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冤罪で追放された令嬢、呪い持ち魔導師公爵と100日限定の契約結婚します  作者: swingout777


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印章職人

工房街の空気は、熱かった。

金槌の音、炭の匂い、金属を削る乾いた音。王宮の香水みたいな“正しさ”はなくて、代わりに汗と生活の匂いがある。――だから少しだけ、呼吸がしやすい。


……そのはずなのに。


工房の扉を開けた瞬間、リュシアの喉が乾いた。

店内は整っている。道具は揃い、作業台は磨かれている。なのに、人の気配が薄い。

静かすぎる。職人街の店に必要な騒がしさが、ここだけ抜け落ちている。


カウンターの奥から、年配の男が出てきた。

指は太く、爪に細かな金属粉が残る。職人の手。けれど目が――逃げ道を探している目だった。


「……今日は、閉めてる」


第一声がそれだった。

挨拶も、用件確認もない。門を閉めるための言葉だけが先に出る。


リュシアは一歩、踏み込みかけて止まった。

焦りが胸を突く。ここを逃せば、導線が切れる。ヴァルターは今も動いている。口封じは続行中だ。


「閉めてる、って……工房の外はまだ明るい」


男は視線を逸らし、喉を鳴らした。


「……今は、受けられない。帰ってくれ」


受けられない。

その言葉が、はっきり“脅されている”形をしていた。

金で黙らされたのではない。もっと直接的な、命の脅し。


リュシアは息を吸い、声の温度を落とす。


「印章の件で来ました」


男の肩が、微かに跳ねた。

その反応だけで、当たりだと分かる。


「知らん。帰れ」


今度は強く言った。

強く言うほど、怖がっている。


エイドリアンが一歩、前に出る。

空気が一段、冷える。工房の小ささが、急に狭く感じる。

職人の目が、公爵の顔を見て、そしてすぐに伏せられた。身分の差。逃げられない差。


「話せ」


低い命令。

短いのに、断れない重さ。


男は唇を噛み、首を横に振った。


「……すまん。俺は……家族がいる」


家族。

それが脅迫の形を確定させる。

脅しは本人より、守りたいものに向けられる。


リュシアの焦りが、怒りへ変わりかける。

だが怒りはここでは使えない。相手の恐怖を増やして、口をもっと固くするだけだ。


リュシアは一歩下がり、視線を店内へ滑らせた。

作業台の角。床の隙間。壁の下。

“監査の目”が、言葉より先に環境を読む。


そして――見つけた。


作業台の端に、黒い染み。

木の繊維が焦げた跡。

ただの炭ではない。燃えた紙の灰が擦り付けられたような、薄い黒。


リュシアは近づき、指先で触れない程度に覗き込んだ。

焦げ臭さが、ほんの僅かに残っている。

新しい。数日前――いや、昨日かもしれない。


「……燃やしたのね」


ぽつりと落とすと、男の喉が鳴った。

目が揺れる。隠していたものを言い当てられた目。


「違う、違う……!」


否定が早すぎる。

早い否定は、だいたい肯定だ。


リュシアは、焦げ跡のそばに落ちていた小さな欠片を見つけた。

紙ではない。薄い革。封蝋の欠片――赤ではなく、くすんだ黒。


(封蝋……?)


王宮会計局の印は赤が多い。

黒い封蝋は、機密文書か、私人の契約か。

そして“黒”は、あの黒紋意匠とも相性が悪いほど似ている。


リュシアの指輪が、じんわり熱を持った。

刻印が締まる。警告と同時に、記憶を繋ぎ止める熱。


男が、震える声で言った。


「……来るなって言われた。公爵夫人が来たら、何も言うなって」


「誰に」


リュシアの問いに、男は口を閉ざした。

名前を言った瞬間、家族が消される。そう分かっている顔。


エイドリアンが短く言う。


「脅されたのは、会計局か」


男は首を振りかけて、止めた。

振れば肯定。肯定しただけで危険。

だから、答えの代わりに視線が床へ落ちる。焦げ跡へ落ちる。


(口封じは、“命令”だけじゃない。焼かせてる)


