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冤罪で追放された令嬢、呪い持ち魔導師公爵と100日限定の契約結婚します  作者: swingout777


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初の公の場

王宮の門が見えた瞬間、胃の奥がきゅっと縮んだ。

白い石の壁。高い塔。整いすぎた威圧。――ここは、彼女を罪人にした場所だ。


馬車の中で、リュシアは指輪をそっと撫でた。

赤い刻印は落ち着いている。だが、王宮へ近づくほど、指の根元が微かに熱を帯びる。結界の外は不安定だ、と言われた。だから熱い。だから守っている。そう理解しようとしても、心は落ち着かない。


向かいに座るエイドリアンは、相変わらず無駄な動きをしない。

外套の襟を正し、膝の上に手を置き、窓の外を見ている。表情は平坦。だが、馬車が門へ近づくにつれ、右手の甲が一瞬だけ脈打つのをリュシアは見逃さなかった。


(……守るほど削れる)


第2話の夜の記憶がよみがえる。

彼は何も言わない。だからこそ、リュシアは余計に緊張する。王宮は彼の結界の外だ。つまり彼の負担も増える。


馬車が止まり、門前の衛兵が駆け寄ってくる。

鎧の擦れる音。槍の石畳を叩く音。王宮特有の、正しさの音。


「馬車を止めよ。入城許可証を提示せよ」


エイドリアンが先に扉を開けた。

立ち上がるだけで、空気が変わる。護衛の衛兵たちがほんの僅かに姿勢を正し、視線の角度が変わる。名乗りを聞く前から“格”が伝わるのは、嫌なほど分かりやすい。


「アルノルト公爵家」


短い言葉。

それだけで衛兵の顔色が変わった。


「……失礼いたしました、閣下!」


衛兵が慌てて頭を下げ、入城手続きのための木札を差し出す。

リュシアはその手際の良さに、むしろ寒気がした。罪人には一切の猶予がなく、公爵には一瞬で道が開く。正しさの顔をした不均衡。


エイドリアンが木札に触れ、淡い光が走る。

術式による認証だ。王宮の結界と、公爵家の結界が互いを確認している。許可が整えば門は開く。


そのとき、衛兵の視線がリュシアに滑った。

一瞬の困惑。次に、疑い。

罪人の顔を思い出した、という目だ。


リュシアは背筋を伸ばした。

目を逸らさない。逸らしたら、また“罪人”に戻る。


エイドリアンが淡々と言った。


「妻だ」


たった二文字が、門前の空気を一変させた。

衛兵の疑いが引っ込む。引っ込ませるしかない、という顔。王宮の衛兵は、身分秩序に逆らえない。


「……奥方様。どうぞ」


呼び方が変わる。

その変化が、気持ち悪いほど早い。


門が開き、馬車が王宮内へ進む。

中に入った瞬間、リュシアの喉が乾いた。石畳の広場。白い柱。遠くに見える裁定の広間の尖塔。――ここで断罪された。ここで奪われた。戻ってきたくなかった。


(でも、戻った)


戻ったのは復讐のためではない。

証明のためだ。自分の名を取り戻すためだ。


馬車が所定の停車場所へ着くと、今度は役人が現れた。

手続き担当の官吏。紙束を抱え、目が死んでいる。けれど身分には敏感で、エイドリアンを見るなり背筋が伸びる。


「アルノルト公爵閣下。入城の記録、ならびに――奥方様の登録手続きを」


登録。

その言葉が、リュシアの背に冷たいものを走らせた。登録は“存在の固定”だ。王宮の台帳に名前が載る。載ったら、消すのは難しい。


(籠の鳥の扉が、また一つ閉まる音)


だが、今はその音を聞きながらでも前へ進むしかない。


官吏が木箱を開け、分厚い台帳を取り出した。

王宮入城記録。貴族の出入りが記される冊子。

ページがめくられ、インクの匂いがふわりと立つ。


「奥方様の氏名を……」


「リュシア・ヴァレリウス」


言った瞬間、官吏のペン先が止まった。

止まり方が不自然だった。ほんの一瞬だが、ペンが紙に触れず宙で固まる。まるで、書きたくないものを書かされるように。


官吏が喉を鳴らし、視線を台帳の別の欄へ滑らせた。

その動きが、リュシアの監査の目を刺激する。何を見た? どこを確認した?


