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冤罪で追放された令嬢、呪い持ち魔導師公爵と100日限定の契約結婚します  作者: swingout777


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11/12

核と100日目

審問室を出た瞬間、空気が変わった。

光が減る。声が遠のく。代わりに――足音が増える。


元婚約者の足音。

護衛の足音。

そして、自分の足音。


焦燥が喉を焼く。

追わなければ、核が消える。

消えれば、黒幕は永遠に逃げる。

でも追えば、背後に置いてきた“勝ち”が揺らぐ。


(選ぶのは、いま)


リュシアは廊下を走りながら、胸の中で手順を組み直した。

核を奪った瞬間は見た。

観衆も見た。

つまり核は“消えていない”。

消える前に、“所在”へ線を引けばいい。


元婚約者は曲がる。

必ず曲がる。

直線では追いつかれる。

だから、王宮の裏導線――役人用の短絡路へ入る。


リュシアは、会計局で見た“抜け道の粉”を思い出した。

同じ粉が、王宮にもある。

扉の目地に新しい白。

人が触った跡。

権限が通る跡。


(ここだ)


壁際の継ぎ目に指を滑らせ、押す。

扉が“押して開く”ほど甘くはない。

でも、甘くない扉ほど「癖」がある。

取っ手ではなく、蝶番側が軽い。

人は重い方を触りたがる。

逆を取る。


――カチ。

音がした。小さい音。

でも耳には大きい。焦燥が増幅する。


扉の隙間へ身体を滑り込ませると、通路は暗く、乾いていた。

紙の匂いがない。

金属と石の匂い。

利権の匂い。

表の正しさを回すための裏道の匂い。


(利権……目的はそれだ)


元婚約者が核を奪った理由は、愛憎だけじゃない。

彼は“核”の価値を知っている。

核印二重の片割れ――つまり、封印と原本を動かす権限の鍵。

それを握れば、審問を作れる。

罪を作れる。

そして、金を作れる。


王宮書庫の原本。

処刑の根拠。

貴族の資産凍結。

領地の没収。

監査の停止。

――全部、利権に直結する。


核は、金の蛇口だ。

蛇口の場所を握る者が、正しさを売れる。


だから元婚約者は、核を“逃がす”のではなく“戻す”。

戻す先がある。

戻す相手がいる。

それが、黒幕の所在。


リュシアは走りながら、相手の行動を読む。


・核は紙一枚だ。軽い。

・軽いものほど、すぐ懐に入れる。

・だが“見せびらかしたい核”ではない。

 → 見せれば奪われる。

 → 見せなければ価値が証明できない。


つまり、次に核を見せる相手は“奪えない相手”。

奪えない相手=権限で守られている相手。

王宮の中枢。封印登録者の上。


(核所在は、王宮書庫じゃない。会計局でもない)


核を奪ってすぐ、王宮書庫へ戻るのは危険すぎる。

そこはリュシアとエイドリアンが動いた場所。

警戒が上がる。

だから核は、もっと安全な場所へ一旦“退避”する。


安全=触れられない場所。

触れられない=“聖域”か“私領域”。


王宮で最も触れられない私領域は――

封印登録の監督室。

表向きは存在しない部屋。

記録には「該当なし」とだけ書かれる部屋。

だが核印二重がある以上、その部屋は実在する。


通路の先に、薄い光が見えた。

階段。上へ。

上へ行くのは、役人の裏道の常套だ。地下へ行くのは逃亡。上へ行くのは“帰還”。


(戻す。黒幕へ)


焦燥がさらに熱くなる。

今追いつけなければ、核は“握り直される”。

握り直された核は、次の審問の刃になる。


そのとき、前方で布が擦れる音がした。

近い。

元婚約者はまだこの導線上にいる。

核はまだ移されていない。


リュシアは息を吸い、口癖を胸で固定した。


(私は、私で選ぶ)


