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冤罪で追放された令嬢、呪い持ち魔導師公爵と100日限定の契約結婚します  作者: swingout777


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12/12

本契約(選び直し)

封印登録の監督室は、音が死んでいた。

廊下の足音も、鎖の擦れる音も、壁に吸われて消える。

残るのは、紙の乾いた匂いと、金属の冷たさだけ。


扉の中央に、核印の輪。

点は二重。

あの“逃げ道”の印が、ここでは“入口”になっている。


リュシアの胸に怒りが燃えた。

人を記録に変える仕組み。

命を利権に変える仕組み。

その原初が、ここにある。


でも――怒りのまま踏み込めば負ける。

相手はそれを待っている。

激情を引き出し、暴走を作り、永続の条項で縛る。

だから、怒りを一段下げる。

燃料にして、冷静に変える。


(ここは舞台じゃない。手続きの部屋だ)


冷静は、手続きを切る刃になる。


エイドリアンが鎖に繋がれたまま、室内へ押し込まれる。

目はまだ焦点を外しかけている。

でも声は届いた。


「……来るな」


掠れた声。

止めたい声。

心が削れるのを知っている声。


リュシアは一歩だけ進み、首を横に振った。


「来る。終わらせる」


短い。

余計な言葉は削る。

ここでは言葉が契約になる。


元婚約者が、核の紙を掲げる。

その紙が、まるで王の勅書みたいに見えるのが腹立たしい。

でも腹立たしいほど、相手の利権が透ける。


「ここでお前らを“正しく”戻してやる」


正しく。

その単語が、嘘の匂いを放つ。

正しさを売る者の言葉。


リュシアは息を吐いた。

怒りがまだある。

でも、声は揺らさない。


「最終対決の前に、罪を“確定”させる」


元婚約者の笑みが一瞬止まる。

確定――その言葉は、核を持つ者の特権を奪う言葉だから。


リュシアは指輪の痛みを抱えたまま、机の上に紙を揃えた。

審問で回収した原本の残り半分。

欠落の前後。

核印二重の写し。

押印台の粉粒の特徴を書いたメモ。

そして――“改竄実行”の証拠として、今の自分の腕に走る黒紋。


「材料は四つ」


指を折る。

冷静に、短く。


「①核印二重=権限の共犯

②私室金庫=横領の保管

③余白の擦り痕=改竄の痕跡

④そして今――私への伸長=改竄の実行」


最後の“実行”で、元婚約者の目が細くなる。

脅しが、証拠になったことに気づいた目だ。


リュシアは腕を見せた。

黒紋の線。

まだ浅い。けれど確かに生えた線。


「あなたは核で契約を伸ばした。

その瞬間、私の刻印が痛み、黒紋が移った。

――改竄は“起きた”。これは結果だ」


元婚約者が鼻で笑う。


「結果? そんなもの、ただの呪いの副作用だ」


「違う」


リュシアは即答する。

ここで迷うと、相手の土俵になる。


「副作用なら、あなたが核に触れる前から出ているはず。

でも出ていなかった。

あなたが“実行”した瞬間に出た。

――因果が一致している」


一致。

舞台で局長を崩したときと同じ刃。

一致は逃げ道を塞ぐ。


元婚約者は一歩引いた。

引いたのは怖いからじゃない。

次の手順に移るためだ。


「なら、確定してみろよ」


挑発。

でも挑発は、こちらが冷静ならただの合図になる。


リュシアは視線を扉の核印へ向けた。

監督室の入口にある二重の点。

その点は“登録者”の署名だ。

署名があるなら、ここには記録がある。

記録があるなら、証拠がある。


(罪の確定材料は、外にもある)