燃やす。

証拠を燃やす。

そして“燃やした事実”すら燃やす。

同じことが、私の革袋でも起きた。王宮でも起きた。ここでも起きた。


リュシアの胸が熱くなる。

焦りが、火になって喉の奥を焼く。


「ねえ」


リュシアは声を低くした。

怒鳴らない。責めない。代わりに、逃げ道を作る声。


「あなたが燃やしたのは、押印の依頼書? それとも刻印石の貸出票?」


男の目が見開かれる。

質問の具体性が、刺さった。職人の世界の言葉で切り込まれると、人は反射で反応してしまう。


「……知らん!」


遅れて否定が出た。

遅れた否定は、さらに肯定だ。


エイドリアンの黒紋が、微かに疼いた。

空気がひやりと冷える。彼はそれを隠すように袖を引く。

守っている。ここでも壁を張っている。王宮ほどではないが、職人街にも“手”が伸びているから。


リュシアは、焦げ跡の近くにある小さな金属片を見つけた。

細い線が刻まれている。文字ではない。職人が使う“合わせ目”の印。

それが、どこかで見た形に似ていた。


――入城台帳の、妙に綺麗な印の縁。


背中が、ぞくりとした。


「……この印」


リュシアが金属片を指すと、男は反射的に手を伸ばしかけ、すぐ引っ込めた。

触れたら終わる。触れたら“関与”が確定する。そういう怯え方。


「見てない。何も見てない」


男は繰り返す。

繰り返すほど、見ている。


リュシアは拳を握りしめた。

焦りが、痛みに変わる。あと一歩なのに、口が開かない。脅迫が強すぎる。


そのとき、店の奥から微かな匂いがした。

焦げ臭さではない。酸っぱい匂い。

金属を溶かしたあとに残る、薬品の匂い。


「……奥の炉、最近使った?」


男の顔が真っ白になる。


「使ってない……!」


また早すぎる否定。

そして、目が奥へ逃げる。


そこに“燃え跡”がある。

燃やしたのは紙だけじゃない。

何かを溶かした。何かを消した。刻印石? 印章の枠? それとも――偽造に使った型?


