振り返り、エイドリアンへ一歩踏み出した。

指輪が熱を増す。膜が厚くなる。

それでも冷気は重い。胸が苦しい。


そして――ここで、終盤へ繋がる確信が胸を刺した。


百日が終わる頃、

彼が“守れなくなる”瞬間が来る。


今夜の冷気は、その予告だ。


リュシアの一歩で、空気がさらに冷えた。

近づくほど冷える。近づくほど危険。――分かっているのに、足が止まらない。


エイドリアンの背中は、動かない。

動かないまま、肩だけがわずかに上下している。呼吸が浅い。抑え込んでいる呼吸。

袖の下で黒紋が脈打つ気配が、路地の壁を凍らせるように広がっていた。


「……来るな」


掠れた声。

拒絶の形をしているのに、祈りみたいに弱い。


リュシアの胸が締まった。

怖い。

でも今怖いのは、敵じゃない。――彼が壊れることだ。


「近づかないと、止められない」


言い切った瞬間、指輪が熱く脈打った。

赤い刻印が、まるで脈を“呼ぶ”ように熱を上げる。

刻印が回路になっている。彼の黒紋と、自分の刻印が、見えない線で繋がり、同じ鼓動を刻み始める。


(回路が、繋がる……)


気づいたときには距離がゼロだった。


リュシアは、エイドリアンの右手首を掴んだ。

手袋越しではない。袖を払い、素肌に触れた。

触れた瞬間、体温の差に驚く。――冷たい。異常に冷たい。

氷の水に触れたみたいに、指先が痺れる。


エイドリアンが息を呑む。


「やめろ……!」


声が鋭くなる。

鋭いのに、震えている。痛みで震えている。


リュシアは指輪の刻印を、彼の手首に押し当てた。

押し当てた瞬間、熱が跳ねた。

赤い刻印が、彼の皮膚を通して“走る”。電流のように、脈のように。


――黒紋の冷気が、一瞬だけ揺らいだ。


揺らいだ、というより、流れが変わった。

暴走の方向へ膨らむはずの冷気が、刻印へ吸い寄せられる。

吸い寄せられて、膜の内側に収まる。

リュシアの指輪が、痛いくらい熱くなる。


「……っ」


リュシアの喉が詰まる。

熱が腕を伝い、肩へ上り、胸の奥に刺さる。

でも、白くならない。

刻印が回路として働いている。彼の暴走を受け止めている。


(私が……受けてる?)


怖い。

でも、怖いだけじゃない。

これが“鎮静”だと分かる。

触れたことで、彼の冷気の波が鈍り、息が少しだけ深くなった。


エイドリアンの体が、ぐらりと揺れる。

膝が折れかける。

リュシアは反射で抱き止めた。


距離ゼロ。

胸と胸が近すぎて、呼吸の熱まで聞こえる。

こんな距離で、彼の痛みが伝わってくる。


「……重い」


彼が呟いた。

何が重いのか、言わない。

でも分かる。守りが重い。鎖が重い。黒紋が重い。百日が重い。


リュシアは歯を食いしばり、刻印を押し当てたまま言った。


「息をして。……私が繋ぐ」


繋ぐ。

その言葉と同時に、刻印がさらに熱を増す。

回路が安定する。

赤が、黒を押し返すのではなく、黒を“流す”方向へ変える。

暴れた波を、一本の流れに戻す。


エイドリアンの肩の力が、ほんの僅かに抜けた。


「……馬鹿だ」


かすれた声。

でも、その声には怒りがない。

あるのは、痛みと、恐怖と、どこか諦めに似た温度。


リュシアは彼の袖口から覗いた手の甲を見た。

黒紋が、浮き上がりかけている。

その周囲の皮膚が、ひどく荒れている。細いひび割れ。火傷の跡みたいな赤黒い線。


(……傷)