官吏は「確認のため」と言い訳するように、別のページをめくった。

そして――ほんの僅かに眉を寄せる。


(……違和感)


リュシアはその表情を見逃さない。

台帳は、嘘をつけないと言われる。だが、嘘をつけないものほど、嘘が混ぜられたときに露骨になる。


官吏はページの端を指で押さえ、慎重にペンを走らせた。

だが、書く場所が一箇所ずれている。

本来、入城記録は「家名」「当主名」「同伴者」を並列で書く。なのに官吏は、同伴者の欄を避けるように、別の欄へ書こうとしている。


「……こちらで」


官吏がそう言って、台帳の余白へ書き込もうとした瞬間――


リュシアは口を開いた。


「その欄、違いますよね」


官吏の手が止まる。

空気が一瞬、凍る。


エイドリアンがリュシアを見た。

何も言わない。だが、その視線は「続けろ」とも「やめろ」とも取れる。試している目。


リュシアは落ち着いて、台帳の規則を口にした。


「入城記録は、同伴者は同伴者欄に記載する。余白は追記欄で、通常は――欠番や訂正のときに使います」


官吏の喉が動いた。

汗が額に浮く。罪人に指摘される屈辱。あるいは、指摘されたら困る何か。


「……失礼。手続き上の都合で」


都合。

その言い訳が一番怪しい。


リュシアの胸の奥で、監査の歯車が回り始めた。

“都合”があるなら、そこに利益がある。利益があるなら、誰かがそれを作った。


(台帳に、何か仕込まれている)


違和感は小さい。

だが、監査は小さな違和感から始まる。

そして小さな違和感は、たいてい“偽造の入口”だ。


リュシアは官吏のペン先ではなく、台帳の紙質を見た。

そのページだけ、微かに厚い。

紙の白さが違う。

製紙所のロットが違うときの、わずかな違い。


(差し替え……?)


疑念が形を取る前に、エイドリアンが淡々と言った。


「正しい欄に書け」


それだけで官吏は顔色を変え、慌てて同伴者欄に書き込んだ。

権力の一声が、手続きを正す。――いや、正させる。


リュシアはその一連を見て、口の中が苦くなった。

正しさは、権力に従う。

だからこそ、記録は歪む。


台帳が閉じられ、官吏が深く頭を下げる。


「手続きは完了いたしました。どうぞ――」


形式の言葉が続く。

だが、リュシアの意識はもう台帳に戻っていた。

ページの厚み。余白へ書こうとした動き。官吏の焦り。


(ここからだ)