リュシアは低く言った。


「この部屋には“核契約の原初登録簿”があるはず。

核印二重の、もう一つの点の名。

あなたがそれを奪って逃げた理由は一つ。

――名が載っているから」


元婚約者の顔から、笑みが薄れる。

ラスボスの顔が、ここで確定する。


リュシアはさらに畳みかけない。

畳みかけると感情になる。

感情は契約に吸われる。

だから、静かに最後の釘を刺す。


「あなたは核で書き換えられると言った。

なら、あなた自身も“書き換えの手”として固定される。

この黒紋、この痛み、この伸長。

――全部、あなたの手の形になる」


エイドリアンが鎖の中で小さく首を振った。


「……やめろ」


彼の声は弱い。

でも意思は残っている。

残っているうちに終わらせる。

そのために、冷静でいる。


リュシアは一度だけ、彼を見た。

そして、言葉を最小にして返す。


「終わらせる。いま」


怒りは燃料。

冷静は刃。

罪の確定材料は揃った。

あとは、核を奪って“名”をこの場で固定するだけだ。


元婚約者が核の紙を掲げたまま、指先で余白を撫でた。

名を書き足す仕草。

脅しの仕草。

そして――逃げ道を作る仕草。


リュシアは、その動きを止めなかった。

止めない。止めないからこそ、確定させる。


(名を書けば、“手”が確定する)