選ぶのは、感情で追い詰めることじゃない。

核の所在を確定させること。

利権の目的を言葉にして、逃げ道を塞ぐこと。


そして、足音に追いつく一歩を踏み出した。


布の擦れる音が、階段の踊り場で止まった。

元婚約者が振り返る。

薄い笑み。余裕の笑み。

追われているのに、追われていない顔。


その顔が、リュシアの怒りに火をつけた。

正義面で奪い、正しさで逃げる顔。

あの審問室で核を奪った手。

“真実”を盗んだ手。


「返して」


短い言葉が、喉の奥から出た。

叫びじゃない。

命令でもない。

ただの要求。

でも、要求の裏にあるのは怒りと喪失だ。


元婚約者は肩をすくめる。


「何を?」


わざとらしい。

わざとらしいほど、核の価値を知っている。


リュシアは一歩詰めた。

でも距離は詰めない。

詰めると殴りたくなる。

殴れば舞台の作り手にされる。

怒りは手順に変える。


「核。核印二重の、もう一つの点。

“真実を動かす鍵”」


元婚約者の目が一瞬だけ濁る。

図星の濁り。

そして、濁りを隠すように笑いが戻る。


「鍵? 君はまだ分かっていないな」


その一言で、リュシアの背中に冷たいものが走った。

“分かっていない”――相手が優位に立つための言葉。

でも、優位だから言うのではない。

優位であることを、こちらに認めさせるために言う。


リュシアは歯を食いしばる。

怒りが胸を締める。

でも、怒りがあるから聞ける。

怒りは、真相へ踏み込む燃料でもある。


「何が原初なの」


元婚約者は、そこで初めて真面目な顔になった。


「契約の原初だよ」


原初。

その単語が、胸に刺さる。

百日契約。首輪。刻印。

全部が“誰かの手順”で作られている。

それが、さらに古い起点から来ているとしたら?


「公爵の呪いも、君の首輪も、元は同じ契約から枝分かれした」


元婚約者の声が、暗い通路に響く。

舞台用じゃない、裏側の声だ。


「封印登録――“核”を持つ者は、記録を書き換えられる」


リュシアの怒りが、別の形に変わる。

恐怖と怒りが混ざった濃い怒り。


「……書き換え?」


「そう。書庫の原本だけじゃない。

台帳、罪状、移送先、婚姻契約、継承権……“線”そのものをね」


線。

点が線になり、線が一本になった快感。

その線さえ、書き換えられる。

つまり、真実の線を引く戦いは、最初から“相手の土俵”だった。


リュシアは拳を握りしめた。

指輪の刻印が熱い。

熱が怒りを煽る。


「ふざけないで。そんなものが許されるはず――」


「許されるから続いてきた」


元婚約者は淡々と言う。


「だって、それが“国の秩序”だから。

秩序を守るために、必要な罪を作り、必要な真実を消す。

公爵はその秩序の“盾”だった。

君は、盾に繋ぐ“錠”だ」


盾。錠。

言葉が、吐き気を呼ぶ。

人を道具として語ることに、怒りが燃える。


「あなたたちは……人を」


「人じゃない。記録だ」


元婚約者は冷たく言い切った。


「記録さえ動けば、人は動く。

領地も動く。金も動く。

だから核が必要なんだ」


利権目的。

第11話S1で確信したことが、ここで言葉として確定する。

核は金の蛇口。

核は秩序のペン先。

核は人の生死を動かす。


リュシアの怒りが、限界まで膨らむ。

でも怒りで突っ込めば、相手の思う壺だ。

相手は“激情の女”を欲している。

激情なら鎖を正当化できる。

だから、怒りを“質問”に変える。


「契約の原初って何。

百日契約は、どこから来た」


元婚約者は、少しだけ楽しそうに笑った。


「“核契約”さ。

封印登録者が国の秩序を維持するために結ぶ、原初の契約。

核を持つ代わりに、代償を背負わせる」


代償。

エイドリアンの自我が削れる仕組み。

守りが薄くなる仕組み。

全部が、原初契約の“代償設計”だ。


「公爵家は代償の器として選ばれた。

守れば守るほど削れるのは、暴走させないための枷だ」


枷。

枷としての呪い。

彼の苦しみが、制度として設計されていた。

怒りが、喉を焼く。


「じゃあ私の首輪は?」


「君は“引き金”」


元婚約者の声が低くなる。


「公爵が核に触れすぎると危険だ。

だから、触れて鎮められる“媒介”を用意した。

それが百日契約。

君の刻印は、核契約の枝だ。

――書き換え可能な枝」


その言葉で、リュシアの血が引いた。


「……書き換え可能?」


元婚約者は頷いた。


「契約条項は、核で書き換えられる。

百日が“延びる”ことも、“永続”になることも、

君の自由が消えることも、戻ることも――核次第だ」


怒りが、恐怖を連れてくる。

首輪の条項。失敗=永続保護。

それは固定じゃない。

相手が核を持つ限り、好きに書き換えられる。


リュシアの胸が締まる。

安心がなくても立てる私になる。

そう決めたのに、安心がないどころじゃない。

床そのものが動く。


(だから核を奪う)