王宮へ来たのは、証明のため。

そして証明は、こういう違和感のひとかけらから始まる。


リュシアは指輪をそっと握り、胸の奥で確かめた。

緊張は消えない。だが、緊張の中に、反撃の手応えが確かに生まれていた。


入城手続きの場を離れ、回廊へ入った途端、王宮の匂いが戻ってきた。

石と香と、人の思惑の匂い。歩くたびに衣擦れの音が反響し、どこからともなく視線が刺さる。


「公爵閣下の奥方様」

「……あの方が?」


囁きが、背中にまとわりつく。

奥方。そう呼ばれるほど、胸の奥がざらつく。役を被るのは盾だ。でも盾は重い。


リュシアは視線を前に固定して歩いた。

考えるな。振り返るな。ここで感情を見せれば、また“物語”にされる。罪人が成り上がった、と。


回廊の角を曲がった瞬間、声がした。


「――リュシア?」


呼び方が、親しげだった。

だが、その親しげさが、刃だった。


リュシアの足が止まる。

息が一拍遅れる。胸の中で、怒りがすぐに火を上げた。あの日の広間。彼の「みっともない」。婚約破棄。視線を逸らした顔。


振り向くと、そこにレオンがいた。

いつも通り整った髪。きれいな礼服。王宮の光がよく似合う、正しい貴族の姿。――正しさの衣装を着たまま、人を切れる男。


「生きていたのか」


最初の言葉が、それだった。

安堵ではない。驚きでもない。確認と、失望。

“消えているはずのもの”が残っていたときの顔。


リュシアのこめかみが熱くなる。


「あなたに心配される筋合いはないわ」


言った瞬間、レオンは口元を歪めた。

笑みの形。だが目が笑っていない。むしろ、勝者の慈悲を演じる目。


「王宮に戻ってくるとは思わなかった。……それも、公爵閣下の隣で」


視線がエイドリアンに移り、露骨な計算が走る。

公爵の価値を測り、同時にリュシアの価値を“付属品”として測る視線。彼女の怒りが、さらに濃くなる。


エイドリアンは表情を変えない。

ただ、わずかに目を細めた。薄い刃のような静けさ。


レオンは咳払いを一つして、正義の顔を作った。


「君は罪を犯した。王宮会計局の金を――」


「まだ“罪”だと言うの?」


リュシアの声が低くなる。

怒りで喉が震えそうになるのを、歯で止める。ここで叫べば負ける。だから、静かに刺す。


「証拠が揃っていると判断された。裁定官もそう言った。……君がどれだけ否定しても、事実は変わらない」


正義面。

“裁定官が言った”を盾にして、自分の責任を消す。

レオンはいつだって、そういう男だった。自分の意見ではなく、権威の意見を借りて相手を断罪する。だから手が汚れない。


リュシアの指輪が微かに熱を帯びた。

刻印が反応する。怒りに反応しているのか、言葉に反応しているのか。どちらにせよ、熱が腹の底を押し上げる。


「事実?」


リュシアは一歩、レオンへ近づいた。

距離を詰めた瞬間、彼の眉がほんの僅かに動く。無意識に半歩下がりかけ、踏みとどまる。彼はいつも、強い者の前では下がらない。だが、弱い者には容赦しない。


「じゃあ聞くわ。あなたは“承認書類”を見た? 私の筆跡だと本当に思った?」


レオンがわずかに目を逸らす。

その一瞬が、答えだった。


「……見たさ。もちろん」


嘘。

見ていない。見たとしても、見たふりだ。


リュシアは笑わなかった。

代わりに、淡々と告げた。


「あの押印、綺麗すぎた」


レオンの目が、ほんの僅かに揺れた。

揺れはすぐに消えるが、確かに揺れた。

“綺麗すぎた”という指摘に反応した。それはつまり、押印の不自然さを知っているか、聞いたことがあるか。


(やっぱり……何か知ってる)


リュシアの監査の目が、そこを掴む。


「印章は、急いで押せば端が潰れる。蝋は均一に盛れない。なのに、あの印は――職人が作ったみたいに完璧だった」


“偽印章”という単語を、あえて言わない。

言わないほうが刺さる。相手の頭の中で勝手に補われ、勝手に怯える。


レオンは笑みの形を保とうとした。

だが、口元の筋が少しだけ固くなる。


「君は、また言い訳を――」


「言い訳じゃない。観察」


リュシアは遮った。

遮ること自体が、反撃だ。広間では遮られた。今度は遮る側に回る。


「あなたは“正しい側”に立ちたいだけ。私を捨てたのも、罪人と婚約していると評判が落ちるからでしょう」


レオンの頬がぴくりと動いた。

図星。怒り。だが怒りを出せない。正義面が崩れるから。


「……公爵閣下に失礼だろう」


レオンは矛先をエイドリアンへ移した。

自分が傷つきたくないとき、人は他人を盾にする。卑怯なやり方が、昔から変わっていない。


エイドリアンは、ようやく口を開いた。


「失礼なのは、お前だ」


短い一言。

それだけで回廊の空気が凍る。周囲の視線が一斉に集まり、息が止まる。権力の刃は、抜かなくても切れる。


レオンが一瞬、言葉を失った。

しかしすぐに、取り繕うように笑う。


「申し訳ありません、閣下。私はただ、王宮の秩序を――」


秩序。

また権威の言葉を借りる。

自分の心ではなく、王宮の言葉で人を裁く。


リュシアの胸の怒りが、鋭い形に変わった。

感情のままに殴る怒りではない。刃を研いだ怒りだ。


「秩序なら、帳簿を整えなさいよ」


レオンの目が細くなる。


「帳簿?」


「ええ。入城台帳の紙質が一部だけ違った。――誰かが記録を差し替えた可能性がある」


レオンは笑った。

だが、その笑いが少しだけ遅れた。


「君は……何を言っているんだ。台帳が偽造だとでも?」


“偽造”という言葉を、彼が自分から出した。

リュシアの内側で、確信が一段深くなる。


(偽造の話題に敏感すぎる)


リュシアは笑みの形だけを作った。


「さあ。私は観察しただけ。――でも、偽造という単語があなたの口から出るのは面白いわね」


レオンの目が一瞬だけ鋭くなる。

そしてすぐに、正義の仮面に戻る。


「君は変わったな。……公爵閣下の影響か?」


その言葉は、彼女を“誰かの所有物”に戻そうとする言い方だ。

怒りが、また熱を持つ。


リュシアはレオンを見据え、ゆっくり言った。


「変わったのは、あなたよ。正しい顔で、弱い者を踏むのが上手になった」


レオンの笑みが、ほんの僅かに歪んだ。

それは初めて、仮面が揺れた瞬間だった。


リュシアはその揺れを胸に刻む。

揺れるなら、割れる。

割れるなら、嘘が見える。


そして彼女は、最後にもう一度だけ、押印のことを思い出した。

完璧すぎる線。均一すぎる蝋。

偽印章の匂い。


(あの印は、誰が作った。誰が押した。誰が“正しい”とした)