リュシアはゆっくり息を吐いた。

ここで押せば、相手は潰れる。

潰れれば、何も出ない。

だから押し方を変える。


「……大丈夫」


自分でも驚くほど、静かな声が出た。


「私はあなたを裁きに来たんじゃない。裁くべきは、あなたを脅して燃やさせた側」


男の目が、少しだけ揺れる。

希望に見せかけた揺れ。

でもまだ、怖い方が勝っている。


リュシアは最後に、焦げ跡へ視線を戻し、言った。


「燃え跡は嘘をつかない」


指輪の熱が、指先まで満ちる。

守られている。忘れない。

この拒絶の裏にある“脅迫”を、必ず形にする。


エイドリアンが、低く言った。


「……ここで終わらせない」


その声の奥に、痛みが混ざっていた。

黒紋が、見えない場所で疼いている。守るほど削れる伏線が、また一段深くなる。


男は唇を震わせたまま、最後に絞り出すように言った。


「……今夜、また来る。……“回収”に」


回収。

証拠の回収。口の回収。命の回収。


リュシアの焦りが、確信に変わった。

ここからが、本当の勝負だ。


「……今夜、また来る。……“回収”に」


職人の言葉が落ちた瞬間、リュシアの頭の中で歯車が噛み合った。

焦りが、ただの恐怖じゃなくなる。

恐怖は、組み立てる材料になる。


「回収の時間は?」


問いかけると、職人は首を振った。

答えたくない。答えれば家族が危ない。

だが、答えないこともまた危ない。彼の目は、逃げ道を探して揺れている。


リュシアは声の温度を落とした。

責める声ではなく、組み立てる声にする。


「いい。時間はいい。――回収に来るのは“誰”?」


職人は唇を噛み、目を逸らした。

ここで名前を出せば終わる。終わると知っている目。


リュシアは一歩下がり、あえて距離を取った。

圧をかけない。圧は相手を固める。固めれば、口も固まる。


「あなたは職人よね。なら、“見たもの”で話せる」


職人の目が、わずかに動いた。

“職人”という言葉に、自尊心の芯が反応する。脅迫で潰されても、芯は残る。そこに触れれば、口が開く。


リュシアは作業台の上を指差した。

金槌、鑢、蝋、刻印用の針、そして――印章の枠を固定する小さな万力。


「偽造の癖がある。あなたはそれを見た。……違う?」


職人は喉を鳴らした。

沈黙が、肯定になりかける。

だが彼はすぐに首を振ろうとした。


リュシアはそこで、先に“癖”を言い当てた。


「蝋の盛り方。均一すぎる」


職人の瞬きが止まる。

まさにそれだ、という反応。

均一すぎる蝋は人の手ではない。型か、温度管理か、専用の治具。つまり、普通の貴族の悪巧みではない。工房レベルの準備がいる。


リュシアは続ける。


「押印の圧も同じ。端が潰れない。……あなたが普段作る“本物”の印は、むしろ呼吸がある。圧がわずかに揺れる。人が押すから」


職人の肩が、ほんの僅かに落ちた。

“分かっている”と言われると、人は少しだけ楽になる。ここで初めて、リュシアの言葉が彼の恐怖の外側に届いた。


(知性の快感)


リュシア自身も感じていた。

恐怖が、分析で形になる。

形になれば、扱える。扱えるものは、怖さが薄まる。

今、彼女はそれを味わっている。監査の快感。真実へ近づく快感。


職人が小さく呟いた。


「……均一にする治具があるんだ。蝋を流し込む枠……」


「あなたの工房のもの?」


職人は即座に首を振る。

否定が早い。これは本当に“違う”。


「じゃあ、どこから」


職人は黙った。

目が床へ落ち、焦げ跡へ落ち、そして――店の奥へ逃げた。

炉の方ではない。さらに奥。生活空間へ続く扉の方。


リュシアは、その視線の逃げ方を追う。

逃げる先には、だいたい“隠したいもの”がある。


「……奥に何があるの?」


職人の喉が動く。

言うべきか、言わないべきか。

そして彼は、意外な言葉を吐いた。


「……預かってる」


預かってる。

それは職人が言いたがらない単語だ。

預かった時点で関与になる。関与は脅迫の根になる。


リュシアは、声をさらに落とした。

刃ではなく、手を差し出す声。


「預かったのは、何。刻印石? 枠? それとも――“原本”?」


“原本”という単語を出した瞬間、職人の目が大きく揺れた。

それで確信できる。彼は“原本”を知っている。第1話の襲撃で刺客が言いかけた言葉。今、ここで繋がった。


職人は、歯の間から声を絞った。


「……紙だ。封があって……黒い蝋で……」


黒い封蝋。

第3話で見た、くすんだ黒の欠片。

ここで一致する。


リュシアは息を吸った。

胸の奥で、導線が一本、太くなる。


「それはどこから来たの」


職人は、目を閉じた。

そして、震える声で言った。


「……修道院だ」


一瞬、世界が止まった。


修道院。

王宮の外側にあり、祈りと慈善の顔をした場所。

そして、文書を保管する場所でもある。寄進台帳、寄付の証文、遺言書、土地の管理文書。

“祈り”の形をした金の記録が眠る場所。


(だから原本がある)