これが“代償”の形だ。

守るほど削れる。削れた痕が、皮膚に出ている。


リュシアの胸が痛む。

怒りでも恐怖でもない。

理不尽に対する痛みだ。

こんな傷を抱えながら、彼は平然と“公爵”を演じてきた。


「いつから……」


問いかけた瞬間、エイドリアンの指がリュシアの手首を掴んだ。

強くない。止める力ではない。

逃がさない力だった。


「見るな」


「見る」


リュシアは言い切った。

見ないまま守られるのは嫌だ。

見ないまま、また奪われるのは嫌だ。


刻印の熱が、二人の間で脈を打つ。

回路が繋がり、冷気がさらに引いていく。

完全には消えない。けれど、暴走前の“跳ね上がり”は止まった。


エイドリアンが、額をリュシアの肩に預けた。

一瞬だけ。ほんの一瞬。

公爵の姿が崩れる瞬間。


「……百日は」


掠れた声が、骨に響いた。


「百日は……切れる」


切れる。

鎖が切れるのか。

結界が切れるのか。

それとも――彼が切れるのか。


リュシアの背筋が凍った。

終盤の伏線が、ここで骨になる。


それでも、今は離さない。

離したら、また冷気が跳ねる。

離したら、彼は一人で壊れる。


リュシアは刻印を押し当てたまま、囁くように言った。


「だったら、切れる前に――原本を取る。全部終わらせる」


エイドリアンの喉が動く。

答えは出ない。

でも、呼吸が少しだけ落ち着いた。


距離ゼロで、リュシアは理解した。


この男の傷は、敵がつけた傷じゃない。

守りを続けた結果、彼自身が自分に刻んだ傷だ。

そして、その傷を止める鍵が――この刻印回路にある。


エイドリアンの冷気が引いた瞬間、世界の音が戻った。

金槌の音。遠い人声。石畳を叩く足音。――生きている街の音。

それでも、胸の奥にはまだ“欠落の匂い”が残っている。数分が消える恐怖は消えない。消えないまま、刃の形をしている。


職人は壁際で浅い呼吸を繰り返していた。

目を開けている。閉じていない。

リュシアはそのことにだけ、ほっとした。証言はまだ生きている。だが、弱い。今夜の煙のせいで、言葉が薄くなっている。


「……行けるか」


エイドリアンが問う。声は平静に戻っている。

戻っているが、右手を袖の中で握りしめる癖は残っていた。傷は消えない。鎮静できても、削れた分は戻らない。


職人は頷いた。

頷き方がぎこちない。

それでも頷いた。――ここまで来たら戻れない。戻れば回収される。


リュシアは胸元の紙束を確かめ、短く言った。


「聖エルミナ修道院へ」


祈りの場所。

支配の手が入っている場所。

原本が地下に眠っている場所。


修道院の門は、思ったよりも低かった。

王宮みたいに威圧で押してこない。代わりに、静けさで人を飲み込む。

白い石壁。蔦。鐘楼。

そして、香の匂い。甘く、眠る匂い。


(喪失の匂い)


胸がざわつく。

なぜか分からないのに、ここでは“失う”気がする。

記憶。証言。原本。――あるいは、人そのもの。


門番の修道士が出てきた。

目が笑っていない。第4話で職人が言ったとおりの目。祈りの顔をしながら、体の中心が冷えている目。


「ご用向きは」


エイドリアンが身分を告げ、監査の照会を示す。

規定の顔。札の顔。王宮で通った政治力が、ここでも通るはず――なのに。


修道士は札を一瞥しただけで、すぐに返した。


「本日は院長が不在です。改めて」


不在。

その単語が、喪失の刃になる。


「不在?」


リュシアが問うと、修道士は平坦に言った。


「昨夜から戻っておりません。……失踪です」


失踪。

あまりに唐突で、言葉が脳に届くまで一拍遅れる。

院長が失踪? 支配の中心が、消えた?


(証人を潰す前に、院長を消した……?)