怒りが、決意へ変わる。

核がある限り、真実は揺らぐ。

核がある限り、彼は削られる。

核がある限り、私の首輪は永続へ誘導される。


リュシアは静かに言った。

怒鳴らない。

でも、言葉は鋭い。


「それなら尚更、あなたから核を取り上げる」


元婚約者が笑う。


「できるものか。

核を握る者は、線を変えられる。

君が追っている“真実”だって、私が一筆で――」


「だから、核を持つあなたを裁く」


リュシアの声が、暗い通路に真っ直ぐ落ちる。


「裁かれるのは、あなたたちよ。

――次は“核契約”そのものを、暴く」


怒りはまだ燃えている。

でも燃え方が変わった。

相手を殴る怒りじゃない。

制度を折る怒りだ。

原初を暴く怒りだ。


そして、元婚約者の目が初めて、ほんの少しだけ“怯え”を見せた。

核の力で笑っていた男が、核を奪われる未来を想像した怯え。


真相は出た。

契約の原初。

核で書き換え可能。


――なら、戦いは一本化できる。

核を奪い、契約を書き換え返す。


元婚約者の「書き換え可能」という言葉が、まだ耳に残っている。

床そのものが動く感覚。

安心がなくても立てる、なんて軽い決意じゃ足りない現実。


そのとき――通路の奥から、鎖の擦れる音がした。

金属が引きずられる音。

人が連れられる音。


リュシアの心臓が跳ねる。


(まさか……)