リュシアの頭の中で、数字の穴と印章の匂いが、修道院へ繋がる。

意外に見えて、理屈は通る。

会計局が直接触れにくい原本を、外部の“清い場所”に置く。

清い場所なら疑われにくい。

疑われにくい場所ほど、隠し場所になる。


職人が続けた。


「俺は……運び役を頼まれただけだ。修道院の……“帳面の修復”って」


修復。

それもまた、正しい顔をした偽造の言葉だ。

紙を直す。印を直す。記録を“整える”。

整えるほど嘘が増える。


リュシアは一歩、息を吐いた。

熱が胸の内側に広がる。焦りではない。獲物の匂いを掴んだ熱だ。


「誰が頼んだの」


職人が首を振る。

ここは言えない。言えば家族が消える。

でも、言わなくてもいい。今は場所が出た。修道院という“舞台”が出た。それだけで次の一手が組める。


エイドリアンが、その場の空気を切った。


「修道院の名は」


職人は怯えた目で公爵を見て、口を開いた。


「……聖エルミナ修道院」


聖エルミナ。

王都外縁。寄進で潤う古い修道院。

記録があり、印があり、外部の目が届きにくい。


リュシアの指輪がじんわり熱くなる。

刻印が“繋がった”と言っているように。

守られているから、情報が消えない。

そして守られているからこそ、彼女は次の手を出せる。


リュシアは職人へ向き直り、静かに言った。


「あなたは悪くない。悪いのは、あなたの手を“嘘”のために使った側」


職人の目が潤む。

恐怖の中に、ほんの少しだけ救いが混ざる。

救いは、口を開く。


「……今夜来るのは……男二人。黒い手袋。修道院の使いだと言ってた」


修道院の使い。

祈りの衣装を着た回収係。

口封じは、顔を変える。


リュシアは胸の奥で誓った。

修道院へ。原本へ。偽印章へ。

そして、ヴァルターへ。


知性の快感が、恐怖を押しのけていく。

怖い。けれど――掴める。


次話の舞台は、祈りの場所だ。

祈りの裏側で、帳簿と印が燃えている場所。


「今夜来るのは……男二人。黒い手袋。修道院の使いだと言ってた」


職人の声は震えていた。

その震えが、嘘じゃないと分かる。恐怖の震えは、慣れた者ほど“薄く”なる。彼は慣れていない。だから怖い。だから本物だ。


工房の外では、職人街の金槌の音が続いている。

生きている音。

それなのに、この店の中だけ空気が重い。店の壁が薄くなり、外の喧騒が“守り”にならない感覚。


エイドリアンが扉の方へ視線を向けた。

視線だけで、外の通りを測る。彼の政治力は札一枚で王宮を動かした。だが、今の相手は規則の顔をしていない。裏の相手は、規則より速い。


「……監視がいる」


低い声。

それは断言だった。勘ではない。経験だ。


リュシアは背筋を固くした。

敵が監視しているなら、今この瞬間の会話も、動きも、すべて“回収”の対象になる。


「どこに」


「外だ。屋根と角」


エイドリアンは言葉を削る。

削るほど、状況が切迫している。

そして削るほど、右手の甲が微かに硬くなる。


リュシアの指輪が、じんわり熱を帯びた。

刻印が張る。薄い膜が、皮膚の上ではなく“空気”に張られる感覚。守りが動き出す。


(守りの重さ)


守られるほど、胸が苦しくなる。

助けられているのに、自由が削られる。

それでも今は、その重さが必要だ。守りがなければ、この工房ごと消される。


エイドリアンが職人へ向き直る。


「今夜、ここに留まるな」


職人が青ざめて首を振った。


「無理だ……逃げたら、家族が……」


「逃げろと言っていない」


エイドリアンは声の温度を変えなかった。

優しさの声じゃない。命令の声でもない。

――手順の声だ。


「家族を連れて移動する。場所は俺が用意する。今すぐだ」


職人の目が大きく開く。

救いに見えて、恐怖でもある目。

公爵に借りを作ることの恐怖。だが、それより先に“回収”が来る恐怖の方が勝っている。


「……そんなことが……」


「できる」


その一言が、重い。

政治力の重さ。守りの重さ。

誰かを守るには、力が要る。力は代償を伴う。


リュシアはエイドリアンの右手を見た。

黒紋は表に出ていない。けれど“疼き”が空気に滲んでいる。

守りを張るほど、彼の内側が削れる。第2話の発作が脳裏に蘇る。

今も、彼は見えないところで痛みを抱えている。


(また……削れてる)


心臓がきゅっと縮む。

恐怖が別の方向へ広がる。

敵が怖いのではない。敵も怖い。

でも――それ以上に、彼の黒紋が怖い。


守りの力が、彼を壊す。

守るために、彼が削れていく。

その仕組みの終点が見えない。終点が見えないものは、刃より怖い。


工房の外で、金槌の音が一瞬途切れた。

次に、足音が二つ、遠くで重なった。

偶然にも聞こえる。でも偶然ではない。空気がそう言っている。


職人が震える。


「……来たのか」


エイドリアンは首を振らず、目だけで“まだ”と告げた。

判断が速い。判断が冷たい。冷たさが頼もしいのに、同時に怖い。


リュシアは息を整え、職人へ言った。


「あなたが見た“癖”を、もう一つ教えて。治具の形。蝋の枠の材質。重さ。――覚えてる?」


知性の快感が、恐怖を押し返す。

怖いときほど、具体に落とす。具体は武器になる。


職人は震えながらも、目を閉じて思い出そうとした。


「……真鍮の枠だ。円じゃなくて……少し楕円。内側に細い溝があって……蝋が均一に流れるように」


楕円。溝。

それは“癖”だ。偽造者の癖。

同じ癖は別の場所にも残る。修道院で見つけられる。


エイドリアンが短く言った。


「十分だ」


彼は扉の方へ歩き、鍵をかけた。

内側の鍵。

その音が、胸に嫌なほど響く。


(籠の鳥)