喪失が現実になる。

原本の鍵を握るはずの人物が消えている。

これは偶然ではない。追手がいる。回収係がいる。局長の系統がある。

なら、次は“院長”だ。院長は口だ。口は潰される。


職人が青ざめて呟いた。


「……やっぱり……」


リュシアの背中が冷えた。

今の自分たちが追われているのと同じことが、ここでも起きている。

修道院の内部で、すでに“回収”が完了している可能性。


「地下の保管庫へ案内して」


リュシアが言うと、修道士は首を横に振った。


「院長の許可なく地下へは――」


「許可は、監査の照会で代替できる」


エイドリアンが低く言う。

政治力の刃。

修道士の目がほんの僅かに揺れる。だが、揺れはすぐに消える。


「規則です」


規則。

修道院版の“秩序”。

正しさの顔が、ここでも壁になる。


リュシアは息を整え、視線を修道院の壁へ滑らせた。

祈りの場所は、嘘の隠し場所にもなる。

なら、隠すための仕掛けがある。仕掛けは、必ず癖を残す。


そのとき、職人が袖の中から小さな紙片を出した。

震える指で差し出す。


「……これ……預かり物に挟まってた。俺、見たとき意味が分からなかった」


紙片には、文字ではない記号が並んでいた。

点と線。小さな円。

祈りの詩句の頭文字を繋いだような――暗号。


(暗号……)


原本の場所を示す?

あるいは、地下への道を示す合図?

院長が消える前に残した?

もしくは、回収係が落とした?


リュシアの頭が一瞬で冷える。

知性の快感が、喪失の恐怖を押し返す。

喪失は、追跡の材料になる。失踪は、方向を示す矢印になる。


リュシアは紙片を受け取り、記号の並びを目で追った。

点と線の間隔。繰り返し。

祈りの文の節回しに似ている。修道院なら、祈祷文、賛美歌、鐘の回数。

“規則”を利用した暗号だ。


「……鐘楼」


リュシアは小さく呟いた。

記号の並びが、鐘の合図に似ている。

地下へ続く扉は、鐘楼の下にあることが多い。人の出入りを隠しやすいから。


修道士が眉を寄せた。


「奥方様、何を――」


「院長の失踪は、ただの失踪じゃない」


リュシアは修道士を真っ直ぐ見た。

怒りではなく、確認の目で。


「昨夜から戻らない。なのにあなたは落ち着きすぎている。……ここでは“失う”のが普通なんですか?」


修道士の目が一瞬だけ揺れた。

揺れはすぐ消える。だが、揺れた事実は残る。


(支配下伏線の回収)


修道院は支配されている。

院長すら消される。

そして、規則の顔をした者たちがそれを隠す。


リュシアは暗号の紙片を握りしめた。

原本は地下。

院長は失踪。

追手は局長系統。

なら――地下はすでに動いている。


(間に合う?)


間に合わせる。

間に合わせないと、百日が切れる。

彼が守れなくなる。

守れなくなる前に、嘘の核を掴む。


暗号は、次の扉を示している。

祈りの裏側へ入るための鍵だ。


修道院の回廊は、音が少ない。

足音が石に吸われ、声も布に吸われる。祈りの場所は本来、静けさで心を落ち着ける。

でも今の静けさは違う。――言葉を奪うための静けさだ。


リュシアは暗号の紙片を指先で押さえた。

点と線。小さな円。間隔の癖。

“祈りの規則”を借りた記号。規則を借りるのは、嘘の常套手段だ。正しさに紛れる。


(希望は、規則の中にある)


失踪は喪失だ。

喪失は怖い。

でも、喪失が起きたということは、誰かが“動いた”ということ。動いたなら、痕が残る。痕は癖を隠せない。


リュシアは深呼吸し、記号の繰り返しに注目した。

短い線が三つ、次に長い線が一つ。

その後に小さな円。

また短い線が二つ。長い線が一つ。

――鐘の合図だ。短鐘、長鐘、休止。


「これは、鐘楼じゃない」


自分の中で答えが反転した。

鐘楼“そのもの”ではなく、鐘の合図で“呼び出される場所”。

呼び出しが成立する場所は限られている。祈祷堂、食堂、礼拝堂、そして――書庫。


書庫なら、合図で門を開ける。

書庫は鍵が必要だ。

鍵のある場所は、暗号にしやすい。

暗号の読み手も限定できる。つまり、内部者向け。


(書庫だ)