怒りはある。

でも怒りで飛びかからない。

飛びかかれば相手の望む“激情”になる。

激情は鎖を正当化する。

だから、冷静に“儀式”として片付ける。


リュシアは机上の原本を一枚だけ取り出した。

核印二重の写し。

そこにある、点の配置。

点は二重でも、微妙にズレている。

二重の点は“別人”の署名だ。

別人なら、署名の癖がある。


「核印の点の配置、見せて」


リュシアは文官でも護衛でもなく、元婚約者本人に要求した。

要求は命令じゃない。

“手順確認”だ。


元婚約者が嗤う。


「いまさら確認? 無駄だよ。核は俺の――」


「無駄じゃない」


リュシアは短く切る。


「あなたは“書き換え可能”と言った。

なら逆に、あなたは今ここで“書き換えを実行した者”として確定できる」


元婚約者の眉が動く。

ほんの一瞬、警戒が混じる。

その一瞬が、手順の穴になる。


リュシアは、指輪の熱を“抑える”のではなく“整える”方向へ使った。

触れて鎮めるのではない。

刻印回路の反応を、紙へ向ける。


紙に触れず、空気だけを揺らす。

局長私室でやったのと同じ。

粉を揺らし、封印を呼吸させる。


監督室の核印が、微かに鳴った。


――カチ。


扉の核印の輪が、ほんの少しだけ光る。

光は線になる。

線は机へ落ちる。

机の中央に置かれた“核契約の登録簿”が、封印を解かれて現れる。


観衆はいない。

でも、ここにいる全員が息を呑んだ。

舞台じゃなくても、真実は息を奪う。


元婚約者の顔から笑みが消える。


「……そんな、馬鹿な」


馬鹿じゃない。

手順だ。

核を持つ者の手順を、核の“癖”で逆利用しただけ。


リュシアは登録簿を開かない。

開かないのは慎重だからじゃない。

開く前に、相手を“確定”させるためだ。


「あなたが核を持っているのに、封印が解けた。

つまり、核はあなたを“登録者”として認めていない」


元婚約者の喉が動く。

反論が詰まる。

詰まるのは、図星だから。


リュシアはそこで、腕の黒紋を見せた。

痛みが脈打つ。

その痛みを、宣告に変える。


「あなたは核で契約を伸ばした。

伸ばした瞬間に黒紋が移った。

“実行者”としての痕が残った。

でも、登録者ではない。――偽装だ」


偽装。

偽装は罪だ。

核契約における最大の罪。

秩序を守るふりをして、秩序の鍵を盗む罪。


リュシアは、登録簿の表紙に押された核印二重を指で示す。

触れない。指先で“線”をなぞるだけ。


「核印二重のもう一つの点――本当の登録者は別にいる。

あなたはその名を盾にして、局長を切り捨て、核を奪い、私を幹に繋いだ」


元婚約者が叫びかける。


「違う! 俺は――」


「違わない」


リュシアは即答した。

即答は、処遇を確定させる。


「核契約の原初登録簿がここにある限り、

あなたの言い逃れは“記録”に勝てない」


リュシアは、ゆっくり登録簿を開いた。

そこに並ぶのは、核印二重の登録者名。

そして、改竄の履歴。

誰がいつ、どの条項に触れたか。

触れた“手”の形が、冷たく刻まれている。


元婚約者の名が――載っている。

登録者としてではなく、改竄実行者として。


その瞬間、空気が解放になる。

ざまぁは殴り返しじゃない。

手続きで、逃げ道を塞いだ結果として起きる。


元婚約者の膝が、わずかに折れた。


「……やめろ、消せ……!」


「消せない」


リュシアは淡々と言う。

淡々と言えるのが、解放だ。

屈辱の再演が、ここで完全に反転した証。


「あなたは“核”を奪って逃げた。

その瞬間が記録になった。

核で書き換えられるのは条項だけ。

核契約の原初登録簿の履歴は――核を持っていても消せない」


元婚約者の目が、初めて“終わり”を理解する。

ラスボスの顔が崩れる。


処遇は、ここで確定する。

核を盗んだ者は、核に裁かれる。

核契約に触れた者は、核契約に縛られる。


リュシアは最後に、宣告を落とした。


「あなたの処遇は“剥奪”です。

核へのアクセス、封印権限、監査改竄権――全部。

そして、あなたが伸ばした契約は、私がここで切り戻す」


エイドリアンが鎖の中で、小さく息を吐いた。

焦点が、ほんの少し戻る。

彼の心が削られる前に、間に合う。


リュシアは自分の指輪に目を落とした。

黒紋が指へ伸びたまま、脈打っている。

でももう、恐怖ではない。


解放だ。

そして決着だ。


次は――“切り戻し”。

彼の呪いと、私の首輪を、原初から断ち直す。


監督室の空気が、少しだけ軽くなった。

元婚約者の笑みが消え、膝が折れ、逃げ道が塞がれたからだ。

でも、軽くなった空気の下で――黒紋はまだ脈打っている。


リュシアの指先に伸びた黒い線。

引き受ければ彼は助かる。

引き受ければ私の心が削れる。

その二択を、相手はずっと“美談”にしたがっていた。


――犠牲で救え、と。


リュシアは、その物語を拒否する。

拒否するのが、強さだ。

対等でいるための、唯一の強さ。


エイドリアンが鎖の中で首を振る。


「……やめろ」


掠れた声。

止めたい声。

守りたい声。

好きなものから壊す仕組みを、完成させたくない声。


リュシアは彼を見た。

視線を逸らさない。

逸らしたら、守る側と守られる側に分かれる。

分かれた瞬間、対等は死ぬ。


「やめない」


短く答える。

でも、続けてこう言った。


「犠牲はしない」


その一言に、エイドリアンの目が揺れる。

彼は“私が壊れて彼が生きる”未来を、受け入れそうになっていた。

受け入れそうになっていたから、止めていた。

止めていたから、心が削れていた。


リュシアは言葉を選ぶ。

ここでは言葉が条項になる。

だから、条項を逆手に取る言葉を置く。