まただ。

守られるたびに、鍵の音が増える。

増えるほど、外が怖くなる。

外が怖くなるほど、守りに依存する。

依存するほど、彼が削れる。


悪循環。

その輪の中心に、黒紋がある。


エイドリアンは振り返り、職人へ指示した。


「家族を呼べ。荷物は最小限。火は落とせ。今夜ここは“空”にする」


裏仕事だ。

表の規定ではなく、裏の手で守る。

敵が裏で来るなら、こちらも裏で返す。

公爵の政治力は、王宮だけじゃない。こういう場所でこそ本物になる。


リュシアは小さく息を呑んだ。

守りの重さが、現実になる。

誰かを守るために、彼はどれだけの“裏”を背負っているのだろう。


そのとき――エイドリアンの右手の甲が、ぴくりと震えた。

袖の下で、確かに。

黒紋が疼いた。

痛みの反射。あるいは――敵の気配への反応。


空気が一段冷える。

リュシアの指輪が熱く脈打つ。

守りの膜が厚くなる。


(来る)


そう思った瞬間、外で“硬い音”がした。

金属が石に触れる音。

扉の外、すぐ近く。

工房の前で、誰かが立ち止まった。


職人が息を止める。

リュシアの背中に汗が流れる。

エイドリアンは表情を変えない。変えないまま、指先だけがわずかに動く。術式の準備。


そして、低い声が扉の外から響いた。


「……中にいるのは分かっている。開けろ」


修道院の使い。

祈りの顔をした回収係。


リュシアの胸に、黒い恐怖が広がる。

敵の恐怖だけじゃない。

守りが破れたときに起こる“白”の恐怖。

黒紋が暴れたときに消える“数分”の恐怖。


守る重さは、今この瞬間、命の重さと同じだった。


「……中にいるのは分かっている。開けろ」


扉の外の声は、怒鳴っていなかった。

怒鳴らない脅しは、慣れている脅しだ。回収の手順として人を扱う声。祈りの仮面の裏で、爪を立てる声。


職人が膝を折りかけた。

反射で従いそうになる。家族を思い出した顔。脅迫が、彼の呼吸を奪う。


「見るな。息を数えろ」


リュシアは職人にそう言い、視線を作業台へ落とした。

恐怖を“対象”に変える。対象に変えれば、扱える。


作業台の引き出し――さっき職人の視線が逃げた先。

奥の生活扉ではない。引き出しの奥に、何か“預かりもの”がある。


リュシアは指輪を握った。

刻印が熱い。熱が薄い膜になって、頭の中の白さを押し返す。


(忘れない。いま見る)


エイドリアンが、扉の前に立ったまま低く言った。


「開けない」


外の声が一瞬、止まった。

止まった沈黙は、次の手の準備だ。


「……公爵家か?」


「関係ない」


「関係あるだろ。俺たちは“修道院の使い”だ。預かり物を回収するだけだ」


預かり物。

その言葉が、ここで“原本”と同義になる。


リュシアは作業台の引き出しに手を伸ばした。

鍵がかかっている。だが鍵穴は古い。職人の手が震えているのを見て、リュシアは言った。


「開けて。今なら、あなたの“関与”はこっちが守る」


職人の唇が震える。

守る、という言葉にすがりたくて、同時に怖い。

それでも、外の声の方が怖い。


職人は小さく頷き、鍵を差し込んだ。

金属が擦れる音がやけに大きい。

カチ、と短い音。


引き出しが開き、紙束が出てきた。

封筒。黒い封蝋。――そして、焦げた匂いがまだ残る紙の端。


リュシアの心臓が跳ねた。


(これだ)


封筒を開ける前から分かる。重みが違う。紙質が違う。

王宮の台帳と同じ“白さ”――あの差し替えの白さ。


リュシアは封蝋の縁を指でなぞった。

均一すぎる溝。楕円の枠。職人が言った癖が、ここにある。


「……偽造の枠だ」


声が漏れた瞬間、外の声が苛立ちを帯びた。


「開けろ。いま開けろ」


扉が叩かれる。ドン、と鈍い音。

結界がわずかに軋む。エイドリアンの黒紋が、袖の下で疼いた気配がした。空気が冷える。指輪が熱くなる。


リュシアは封筒を裂き、中身を取り出した。

数枚の証文。修道院名。寄進の記録。会計局の承認欄。――そして、ページ番号。


ページ番号が、飛んでいる。


「……ない」


声が低くなる。

指先が、紙の束を数える。

あるべき“中心の一枚”だけが存在しない。紙の重みが、そこだけ軽い。


(重要ページが、抜かれてる)