答えは、王宮のどこかにある。

そして――目の前の男も、その“どこか”に繋がっている。


レオンの笑みが歪んだ瞬間――空気が、切れた。


「奥方様」


背後から、官吏の声が滑り込んでくる。

丁寧すぎる声。丁寧さで首を絞める声。


「こちらへ。……罪状に関する“再確認”の手続きがございます」


再確認。

その言葉だけで、胃の奥が反転しかけた。

王宮の手続きはいつだって“正しい形”をしている。正しい形をしているから、拒めない。拒めないから、潰せる。


リュシアの指輪が、じわりと熱を持った。

刻印が締まる感覚。警告の熱。――来る、と身体が先に知っている。


リュシアが返答する前に、エイドリアンが一歩、前へ出た。


「ない」


たった一言。

音量は低い。だが、回廊の石がその一言を反響させ、周囲の囁きが一斉に止まる。


官吏が凍りつく。


「……閣下、しかし規定では――」


「規定を持ち出すなら、こちらも持ち出す」


エイドリアンは懐から一枚の札を取り出した。

紙ではない。薄い金属板。王宮の認証印が刻まれた“通行許可”だ。

表面に走る文字は簡潔で、だからこそ強い。


官吏の顔色が変わった。

規定を上書きする規定。権力の上の権力。


「王宮監査局への照会権、ならびに当該案件に対する閲覧・同行を、アルノルト公爵家が引き受ける」


淡々と読み上げられる。

その文面の中に「罪人」も「冤罪」も出てこない。あるのは、ただ“案件”と“権限”だけ。


リュシアは息を止めた。

守られる衝撃が、胸の中心に落ちる。

守られることに慣れていない。守られることが怖い。守られると、逆に足がすくむ。自分の足で立っていない感覚がする。


けれど――同時に、世界が一枚隔てられた。


官吏の言葉が、届かなくなる。

レオンの正義面の声が、薄くなる。

王宮の視線が、膜の向こうに押し返される。


(遮断された)


私を潰してきた“王宮の正しさ”から、一瞬だけ切り離された。

それが、信じられないほど眩暈みたいに効く。

救いではない。安全でもない。……ただ、衝撃だ。


官吏が汗をにじませ、視線を左右へ逃がす。

周囲には貴族たちの目がある。

そして何より、今ここに“公爵”がいる。


「……承知いたしました。閣下のご権限にて」


官吏は折れる。

折れるしかない。

折れ方が、あまりに綺麗だ。王宮はこうやって形だけ正しさを保ち、実態は強い者に従う。


レオンが口を挟もうとした。


「公爵閣下、それは――」


「口を閉じろ」


エイドリアンの声が落ちた。

今度は短い命令ではなく、はっきりとした拒絶。

レオンの喉が詰まり、言葉が途中で死んだ。正義面が役に立たない瞬間の顔。


リュシアは、その顔を見てしまって、喉の奥が熱くなる。

怒りではない。

悔しさに似た熱――「私ひとりではここまでできなかった」という悔しさ。


(政治力……)


剣でも魔法でもない。

札一枚、文言一つ、相手の立場の押さえ方一つ。

それだけで王宮の手続きを曲げる。

曲げたのに、“規定”の顔は守られている。これが政治だ。これが権力だ。


エイドリアンが振り返り、リュシアを見た。


「行くぞ」


その言葉は、護衛の指示みたいに淡々としていた。

だが、淡々としている分だけ、彼の保護が“当然の前提”になってしまうのが怖い。


リュシアは一歩、ついていく。

ついていく自分に腹が立つ。

それでも、ついていく。


回廊を歩き出した瞬間――エイドリアンの右手の甲が、ぴくりと震えた。

黒紋が、薄く浮いてくる。目に見えるほどではない。だが、リュシアには分かる。空気が一段冷える。


「……閣下?」


呼びかけると、エイドリアンは視線を逸らさずに言った。


「見るな」


短い。硬い。

それでも声が掠れていた。ほんの僅かに。


黒紋が疼いている。

王宮の結界、王宮の視線、王宮の“正しさ”。

それらを遮断し続けるだけで、彼の内側が削られる――第2話の夜の伏線が、ここで確かな形になる。


リュシアの指輪が熱を帯び、刻印が脈を打った。

守りが動いている。

彼の疼きと、彼女の刻印が、見えない糸で同期してしまう。


(……私が守られるほど、彼が痛む?)