リュシアは登録簿のページを開き、該当の条項を指で示した。

核契約の原初条項。

“代償の分担”。

“媒介の条件”。

“解除条件”。


「条項を逆手に取る」


元婚約者が床に崩れたまま、掠れた声で笑う。


「無駄だ……条項は核が――」


「核は、もうあなたのものじゃない」


リュシアは冷たく返す。

その冷たさは怒りではない。

確定の冷たさだ。


「核のアクセスは剥奪された。

残るのは、原初登録簿に従う手順だけ」


手順。

舞台ではなく、手順。

手順は嘘を剥ぐ。

手順は犠牲を強要しない。


リュシアは声を落とし、はっきり言った。


「“代償の分担”は、犠牲のための条項じゃない。

暴走を止めるための安全弁。

なら――安全弁として使う」


犠牲じゃなく、安全弁。

定義を奪い返す。

相手の美談を殺す。


リュシアは指輪の刻印に手を当て――触れない。

触れないまま、刻印回路の“呼吸”だけを整える。


「私が全部引き受けるのは拒否する。

でも、あなたが全部背負うのも拒否する」


それが対等宣言。

どちらかが壊れて救う物語を拒否する宣言。


エイドリアンが小さく息を呑む。

彼は初めて、“救われ方”を知らない顔をする。

盾としての生き方しか知らない。

盾は、誰かが後ろで笑うために削れる。

彼はずっと、そういう生き方をしてきた。


リュシアはその生き方を折る。


「二人で分担する。

“削れる量”を半分にするんじゃない。

“削れる方向”を変える」


方向。

ここが肝だ。


「あなたの代償は“守る”方向に偏っている。

守れば守るほど削れる。

だから、守りの命令を一旦“停止”する条項を使う」


登録簿の一行を指す。

媒介が同意した場合に限り、守りの自動発動を停止し、封印領域への干渉を遮断する――

そういう類の条項。


「停止は逃げじゃない。

自我が崩れる前に、命令を止める。

止めた上で、核をこちらが管理する。

――これが安全弁の使い方」


元婚約者が呻く。


「そんな……そんなことをしたら、公爵は――」


「“盾”じゃなくなる」


リュシアは淡々と言った。

淡々と言えるのが強さだ。

盾じゃなくなることが、彼の自由になる。


エイドリアンがかすかに笑った。

笑いというより、息の抜け。

鎖の中でも、少しだけ肩が落ちる。

それは崩壊じゃない。

重荷が外れる兆しだ。


リュシアは最後に、宣言を置く。

条項を逆手に取る、最も重要な宣言。


「私は、あなたの犠牲にならない。

あなたも、私の犠牲にならない。

――対等で、生きる」


この言葉が、契約の上書きになる。

核契約の枝に刻まれた“犠牲の物語”を、対等の物語で塗り替える。


黒紋が脈打つ。

痛みがある。

でも痛みはもう、脅しじゃない。


対等でいるための、確定の痛みだ。


監督室の机上で、登録簿は静かに開いていた。

紙は冷たい。

でも冷たいからこそ、嘘が入り込めない。

ここは舞台じゃない。手順の場所だ。


リュシアの指先に伸びた黒紋が、まだ脈打つ。

脈打つたびに痛みが走る。

けれど、その痛みは今、脅しではない。

“更新”の合図だ。


エイドリアンが鎖の中で小さく息を吐く。


「……本当に、できるのか」


声がかすれている。

恐怖よりも、信じる怖さが混じっている。

盾として生きてきた人間は、“救われ方”が怖い。


リュシアは彼を見て、短く答えた。


「できる。手順がある」


そして、登録簿の条項を指でなぞった。

代償の分担。

媒介の同意。

守りの自動発動停止。

解除条件。

――全部が、今夜のために用意されていたみたいに並んでいる。


(相手はこの条項を、縛りに使った。

なら私は、救済に使う)


条項は刃にもなる。鍵にもなる。

鍵として使えば、救済は“手続き”として成立する。


リュシアは核の紙を取り上げた。

元婚約者から奪った“核”ではない。

“核へのアクセス”を取り戻した証として、登録簿に添付されている核印片。

それは筆記の芯。

書き換えの芯。


元婚約者が床で呻く。


「やめろ……それに触れたら……」


「触れる」


リュシアは迷いなく言った。

迷いがないのは、犠牲を拒否したからだ。

犠牲にするなら迷いが生まれる。

対等に生きるなら、迷いは手順に吸われて消える。


リュシアは深く息を吸い、登録簿の該当条項を開いた。

“守りの自動発動”を制御する条項。

それは公爵の意思ではなく、契約の命令が動いてしまう部分。

最終段階に近づくほど、命令が前に出る部分。


そこに、書く。

書くのは“禁止”じゃない。

禁止は反動を生む。

書くのは“更新”だ。


「守り方を更新する」


リュシアは声に出した。

言葉は契約に刻まれる。

刻まれるなら、意図を言葉にする。


「守る=閉じ込める、じゃない。

守る=選べる、に変える」


守りを檻から、選択へ。

エイドリアンの人生を、命令から選択へ。


リュシアは核印片を紙に滑らせる。

擦る。押すのではなく擦る。

核印の癖に従う。

癖に従うから、反転できる。


紙の上に、薄い光が走った。

封印文字が、ほんの一瞬浮かぶ。

そして、黒紋がリュシアの指先から“引かれる”ように細くなる。


痛みが跳ねる。

喉が鳴る。

でも、その痛みは“引き剥がされる痛み”だ。

接ぎ木を剥がす痛み。


エイドリアンが、鎖の中で息を呑む。


「……っ」


黒紋が、彼の手の甲で一瞬だけ濃くなり――

次の瞬間、濃さが落ちた。

薄い膜が戻る。

空気が一枚、彼の周りに戻る。


守りが反転しそうだった膜が、持ち直す。


リュシアは続ける。

一度で終わらせない。

更新は段階的に固定する。


1. 自動発動の停止(媒介の同意を条件に)

2. 守りの対象の限定(“命令”ではなく“本人の選択”を優先)