抜いたのは誰だ。

いつだ。

何のために。


リュシアの胸に怒りが燃え上がった。

監査の怒り。数字の怒り。紙の怒り。

整えたふりをして、肝心の頁だけを消す――王宮が一番得意な手口。


「ふざけないで……!」


声が震えた。

震えを止められない。怒りで手が熱い。

だが、この怒りは武器だ。怒りが、欠落の輪郭を浮かび上がらせる。


封筒の内側に、薄い擦れがある。

紙を抜いたときの擦れ。

さらに、角に黒い粉が残っている。封蝋を削った粉。開封の痕跡を消すための粉。


(回収係は“回収”だけじゃない。差し替えと欠落を続けてる)


外の声が、低く笑った。


「中の紙は、もう用済みだ」


用済み。

その言い方が、腹の底を煮えさせる。

人の人生を“用済み”にした口で、証拠も“用済み”にする。


リュシアは紙束を握りしめた。

指の跡が残るほど、強く。


「……“原本”はどこ」


ぽつりと漏れた言葉に、職人がびくりと震えた。

外の声も、一瞬だけ沈黙した。


沈黙――当たりだ。


リュシアは顔を上げ、扉の方を見据えた。

見えない相手に向かって、はっきり言う。


「ここにないなら、ある場所は一つ。あなたたちが回収していく“原本”の行き先」


エイドリアンが、扉の前で低く言った。


「リュシア」


止める声ではない。

“抑えろ”という声。今の怒りを、刃に変えろという声。


リュシアは息を吸って、怒りを薄く伸ばした。

怒りを叫びにしない。怒りを問いにする。


封筒の一番下に、紙片が挟まっていた。

半分だけ破れた紙。書き手の癖が残る走り書き。


――「原本は、地下へ」


地下。

修道院の地下。保管庫。あるいは納骨堂。

祈りの場所の下に、金と嘘が眠っている。


リュシアの怒りが、確信に変わる。

重要ページは抜かれた。だからこそ、原本は生きている。敵が“生かしている”。握るために。


外の声が、扉越しに言った。


「最後に言う。開けろ。さもないと……」


脅しの続きを言わせなかった。

エイドリアンが、淡々と、しかし決定的な声で告げる。


「無駄だ」


次の瞬間、結界が一段厚くなる気配がした。

空気が冷える。黒紋が疼く。指輪が熱い。

守りの重さが、工房を包む。


リュシアは紙束を胸に抱え、歯を食いしばった。


(また奪われた。――でも、全部は奪わせない)


重要ページはない。

だが、欠落そのものが証拠だ。

欠落は“原本”の存在を示す矢印だ。


リュシアは震える声で、しかし言い切った。


「原本を取り戻す。……消した分だけ、全部、表に出す」


怒りはまだ消えない。

消えないまま、次の一手に変わっていった。


工房の空気は、重いまま動いた。

扉の外の気配は消えていない。叩く音も、声も止んだ。――止んだのが怖い。

脅しは声を上げて終わるのではなく、黙って始まる。


リュシアは紙束を胸に抱えたまま、走り書きを指で押さえた。


「原本は、地下へ」


短いのに、重い一文。

地下。修道院の地下。

“祈り”の下に、金と記録と偽造の核がある。


(修道院で確定)