次に聞こえたのは、低い息。

息が、冷たい。

冷たいのに、熱を含んでいる。

封印文字の匂いを吐く息。


そして、影が現れた。


エイドリアン。


鎖に繋がれたまま、護送されている。

審問室から、別の場所へ移される途中。

舞台の裏へ運ばれる途中。


彼の歩き方が、違う。

歩いているのに、歩いていないみたいだ。

重心が定まらず、視線が今を外している。

焦点が合わない。

第8話で見た兆候が、もっと深くなっている。


黒紋が――“濃い”。

濃いのに、守りの膜は――“ない”。

空気がむき出しで、冷気が漏れ、周囲の人間が無意識に距離を取る。

距離を取るのは恐怖の反射だ。

彼の結界が、人の本能を掻き立てている。


恐怖が、喉を掴む。

これは敵の恐怖ではない。

彼が彼でなくなる恐怖。


元婚約者がその様子を見て、薄く笑った。

笑いが、背筋を凍らせる。


「見ろ。これが最終段階だ」


最終段階――その言葉で、時間が縮む。


リュシアは息を呑み、声が出るのを抑えた。

叫べば、彼が反応する。

反応すれば、共鳴が起きる。

共鳴は“暴走”に見える。

敵はそれを待っている。


元婚約者は、淡々と説明を始めた。

説明は優位の証。

でも、説明される内容が地獄だと分かっているから、恐怖が増える。


「核契約の代償には段階がある」


彼は指を一本立てる。


「第一段階。守りが薄くなる。

膜が減り、外の刺激が直接入る。

君が感じた“薄さ”がそれだ」


二本目。


「第二段階。黒紋が広がる。

封印の性質が皮膚と神経へ戻り、痛みと共鳴が増える。

視線が外れ、記憶が飛び始める」


三本目。


「第三段階。自我の輪郭が崩れる。

守るべき対象への執着が“命令”になる。

本人の意思ではなく、契約条項が歩かせる」


リュシアの胸が締まる。

第8話の突き放し。

「好きになるな。俺は好きなものから壊す」

あれは意思だった。

でも今は――意思じゃない。

“命令”が彼の中で動き始めている。


元婚約者は最後に、四本目の指を立てた。

その指が立った瞬間、リュシアの視界が白くなりかける。


「最終段階。核が“回収”を始める」


回収。

人間に使う言葉じゃない。

でも、相手は平然と言う。


「公爵は器だ。

器が限界に近づくと、核は中身を戻す。

封印の性質が全て戻り、守りは“完全な封印”へ反転する」


封印。

守りが反転する。

つまり――守るための結界が、閉じ込める檻になる。


「そうなると、公爵は外界への反応を切り捨てる。

君の声も、君の顔も、届かない。

届くのは“契約の命令”だけだ」


喉が痛い。

息が苦しい。

恐怖で身体が固まる。


リュシアの目が、エイドリアンの顔を捉える。

彼の目は、前を見ていない。

壁の向こうを見ている。

過去のどこかを見ている。

あるいは、誰かの“命令文”を読んでいる。


唇が微かに動く。

言葉にならない。

でも、その動きは……拒絶のときの動きではない。

自分に言い聞かせる動きだ。

崩れないように、縁を掴む動きだ。


リュシアの胸に、怒りが立ち上がる。

恐怖が怒りに焼き直される。

怒りは相手に向く。

元婚約者に。核に。制度に。


「……そんなの、許さない」


声が震えた。

震えを止められない。

でも震えは弱さじゃない。

恐怖を見たうえで、立つ震えだ。


元婚約者は肩をすくめる。


「許すも何も、手順だ。

核を持つ者が手順を決める。

君が原本で勝った? ――だから核を奪ったんだ」


その言葉が、リュシアの腹の底を冷たくした。

全部が繋がる。

審問の舞台。局長の崩壊。核の奪取。

全部、核の非常口へ誘導するための流れ。


そして今、最終段階が“見せ札”として出された。


(脅し。見せ札。時間を奪うため)


リュシアは拳を握る。

指輪の刻印が熱い。

熱は、彼と繋がっている証。

まだ繋がっている。完全な封印になっていない。


なら、まだ間に合う。

核を奪えば、書き換えられる。

契約の枝を戻せる。

百日を“終わらせる”か、“解除する”か――こちらが選べる。


恐怖が、決意に変わる。


エイドリアンが通り過ぎる瞬間、リュシアは声を殺して言った。

届かないかもしれない。

でも、言わないと壊れる。


「……待って。私はここにいる」


その言葉に反応したのか、しなかったのか。

彼の指が、鎖の中で微かに動いた。

ほんの一瞬だけ。

“今”へ戻ろうとする小さな動き。


その小さな動きが、リュシアの恐怖を燃料に変える。


(最終段階なら、尚更。核を奪う)


逃げ道は、もう塞ぐ。

核を握る者を、舞台の上に引きずり出す。

彼が彼でいられる残りの時間で。


鎖の音が遠ざかる。

エイドリアンの影が、通路の角で消えていく。

残るのは、冷たい石の匂いと、胸の奥で燃える恐怖。


最終段階。

守りが反転し、声も届かなくなる段階。

そこへ落ちる前に、核を奪う。

奪って、契約の枝を“書き換え返す”。


――それが今の唯一の勝ち筋だ。


元婚約者は、核を胸元に押さえたまま笑っている。

追いつけない距離じゃない。

でも、この距離には“危険”がある。


「やめろ」


元婚約者が、ささやくように言った。

ささやきは優しさじゃない。脅しだ。

核を持つ者だけが知っている脅し。


「君が近づけば、俺は“名を書き足す”」


名を書き足す。

その言葉で、空気が一段冷えた。


契約は書き換え可能。

条項は核で動く。

なら、名も動く。

名が動けば、運命が動く。


リュシアの背筋が凍る。

名を書き足されたらどうなる?

首輪の条項に、新しい鎖が追加される。

「保護対象の追加」

「監視対象の追加」

「罪人名簿への登録」

――最悪、エイドリアンの“核契約”に私の名が紐づく。


そうなれば、私が触れて鎮める度に、私も削れる。

私の自我も削れる。

二人が一緒に壊れる。


元婚約者は、その恐怖を丁寧に見せつけるように言う。


「核は“空白を埋める”道具だ。

空白に名を書けば、君の人生はその線に固定される。

逃げ道はなくなる」


逃げ道。

相手は逃げ道を作る者だ。

そして今、その逃げ道を“脅し”としてこちらに見せている。


リュシアの喉が詰まる。

恐怖で、息が細くなる。

でも、息を止めたら終わる。

止めれば動けない。

動けなければ核が握り直される。

握り直されれば、彼は回収される。


(覚悟だ)