その疑念が喉の奥に引っかかった。

代償隠し。守るほど削れる。

まだ答えはないのに、手触りだけは強くなる。


エイドリアンは歩調を変えない。

痛みを見せない。

見せないまま、王宮の人間を見えない壁の外へ押し返し続ける。


そして、角を曲がる直前、彼が小さく息を吐いた。

その吐息が、かすかに震えていた。


「……急ぐ」


それだけ言うと、彼はさらに回廊の奥へ進んだ。

リュシアは追いつきながら、背後を振り返らなかった。


振り返れば、また“罪人”に戻される。

振り返らなくても、胸の奥で怒りは燃えている。


(潰されたなら、潰し返す。正しさの顔を剥ぐ)


守られる衝撃は、甘さじゃない。

今のリュシアにとっては、反撃のための刃の鞘だ。


鞘の内側で刃は研がれ、

その研ぎ音に合わせて――公爵の黒紋が、見えない場所で疼いていた。


監査局の閲覧室は、王宮の中心から半歩ずれた場所にあった。

豪奢な広間の光も、裁定の広間の冷気も届きにくい――だからこそ、ここには紙の匂いが濃い。インクと埃と、積み重なった時間の匂い。


机に置かれた台帳は三冊。

会計局の出納台帳、倉庫受払台帳、そして――承認印の管理台帳。


「閲覧はこの場のみ。筆写は許可範囲内に限る」


官吏が形式の声で言い、視線をエイドリアンへ滑らせる。

公爵の前では規則が丁寧になる。丁寧さで“縛り”を作るためだ。


エイドリアンは頷くだけで、官吏を退がらせた。

それだけで、机の周囲の空気が少し軽くなる。

遮断。彼が作る壁の内側に入った感覚が、リュシアの背筋を支えた。


リュシアは、まず出納台帳を開いた。

目はもう慣れている。数字の並びは嘘をつかない――ただし、嘘をつくのは“並べ方”だ。


(落ち着け。息を数えろ。順番通りに)


左頁が収入、右頁が支出。月ごとの締め。

担当者のサイン。上席の承認印。

形式は完璧に整っている。整いすぎていて、吐き気がした。王宮の嘘は、いつも整っている。


リュシアは指先で行をなぞり、数字を“音”に変える。

千、百、十、一。

桁の揺れ。端数の癖。人間の手癖。そこに真実が残る。


一刻。二刻。

蝋燭の芯が短くなる頃、リュシアの指が止まった。


(……穴)


穴、というのは空欄じゃない。

数字の“形”が合わない。

帳尻は合っているのに、流れが合わない。


例えば、収入の項目にある「臨時納入金」。

三回、同額が続いている。

それ自体はあり得る。だが、同額が続くときの人間は、端数の切り捨て方に癖が出る。

ここには癖がない。均一すぎる。


リュシアは倉庫受払台帳を引き寄せ、同じ月を開く。

物の流れは金の流れより誤魔化しにくい。物は消えない。帳面が消しても、空気が覚えている。


――そして、見つけた。


倉庫の受払に、同日に「資材払い出し」の記載がある。

支出として出納台帳にもある。

だが、受払台帳の数量と、出納台帳の金額が噛み合わない。


(単価が違う)


一見、誤差に見える。

端数。運賃。手数料。

言い訳はいくらでも立つ、薄い違和感。


でも、この違和感は“薄い”のに、帳尻だけは綺麗に合っている。

綺麗に合っているのが逆に怪しい。

適当に誤魔化したなら、どこかが荒れる。

ここは荒れていない。整えた手がいる。


リュシアの胸が、ふっと軽くなった。

嫌な軽さじゃない。希望に近い軽さ。


(見える。嘘の縫い目が見える)