リュシアは紙片の端にある微かな擦れを見た。

紙の繊維が毛羽立っている。

これは壁に貼られたものを剥がした毛羽立ちではない。

厚い紙束に挟んで、出し入れしたときにできる擦れ。――帳面、あるいは目録。


「……書庫の目録に挟んであった」


そう呟くと、職人が頷いた。


「帳面だ。院長の部屋の……分厚いやつ」


院長の部屋。

院長が失踪する前に触った可能性が高い場所。

そして院長の部屋には、許可印、目録、鍵が揃う。


リュシアの胸に、久しぶりの希望が灯った。

暗号は“原本の場所”を直接示さない。

でも、原本へ行くための“通路”を示す。通路が分かれば、辿れる。


エイドリアンが低く言った。


「書庫へ案内させろ」


修道士は眉を寄せたが、完全には拒めない。

監査の照会札は、ここでも効く。効き方が遅いだけで。


「……書庫は管理官の管轄です。許可なく触れれば――」


「許可は取る」


エイドリアンの声は短い。

政治力で押すのではなく、手順で押す声だった。裏仕事も表仕事も、彼は“手順”で動く。


修道士に連れられ、回廊を曲がる。

蝋燭の火が揺れ、壁の聖画の目だけが追ってくる。

追ってくる目は、祈りの目ではなく監視の目に見えた。


やがて、重い扉の前に着く。

木の扉。鉄の留め具。錠が二重。

“守りたいもの”がある扉だ。


扉の横に、小さな窓口がある。

そこから覗く目が一つ。

老いた目。乾いた目。だが、修道士たちよりも“生きている”目。


「……誰だ」


窓口の向こうの声は、低く、慎重だった。

この声の主が――書庫官だ。


修道士が形式の挨拶をし、監査の照会を説明する。

書庫官の目がエイドリアンを測り、次にリュシアを測り、最後に職人へ止まった。


職人を見た瞬間、書庫官の瞬きがわずかに遅れた。

――知っている。あるいは見たことがある。

“帳面の修復”で出入りしたときに、目にしている。


リュシアはそこを逃さず、静かに言った。


「院長が失踪した。地下の許可が止められている。……でも、証拠が消されている匂いがする」


書庫官の目が細くなる。

そして、ほんの僅かに口元が動いた。笑みではない。

“理解”の動き。


「……匂い、か」


リュシアは紙片を差し出した。

暗号の記号。祈りの規則。目録の擦れ。


「これ、書庫の合図です。あなたなら分かるはず」


書庫官は紙片を受け取り、じっと見た。

指先が、紙の端をなぞる。

その手つきが、台帳を読む人間の手つきだった。数字を読む手つき。記録を守る手つき。


数秒の沈黙のあと、書庫官が吐き捨てるように言った。


「……古い呼び出し符だ。院長と、書庫官だけが知る合図」


当たり。

胸の奥に、希望が確かな形で落ちる。


「合図は“第二書庫”を示す。表の扉じゃない。……裏の書庫だ」


裏の書庫。

祈りの場所の裏に、記録の裏がある。

そこに、地下への導線が繋がっている。


リュシアは息を呑んだ。


「第二書庫に、地下への鍵が?」


書庫官は一瞬、視線を逸らした。

その逸らし方が、答えだった。

答えを言うのが怖い。言えば自分も回収されるから。


エイドリアンが静かに言う。


「守る。証人として扱う」


書庫官の目が、公爵の右手へ一瞬だけ走った。

黒紋の気配を嗅いだのか、あるいは噂を知っているのか。

そして、諦めたように吐いた。


「……院長は、昨日、目録を持ってここへ来た。何冊か抜き、紙を挟み……“地下の鍵を移す”と言った」


移す。

鍵は動く。証拠も動く。

動くから追える。動くから間に合う。


リュシアの胸が熱くなる。

喪失の中で、道が一本通った。

希望は、書庫の裏にある。


「案内して」


書庫官はしばらく黙り、最後に小さく頷いた。


「……来い。ただし、音を立てるな。ここは……耳が多い」


耳が多い。

修道院は支配下。

追手は局長系統。

そして今、こちらは“書庫官”という新しい証人を得た。


証人が増えれば、敵はもっと焦る。

焦れば、癖がもっと露出する。


リュシアは紙片を握り直した。

暗号は解けた。

次は――第二書庫。

その先に、地下への扉が待っている。


第二書庫へ向かう回廊は、さらに静かだった。

静かすぎて、蝋燭の芯が燃える音まで聞こえる。

静けさが祈りではなく“耳”のためにあると気づいた瞬間、背筋が冷たくなる。