焦りはある。

でも今は、焦りの中に前進の手応えが混ざっている。

欠落は、敵が証拠を恐れている証拠だ。恐れているなら、壊せる。


職人が震える声で言った。


「……俺は、頼まれただけだ。修道院の帳面の“修復”だって……」


「修復じゃない。改竄よ」


リュシアは言葉を切った。

切った瞬間、職人の目が潤む。恐怖と罪悪感の混ざった目。

今、彼は“自分が何に使われたか”を理解し始めている。


リュシアはそこで、圧をかけずに“逃げ道”を置く。


「あなたが悪いんじゃない。――でも、あなたは“見た”。見た人間は、武器になる」


武器。

その言い方は冷たく聞こえるはずなのに、職人の肩は少しだけ落ちた。

使い捨てにされる恐怖より、“意味がある”と言われることが救いになる瞬間がある。


「……証人にする」


リュシアは淡々と言った。

淡々と言うことで、現実になる。


「あなたが見た治具の形。黒い封蝋。回収係の特徴。修道院の名。――全部、証言として残す」


職人は青ざめた。

証言。

それは命を賭ける言葉だ。今夜回収が来る、という現実がある以上、なおさら。


エイドリアンが、扉から離れずに言った。


「証人は守る」


短い一言。

だがその一言は、工房の中の空気を一段変えた。

守る、と言える立場の人間が言うと、言葉が“盾”になる。


職人は喉を鳴らし、ようやく頷いた。


「……書く。……俺が見たこと、全部」


リュシアの胸の奥に、前進の確かな手応えが灯る。

証人が立てば、欠落は“ただの欠落”ではなくなる。

欠落の周囲に、口が生まれる。口が生まれれば、嘘は崩れる。


リュシアは紙片を見つめ、もう一度確かめた。


「聖エルミナ修道院。地下の保管庫。原本はそこ」


そして、走り書きの端に残る小さな文字に気づいた。

半分消えているが、読める。


「――院長の許可」


院長。

修道院の中で最も強い権限。

祈りの顔を持つ、支配の中心。


(支配下……)


この一言で、伏線が一本立つ。

会計局だけでは動かせない場所がある。

だから、修道院の権力を借りる。

借りるのではなく――支配している。


支配下。

修道院の中に、誰かの手が入っている。

院長は協力者か、脅迫されているか、あるいは――最初から同じ側か。


職人が、震えながら言った。


「……修道院の人間は、目が……笑ってなかった。祈ってる顔なのに……」


祈りの顔。笑っていない目。

それが怖い。

祈りは本来、人を救うためのものだ。

なのに、その祈りが“支配”に使われているなら――そこは一番危険な場所になる。


リュシアは息を吸い、紙束を机に広げた。

欠落した重要ページの“前後”を示し、職人に指差す。


「あなたが預かったのは、この束。ここからこのページが抜かれてる。抜いたのは誰か。いつか。――思い出せる?」


職人は目を閉じ、必死に記憶を手繰る。

そして、ぽつりと答えた。


「……修道院で、一度……開けられた。院長の部屋だ。……俺は外に出された」


開けられた。院長の部屋。外に出された。

それだけで十分だ。

重要ページは、修道院内で抜かれた可能性が高い。

つまり、修道院が“現場”だ。


リュシアは頷く。


「ありがとう。――それで十分」


十分。

そう言うことで、彼をこれ以上追い詰めない。

追い詰めれば、証人は壊れる。壊れた証人は、武器にならない。


エイドリアンの右手の甲が、また微かに疼いた。

黒紋の痛み。守りの代償。

彼はそれを見せないまま言った。


「移動する。今すぐ」


職人が顔を上げた。


「でも……外が……」


「外は俺が見る」


裏仕事が始まる。

表の手続きでは守れない。

だから、公爵は裏の護衛を動かす。


リュシアはその背中を見て、胸が締め付けられた。

守りの重さ。

守りの代償。

守られるほど、彼が削れる伏線が、今ここで現実になる。


それでも、足は止めない。

止めたら、修道院の地下に原本が沈む。

沈めば、冤罪のまま終わる。


リュシアは職人へ言った。


「証言は“形”にする。あなたの言葉を、消せない形に」


職人は頷いた。

震えているけど、逃げない目になっている。

恐怖の中で、ようやく“自分の足場”を見つけた目。


リュシアは自分の指輪を握り、胸の奥で誓った。


(修道院へ行く。原本を取る。支配の手を剥がす)