リュシアは、黙って紙片に数字を写した。

書くことで、世界が固定される。

奪われても、頭に残る。

そして今は――奪われない紙がある。


「……閣下」


呼びかけると、エイドリアンが視線を上げた。

いつも通り無表情。だが、目の奥だけが“待っている”。


リュシアは、台帳を二冊並べて示した。


「ここ。臨時納入金が三回、同額で入っている。その同日に倉庫から資材が払い出されてる。でも単価が合わない」


「横流し?」


「可能性はある。でも単純な横流しなら、ここまで綺麗に整えない」


リュシアは承認印の管理台帳を指で叩いた。


「整えるために必要なのは、承認印。――そして、印を“正しく見せる技術”」


エイドリアンの右手の甲が、微かに疼いた。

黒紋の気配。王宮の中で、守り続ける痛み。

それでも彼は声を乱さない。


「……印章職人か」


リュシアは頷いた。

胸の中に、一本の道が引かれるのを感じた。

数字の穴から、手がかりの導線が伸びる。


「印章の“形”は職人が作る。偽造するにも職人が要る。あるいは、職人の刻印石が一時的に持ち出されてる」


リュシアは、管理台帳のある行を指した。

「保管庫開封」の記録。

日付。署名。押印。

その日付が、臨時納入金の初回と一致している。


偶然、ではない。

偶然にしたかった痕跡だ。


リュシアは息を吸い、言葉を確かめるように告げた。


「この日、保管庫が開けられてる。理由は“定期点検”。でも点検の担当者名が、別の月と筆跡が違う。……誰かが、点検を口実に印章を触ってる」


エイドリアンの視線が細くなる。

そして、短く言った。


「行き先は」


「印章職人。王都の工房か、宮廷御用の刻印師」


リュシアは、久しぶりに“勝てる”感覚を掴んだ。

まだ証拠ではない。

でも、穴がある。穴があるなら、塞いだ者がいる。

塞いだ者がいるなら、手がある。

手があるなら――掴める。


リュシアは指輪を握った。

刻印がほんのり熱い。

籠の中でも、刃は研げる。

そして今、刃先が初めて“何か”に当たり始めた。


「閣下。次は、工房へ行きたい。……“偽印章”の匂いの出どころを、掴みます」


エイドリアンは一拍置き、頷いた。


「許可する」


その言葉と同時に、黒紋がまた小さく疼いた。

守りの代償が、確かに積み上がっていく。


それでもリュシアの胸には、はっきりと灯ったものがあった。


――希望。

数字が嘘を裂く音。

そして、印章職人へ続く一本の道。


閲覧室を出た瞬間、王宮の空気がまた“濃く”なった。

紙の匂いが薄れ、代わりに香と金属と、人の思惑が鼻の奥に刺さる。回廊の天井は高いのに、息がしづらい。――ここは、空間そのものが監視だ。


リュシアは台帳の写しを胸元に押さえた。

紙は薄いのに、重い。今の彼女にとっては剣より重い。剣より価値がある。


「急ぐぞ」


エイドリアンが小さく言った。

声は平坦。だが、歩調がほんの僅かに早い。彼が“急ぐ”ときは、外の状況が動いている。


(気づかれた?)