書庫官は、足音を消す歩き方をしていた。

踵を落とさず、体重を前へ流す。

慣れている。――危険に慣れている歩き方。


「……ここは、危ないの?」


リュシアが小声で問うと、書庫官は返事をせず、ただ指を唇に当てた。

その仕草だけで十分だった。

危ない。危ないから言葉すら削る。


扉の前に着く。

表の書庫より古い鍵。

鍵穴の周囲に、擦れた跡。出入りの頻度が高い。隠したい場所ほど、出入りが増える。


書庫官が鍵を回しかけた、その瞬間――


エイドリアンが、ほんの僅かに動きを止めた。

彼の呼吸が浅くなる。

黒紋の冷気が、また“芯”を持って滲み出す。

さっき鎮まったはずの波が、ここでは再び立ち上がる。


(……この場所が、彼を刺激する)


リュシアの喉が詰まった。

不安が胸の奥で膨らむ。

敵の影よりも、この冷気のほうが怖い――また、そう思ってしまう。


エイドリアンが低く言った。


「ここで止まれ」


書庫官が眉を寄せる。


「閣下、第二書庫は――」


「分かっている」


分かっている。

その言い方に、重い過去が混ざっていた。

彼はこの場所を知っている。危険を知っている。

そして、それは“今”の危険じゃない。昔からの危険だ。


(過去伏線)


王宮書庫。

修道院の地下じゃない。

もっと中心の、もっと触れられない場所。


リュシアは言葉を探した。

不安が先に走って、喉の奥が乾く。

それでも、聞かなければ進めない。


「……閣下。あなた、ここを知ってるの?」


エイドリアンの視線が一瞬だけリュシアへ落ちた。

落ちた視線の奥に、疲れがあった。

公爵の疲れではない。――昔、ここで何かを失った者の疲れ。


「……王宮書庫だ」


その一言が、空気を変えた。


書庫官が鍵を回す手を止め、顔色を変える。

“言ってはいけない言葉”を聞いた顔。


「王宮書庫……?」


リュシアは反射的に呟く。

修道院の地下にあると思っていた原本が、王宮書庫へ移された?

それは最悪であり、同時に最高の証明でもある。

王宮の中心が、証拠を握っているということだから。


書庫官が震える声で言った。


「院長は……確かにそう言った。『原本は王宮書庫へ』と。……私は意味が分からなかった」


意味は一つ。

修道院は中継点。

本丸は王宮。

局長系統が動くなら、最後は王宮に戻る。


リュシアの胸が熱くなる。

前進だ。

でも、同時に不安が増す。

王宮書庫は、王宮の規則と秩序の中心。そこへ入るには“権限”だけでは足りないかもしれない。

何より――彼の黒紋が、ここで強く反応している。


書庫官が、小さな紙束を差し出した。

古い目録の端を裂いたような紙。

そこに、暗号だけが残っている。


「原本:王宮書庫」

「閲覧:不可」

「移送:夜間」

(印の跡――楕円の溝)


暗号は答えをくれる代わりに、距離を突きつけてくる。

修道院の地下ではない。

王宮の書庫。

最も近くて、最も遠い場所。


リュシアは紙片を握りしめた。

希望がある。

でも、それ以上に――不安がある。


エイドリアンの右手を、リュシアは見た。

袖の下の傷。黒紋の疼き。

この場所で、彼はもっと削れる。

百日の終盤伏線が、さらに濃くなる。


リュシアは、堪えきれずに言葉を落とした。


「あなたが壊れるのが、もっと怖い」


それは敵に向けた言葉じゃない。

自分の弱さを認める言葉だった。

守られていることより、守る側が壊れることの方が怖い――そんな感情は、戦う者にとって弱点だ。

でも、言わないと息が止まる。


エイドリアンは目を逸らさず、淡々と言った。


「触れれば鎮まる。俺が削れるだけだ」


削れるだけ。

その言い方が、胸を刺した。

“だけ”で済むと思っているのか。

“だけ”で済ませるつもりなのか。


書庫官が息を呑み、身を引いた。

第二書庫の扉は開いていない。

開けない。開けられない。

ここで扉を開ければ、“耳”が動く。支配下が動く。追手が動く。


だから残るのは、暗号だけ。

原本の行き先だけ。


リュシアは紙片を胸に押し当て、息を吐いた。

恐怖は消えない。

でも、次の戦場が定まった。


原本は王宮書庫――という暗号だけが残った。

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