祈りの場所の地下にあるのは、救いじゃない。

――嘘の核だ。


そして、そこへ行けばきっと分かる。

ヴァルターだけじゃない。

もっと深い“支配”の手が、どこまで伸びているのか。


工房を出る直前、エイドリアンが灯りを一つずつ落とした。

火は消すのではなく“落とす”。外から見たときに生活の気配が消えるように。裏仕事の手つきだった。


職人は小さな布袋を胸に抱え、家族のいる奥へ走る。

荷物は最小限。必要なのは生活じゃない。命だ。


リュシアは作業台の上の金属片――楕円の治具の縁をもう一度目で焼き付けた。

均一な溝。真鍮の色。押印の癖。

これが、嘘の指紋だ。


「証拠は“癖”を隠せない」


口に出した瞬間、指輪がじんわり熱を帯びた。

刻印が脈打つ。忘れないための熱。


エイドリアンが短く頷き、扉に手をかけた。


「開ける」


その声は静かだった。

静かなのに、命令以上に重い。

外に敵がいる。敵は手順で殺す。だから、開ける瞬間が一番危険だ。


扉が軋み、冷たい夜気が流れ込む。

職人街の喧騒はまだある。だが、工房の前だけ音が薄い。

人の流れが“避けている”空気。


――影がいる。


屋根の縁。角。柱の陰。

見えないのに、見える。


リュシアの背中に汗が流れた。

緊迫で喉が乾く。

それでも、頭の中は白くならない。指輪の膜が、ぎりぎりで意識を支えている。


エイドリアンが先に外へ出た。

次に、リュシアと職人。

最後に工房の扉が閉まる音がした。鍵ではない。閉めただけ。閉めただけで、“ここにはもう誰もいない”顔にする。


路地の先に、黒い馬車が停まっていた。

無地。紋章なし。

紋章がないのが、紋章だった。裏の車。回収の車。


リュシアの胸が冷えた。


「……あれ」


職人が声を震わせる。

声を出した瞬間、路地の影が動いた。


カツ、と石を踏む音が一つ。

次に、二つ。

金属が擦れる音。刃を抜く音ではない。むしろ、手袋が布を撫でる音。慣れた準備の音。


エイドリアンの右手の甲が、袖の下で脈打つ気配がした。

黒紋が疼く。

守りの壁が張られる冷気が、空気に混ざる。


「走る」


エイドリアンが短く言った。

命令ではない。生存の手順だ。


三人が路地へ踏み出した瞬間、影が声を落とした。


「――公爵閣下。ご挨拶を」


低い声。丁寧語。

修道院の使いと同じ匂い。祈りの顔をした回収係。


影から二人の男が現れた。黒い手袋。

そして、その後ろにもう二人。合計四人。

数が増えている。工房の前で“確認”し、今夜は“処理”に来た。


職人が息を呑む。

足が止まりかける。

止まれば終わる。


リュシアは紙束を胸に押さえ、視線を上げた。

恐怖はある。でも、恐怖の中に確かな輪郭がある。


(回収係は、証拠だけじゃない。証人も回収する)


エイドリアンが一歩、前へ出た。

その瞬間、空気が変わる。

王宮の回廊みたいに、世界が膜で区切られる。外の音が少し遠のく。


男たちが眉を寄せた。

結界の冷気に、気づいた顔。


「閣下。お手を煩わせる必要は――」


「ある」


エイドリアンの声が落ちた。

短い。鋭い。

彼は視線を動かさず、背中越しにリュシアへ言った。


「君の手を汚す前に、影を消す」


その言葉に、リュシアの胸がきゅっと痛んだ。

守られる衝撃。

守る代償。

そして、彼の黒紋の疼きが一段強くなる気配。


男の一人が、笑うように息を吐いた。


「影を消す? 閣下もお疲れのようだ。……“そういう日”は、短くなる」


その一言で、背筋が凍った。

彼らは知っている。黒紋を。発作を。記憶が消える数分を。

利用する気だ。追い詰めて、暴走させて、皆まとめて白くする。


(襲撃は、発作を誘発するための襲撃)


リュシアの指輪が熱く脈打つ。

膜が厚くなる。

それでも怖い。黒紋が暴れたとき、守りが間に合う保証はない。


エイドリアンの右手が、ほんの僅かに上がる。

術式を起動する合図。

同時に、男たちが散る。左右へ。背後へ。

逃げ道を潰す動き。慣れた“襲撃”の動き。


――そのとき。


路地の奥で、別の足音が鳴った。

速い足音。複数。

金槌の音の中に、硬い規律の足音が混ざる。


(味方? それとも、さらに追手?)


判断する暇はない。

今、ここで生き残る手順を選ぶしかない。


エイドリアンが低く言った。


「頭を守れ」


そして、空気が一気に冷えた。

黒紋が、見えない場所で確かに疼く。

発作の前兆の冷気。

記憶が削れる夜と同じ匂い。


リュシアは歯を食いしばり、指輪を握り込んだ。

熱い膜が、彼女の意識を繋ぎ止める。


襲撃は、予告では終わらない。

始まりだ。


残りの証拠は修道院――ただし追手つき。

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