疑念が頭をよぎる。

違和感の穴を覗いたことが、誰かに伝わったのか。閲覧室にいた官吏の目が、妙に乾いていたのを思い出す。規則の顔をしながら、誰かに報告する目。


回廊の角を曲がったとき、空気がさらに冷えた。

視線が一斉に集まる。集まって、すぐ逸れる。

“見たくないものを見た”みたいな逸れ方。


そこにいたのは――会計局長ヴァルター・グレイグだった。


黒の外套。会計局の刺繍。

笑みは薄いのに、目だけが濡れていない。

断罪の広間で、彼女を見下ろしたのと同じ目だ。


「公爵閣下」


ヴァルターが先に頭を下げた。

深く、丁寧に。礼儀の形だけは完璧だ。

だが、その丁寧さが“圧”だった。礼儀という名の檻。相手を持ち上げるふりをして、動きを縛る。


「ご多忙のところ、王宮までお運びいただき感謝いたします」


次に視線が、リュシアへ滑った。

滑り方が、刃だった。


「……奥方様も。お元気そうで何より。――驚きました」


驚き。

その単語の中身は、失敗への苛立ちだ。

“消えているはずの存在が残っている”驚き。


リュシアの指輪が、じわりと熱を持った。

刻印が反応する。怒りへの反応か、危険への反応か。どちらでも同じだ。体が先に戦闘態勢になる。


エイドリアンは表情を変えずに言った。


「用件は」


ヴァルターは笑みを崩さないまま、言葉を選ぶ。


「監査局で閲覧をされていたと聞きまして。……あの件はすでに裁定が下りております。再調査は、王宮の秩序を乱しかねません」


秩序。

また“正しさ”の顔。

レオンと同じだ。権威の言葉を借りて、人を黙らせる。


リュシアは息を整えた。

怒りはある。だが、今は怒りで勝たない。監査で勝つ。


「秩序は、整っているからこそ保たれます」


リュシアが静かに言うと、ヴァルターの目が一瞬だけ細くなる。

罪人が口を開いたことへの苛立ち。

だが、すぐに笑みへ戻す。正義面の上位互換の笑み。


「奥方様。会計の秩序は、我々が守っております。――不用意な憶測は、ご自身の立場を危うくしますよ」


脅しを、丁寧語で包む。

それがこの男のやり方だ。

“口封じ”は刃ではなく、制度と噂で行う。


エイドリアンの右手の甲が、微かに疼いた。

黒紋の気配。王宮の中で壁を作り続ける痛み。

それでも、彼は淡々と言った。


「危うくするのは俺の判断だ」


ヴァルターの笑みが、ほんの僅かに薄くなる。

公爵の政治力が、ここでも働く。

だが、ヴァルターは引かない。引かない種類の人間だ。引くときは、次の手を打ったあとだ。


「もちろん、閣下のご判断に異議はございません」


言いながら、ヴァルターは指を軽く鳴らした。

それが合図だった。


回廊の奥から官吏が二人、急ぎ足で現れる。

手に抱えているのは、封蝋の押された封筒と、薄い木箱。

木箱の蓋には会計局の印。しかも――妙に“綺麗”な印。


(……印が、綺麗すぎる)


胃の奥が冷えた。

まただ。完璧な線。均一な蝋。

偽印章の匂いが、鼻先に立つ。


ヴァルターは木箱を受け取り、エイドリアンへ差し出す。


「本日、緊急の支払い承認が必要となりまして。公爵家のご協力を願えないかと」


緊急。

急ぎの動き。

承認。

そして“協力”。


(潰しに来た)