3. 代償の流入遮断(枝を幹から切り戻す)

4. 解除条件の明文化(百日契約の終端を固定)


言葉を短く、動きを小さく。

小さいほど、契約は誤作動しない。


黒紋が、リュシアの指から少しずつ退く。

痛みが、鋭さから鈍さへ変わる。

鈍さは、癒え始めの痛みだ。


元婚約者が叫ぶ。


「そんな……そんなことをしたら、秩序が――!」


リュシアは振り向かずに言った。

振り向けば舞台になる。

ここでは舞台を作らない。


「秩序じゃない。搾取」


一言で切る。

そして、最後の一行を書く。


“守る者は、守り方を選べる”

“媒介は、犠牲ではなく同意である”


その瞬間、エイドリアンの目の焦点が戻った。

完全じゃない。

でも“今”を見る。

今を見て、リュシアを見る。


鎖があるのに、彼の肩がほんの少し軽く見える。

命令が一歩引いた証拠だ。


リュシアは息を吐いた。

胸が締め付けられるのは変わらない。

でも締め付けの質が違う。

恐怖ではなく、救済の重さだ。


「……更新、完了」


リュシアが言うと、監督室の核印が淡く沈黙した。

光が消え、紙がただの紙に戻る。

ただの紙に戻ったということは――

手順が、成立したということだ。


エイドリアンが、掠れた声で言う。


「守るって……こういうことだったのか」


リュシアは頷いた。

涙は出ない。

出ない代わりに、言葉が出る。


「そう。

守る=奪う、じゃない。

守る=選べる、だよ」


救済は、奇跡じゃない。

手続きで起きる。

守り方を更新した今、二人はようやく“対等な守り”を手に入れる。


登録簿の光が沈黙し、監督室が“ただの部屋”に戻った瞬間――

元婚約者が最後の札を切った。


床に崩れたまま、震える手を伸ばし、

どこからか一枚の書類を引きずり出す。

薄い羊皮紙。

王宮の紋章。

そして、核印の輪――点は一つ。


離縁書類。

百日契約の終端を、こちらではなく“向こうの都合”で確定させる紙。

そして、エイドリアンからリュシアを切り離し、

守りを奪い、代償を“公爵だけ”に戻すための紙。


「これで終わりだ……!」


声が割れる。

正義面の男の最後の叫び。

秩序の名を借りた、ただの執着。


文官が駆け寄ろうとする。

護衛が一歩動く。

鎖が鳴る。

監督室が、再び舞台になりかける。


――その瞬間。


リュシアの中で、怒りが最高潮まで上がった。

でも怒りは爆発しない。

爆発ではなく、一直線の“決断”になる。


(破る)