リュシアは直感した。

これは頼みに来た形をした牽制だ。

今、彼女が“印章職人”に向かおうとしている。その前に、印と承認の話を被せてくる。焦点をずらす。時間を奪う。あるいは――罠に引き込む。


エイドリアンが受け取る前に、リュシアは口を開いた。


「その承認、今日でなければならない理由は?」


ヴァルターの笑みが揺れた。ほんの一瞬。

罪人が“手続きの急ぎ”を問うのは、監査の問いだ。

そして監査の問いは、嘘を嫌う。


「王都の防衛資材です。遅れれば――」


「なら、倉庫受払台帳と突合できますね」


リュシアが淡々と返すと、官吏の喉が動いた。

“突合”の単語に反応した。

さっき閲覧室で見つけた穴が、確かにここへ繋がっている。


ヴァルターは笑みの形を保ったまま、声の温度を一段落とす。


「奥方様は、ずいぶんとお急ぎのようだ」


急ぎ。

今度は逆に、彼女を“焦っている女”に見せる言葉。

噂の材料を作る言葉。

女は感情で動く、という物語へ押し込む言葉。


リュシアは、その罠に乗らない。


「急いでいるのは、あなたの方でしょう」


静かな一言。

回廊の空気が、ほんの僅かに固まる。


ヴァルターの目が、リュシアの指輪へ落ちた。

赤い刻印。公爵夫人の証。

その刻印を見た瞬間、彼の瞳の奥で何かが動く。苛立ちか、計算か――あるいは、警戒。


「……閣下」


ヴァルターがエイドリアンへ視線を戻し、丁寧に言う。


「奥方様が誤解を深めぬよう、どうかご配慮を。……王宮は、優しい場所ではありません」


優しい場所ではありません。

それは忠告の形をした脅しだった。

“口封じ”は続いている、と言外に告げる脅し。


エイドリアンは一拍置き、木箱を受け取らずに言った。


「承認はしない」


ヴァルターの笑みが、止まった。

止まったのは一瞬。すぐに笑みを作り直すが、作り直した笑みは薄い。


「……それは」


「監査中だ。案件に触るな」


淡々と告げるエイドリアンの声は、低い壁だった。

政治力の壁。王宮の規定の顔を借りながら、会計局の動きを遮断する壁。


ヴァルターは礼儀正しく頭を下げた。


「承知しました。では――後日、正式に」


そう言いながら、彼は官吏に木箱を戻す。

官吏の動きが速い。速すぎる。

まるで“失敗を回収する”動きだ。


そしてヴァルターは、リュシアへだけ聞こえる声量で囁いた。


「奥方様。……“忘れる”というのは、案外楽ですよ」


一瞬、背中が凍った。

第2話の“数分が消える夜”が、脳裏をよぎる。

彼は知っている。屋敷の影響を。黒紋を。あるいは、利用の仕方を。


リュシアの指輪が、熱く脈打った。

守りの膜が一段厚くなる。

同時に、エイドリアンの黒紋が微かに疼く。


守られる衝撃。

守る代償。

そして、口封じがまだ続いている現実。


ヴァルターは再び丁寧な笑みを貼り付け、公爵へ向き直る。


「本日はお時間をいただき、ありがとうございました。――どうか王宮の秩序のために」


秩序。

その言葉を残し、彼は回廊の向こうへ消えていった。


残されたのは、薄い甘い香と、冷たい不穏だけ。


リュシアは胸元の写しを握りしめた。

希望の導線は見えた。

だからこそ、敵も動く。急ぎの動きで潰しに来る。


(印章職人へ――今すぐ)


一瞬遅れれば、また証拠が消える。

また“数分”が消える。

また、名が消される。


エイドリアンが低く言った。


「……走るぞ」


その言葉と同時に、彼の右手の甲がまた疼いた。

黒紋が、見えないところで確かに叫んでいた。


王宮を出ると、空がやけに広く見えた。

広いのに、胸はまだ狭い。回廊の香と圧が、肺の奥に残っている。――あの場所は、一度入っただけで“自分の形”を削ってくる。


馬車が門を抜ける瞬間、衛兵の視線がまた刺さった。

だが今度は、刺さるだけだった。刺しても届かない。届かせない壁が隣にいる。


「止まれ。奥方様――」


門番の声が上がりかけた、その瞬間。


エイドリアンが、低く言い放つ。


「彼女に触れるな。俺の妻だ」


たったそれだけで、衛兵の足が止まった。

言葉が止まった。

王宮の“正しさ”が、権力の前で形を変えるのを、リュシアははっきり見た。


守られている。

その事実はまだ胃に重い。

けれど同時に――反撃の足場でもある。


馬車が石畳を叩き、速度を上げる。

車輪の音が、王宮の囁きを後ろへ追いやる。

リュシアは膝の上の写しを握り直した。紙の端が指に食い込み、痛みが現実を繋ぐ。


(消されない)


奪われた革袋の代わりに、今はここにある。

数字の穴。単価の違い。保管庫開封の記録。

小さな矛盾が、一本の導線になった。


リュシアは窓の外を見た。

王都の通りは人で溢れ、雑踏が生きている。王宮より汚くて、王宮より温かい。

だが、その温かさの中にも監視は潜む。ヴァルターの囁きが、耳の奥に残っている。


――“忘れるのは楽だ”。


リュシアは指輪を握った。

赤い刻印がじんわり熱い。守りの膜が、薄く張り続けている。

その熱は安心ではない。緊張の熱だ。忘れないための熱だ。


向かいのエイドリアンは、窓際に片肘をつき、外を見ていた。

いつもの平坦な顔。

だが、右手の甲のあたりに微かな硬さがある。痛みを隠す癖。守るほど削れる癖。


(彼も削れてる。だから急ぐ)


馬車が橋を渡り、職人街へ向かう。

煙突の煙。金槌の音。金属の匂い。

王宮の香とは違う“生活の匂い”が、車内へ流れ込んできた。


リュシアは胸の奥で、火を確かめた。

怒りはある。

でも今は、怒りだけじゃない。


――手応えがある。


矛盾は見つかった。

穴は開いた。

敵が動いた。口封じは続行している。

それでも、こちらは一歩進んだ。数字が嘘の縫い目を見せた。


リュシアは、静かに言った。


「数字は嘘をつかない」


エイドリアンは一拍置いて、短く返した。


「……だが、人は嘘をつく」


その言葉が、反撃の現実味を増す。

だからこそ――人の嘘を、数字と印で剥ぐ。


馬車が速度を落とし、石畳の響きが変わった。

工房街の入口だ。刻印師の看板がいくつも並び、金属を削る音が空に跳ねる。


リュシアは、写しを胸に押し当てた。

ここから先は、“印”の世界だ。

完璧すぎる線。均一すぎる蝋。偽印章の匂い。


(掴む。今度こそ)


扉の外、職人街の喧騒が一段と近づく。

エイドリアンが低く言った。


「降りるぞ」


リュシアは頷いた。

籠の中で研いだ刃を、今、外へ出す。


帳簿の矛盾は、偽造された“印章”へ繋がっていた。

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