破るのは、相手の筋書き。

破るのは、犠牲の物語。

破るのは、“守る=奪う”という定義。


リュシアは一歩で間合いに入り、離縁書類を掴んだ。

紙の端に触れた瞬間、指輪が熱を返す。

黒紋がまだ細く疼く。

でももう、契約は更新された。

命令は止めた。

だから震えない。


元婚約者が叫ぶ。


「触るな! それは――」


「それは、あなたの逃げ道でしょ」


リュシアの声は冷たい。

冷たいのは残酷だからじゃない。

確定しているからだ。


リュシアは、離縁書類を――破った。


ビリ、と音が響く。

紙が裂ける音は、鎖が切れる音に似ている。

観衆はいないのに、空気が震える。

最高潮の震え。


一度で終わらせない。

二度。三度。

裂け目が増えるたび、相手の筋書きが崩れる。


元婚約者の顔が、理解できない顔になる。

核の力で全てが動くと信じてきた男の顔。

紙が裂けることを、現実として受け取れない顔。


エイドリアンが、鎖の中で息を呑む。

彼は止めようとしない。

止める理由が、もうないから。

リュシアが犠牲になる形じゃないと分かったから。


リュシアは破った紙片を床へ落とし、言い切った。


「離縁は“切り捨て”じゃない。

あなたの都合で切るものじゃない」


そして、最後の一撃として――

核契約の更新条項を指で示す。


「百日契約の終端は、私たちの同意と選択で確定した。

紙一枚で、戻せない」


元婚約者が呻く。


「そんな……そんなことが……!」


「あるよ」


リュシアは短く返す。


「あなたが“書き換え可能”にしたんだから。

――私が“書き換え返す”こともできる」


その言葉で、監督室の空気が解放へ振り切れた。

屈辱の再演は、ここで完全に終わる。

舞台は二度と同じ形では組めない。


エイドリアンが、鎖の中で低く言う。


「……ありがとう」


その一言が、リュシアの胸を締めた。

でも、それは痛みじゃない。

生き延びた胸の締まりだ。


リュシアは最後に、床の紙片を踏みつけない。

踏みつけると舞台になる。

代わりに、紙片を拾い上げ、机の上に置く。

“終わった証拠”として置く。

手続きとして、終わらせる。


破ったのは紙じゃない。

破ったのは、犠牲を強いる世界の脚本だ。


離縁書類の紙片が、机の上で静かに重なっている。

裂けた線は、もう元には戻らない。

戻らないからこそ――今夜は終わる。


監督室の空気は、冷たいままなのに不思議と温かかった。

痛みが完全に消えたわけじゃない。

黒紋はまだ細い線として残り、指輪は時折熱を返す。

それでも、命令の気配は引いた。

“檻になる守り”ではなく、“選べる守り”がここにある。


エイドリアンの鎖が外される音がした。

金属が床に落ちる音は、派手じゃない。

だけど胸の奥に響く。

長い間、当然だと思わされていたものが外れる音。


彼は立ち上がり、少しふらついた。

まだ完全じゃない。

最終段階の影は薄く残っている。

でも、目の焦点は戻っている。

“今”にいる。


リュシアは紙を一枚、机の中央に置いた。

原初登録簿の条項を“更新”した紙ではない。

その上に重ねる、たった一枚の――新しい契約書。


期限は書かない。

百日という数字も書かない。

永続という脅しも書かない。

書くのは、たった二つ。


同意と、対等。


リュシアはペン先を整え、呼吸を整え、言葉を落とす。


「犠牲じゃない。対等として選ぶ」


言った瞬間、胸の内側が温かくなる。

これは誓いの温度だ。

取引の温度じゃない。


エイドリアンが、ゆっくり頷いた。

彼は“盾”としての誓いしか知らなかった。

誰かのために削れる誓い。

命令に従う誓い。

だから今、言葉を選ぶのに時間がかかる。


でも、彼は言った。

とても静かに、でも確定する声で。


「今日からは君の望む形で誓おう」


その一言が、監督室の冷たい空気に小さな灯をともす。

守る=奪う、の世界が終わって、

守る=選べる、の世界が始まる合図。


リュシアは契約書に条項を並べた。

長くしない。

長い条項は、誰かの逃げ道になるから。


・私たちは互いの意思を優先する

・守りは命令ではなく選択で行う

・代償は押し付けない。必要なら共同で引き受け、必ず解除手順を残す

・記録は真実のために使い、誰かの処刑の装置にしない

・期限は設けない。更新は同意でのみ行う


書き終えた瞬間、黒紋が一度だけ脈打ち――その後、静かになった。

完全に消えないのが、現実の余韻だ。

でも、静かになったのは“命令”が沈んだ証拠。


エイドリアンがペンを取る。

手が少し震える。

震えは恐怖じゃない。

今まで誓いの形を奪われていた人間が、初めて自分の意思で署名する震え。


署名が終わる。

核印は押さない。

押す必要がない。

核を持ち込まない契約。

二人の言葉だけで成立する契約。


リュシアは紙をそっと折り、封筒に入れた。

原本を隠す封筒とは違う。

奪われないための封筒じゃない。

守るための封筒。


監督室の扉の核印が、何も言わずに沈黙している。

もう、この部屋に縛られない。

縛られないから、出ていける。


エイドリアンがリュシアの手に触れようとして――止めた。

触れれば鎮まる仕組みを、まだ身体が覚えている。

でも今は“仕組み”ではなく、“同意”で触れたい。


リュシアが先に手を差し出した。

頷いて、触れる。


触れた瞬間、指輪は熱を返さなかった。

代わりに、温かさが伝わる。

人の温かさ。


そして二人は、扉へ向かって歩き出す。

外にはまだ後始末がある。

裁きも、処遇も、記録の整理も。

でも、心の核はもう揺れない。


章末の引き


離縁書類を破り捨て、私たちは“期限なし”の契約を書いた。

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