ここからは、損得じゃない。

安全じゃない。

決死の選択だ。


リュシアは、ゆっくり息を吸った。

涙はもう出ない。

出るのは冷たい汗だけ。

汗が背中を伝う。


そして、言った。

震えてもいい。

震えたままでも言い切る。


「書き足せるなら――私も書き換える」


元婚約者の笑みが一瞬止まる。

止まったのは驚きじゃない。

“覚悟”を見たとき、人は計算が一瞬止まる。


リュシアは続けた。


「名を書き足すのは危険。分かってる。

でも、あなたが核を持つ限り、危険は必ず来る。

来るなら、今ここで選ぶ」


選ぶ。

口癖が胸で鳴る。

私は、私で選ぶ。

安心がなくても立てる私になる。


リュシアは一歩踏み出した。

距離を詰める。

今は詰める。

詰めないと奪えない。


元婚約者が核の紙を引き抜き、指先でなぞる仕草をした。

まるで、その場で名を書けると見せつけるように。

紙の端に、核印二重。

余白。

書き足す余白。


胸が締め付けられる。

この余白に私の名が載る未来が見える。

載れば、首輪は永続になる。

載れば、私は“記録”になる。


それでも――止まらない。


リュシアの目が、紙ではなく元婚約者の手元を見据える。

核は紙じゃない。

紙を動かす“芯”が核だ。

核印の芯。粉粒。擦り癖。

それは局長私室で見た。

見たから、奪える。


「あなたは核を握っているつもりで――核に握られてる」


リュシアの声が低くなる。

怒りと決意が混ざった声。


「名を書き足すなら、書き足してみて。

その瞬間、あなたは“書き足した手”として確定する。

逃げ道は消える」


元婚約者の目が細くなる。

彼は気づく。

名を書き足す行為は、証拠を作る行為でもある。

逃げ道を自分で塞ぐ行為でもある。


だからこそ、この脅しは――“最後の札”。


最後の札を切らせれば勝てる。

切らせないまま奪えればもっと勝てる。

どちらでもいい。

重要なのは、核を手放させること。


リュシアは、胸の奥で決めた。


(ここで死ぬつもりで行く)


決死。

名を書き足される危険を承知で、核に手を伸ばす。

彼が彼でいられる最後の時間を守るために。


次の瞬間――

リュシアは、元婚約者の懐へ踏み込む距離に入った。

核を奪う一手は、もう指先の距離だ。


踏み込んだ瞬間、空気が鳴った。

紙が擦れる音じゃない。

核印が反応する音。

“契約が動く”ときの、見えない金属音。


元婚約者の指先が核の紙を撫でる。

撫でるだけで、余白が呼吸する。

余白は空白じゃない。書き足すための口だ。


「言っただろ」


元婚約者の声が低い。

脅しの声。

そして、実行の声。


次の瞬間、リュシアの指輪が灼けた。

熱じゃない。痛みだ。

骨に刺さる痛み。

刻印が内側から“伸びる”痛み。


「――っ!」


息が漏れる。

声を出せば、負ける。

でも痛みは、声になる前に身体を曲げようとする。


指輪の輪郭が、指ではなく神経に食い込む。

首輪の鎖が、目に見えない形で締まる。

永続保護の条項が、喉元まで上がってくる。


(名を書き足された……?)


違う。

書き足されたのは“名”じゃない。

“線”だ。

私と公爵の契約の線が、核契約へ――伸長された。


元婚約者が笑う。


「名はまだだ。

でも君の契約は伸ばした。

枝を幹に接ぎ木したんだよ」


伸長。

枝が幹に接がれる。

百日契約が、核契約へ繋がる。

その瞬間、代償がこちらへ流れる。


痛みが、もう一段深くなる。

熱じゃない。冷たさが混じる。

神経の奥が、凍るみたいに痛い。


そして――見えた。


指輪の刻印の縁から、黒い線が滲む。

インクのように、皮膚の下で走る。

細い黒線が、指から手首へ、手首から腕へ――


黒紋。


エイドリアンの手の甲にあった黒紋と同じ性質の線が、

今、リュシアの腕に“生えた”。


喉が鳴る。

恐怖が一気に押し寄せる。

最終段階の説明が脳裏で爆発する。


――守りが薄くなる。

――黒紋が広がる。

――自我の輪郭が崩れる。

――核が回収を始める。


(やめて……!)


叫びたくなる。

でも叫べない。

叫べば、敵に「暴走」を与える。

叫べば、首輪が永続に固定される。


元婚約者は、楽しそうに囁く。


「これが代償の共有だ。

公爵が器なら、君も器になれる。

触れれば鎮まる? ――その代わり、君も削れる」


リュシアの痛みが、怒りに変わる。

怒りが痛みを押し返す。

押し返す力がないと、膝が折れる。

折れたら核を奪えない。


「……っ、ふざけないで」


声が震える。

震えたまま、足は前へ出る。

決死の覚悟が、ここで形になる。


黒紋はまだ細い。

まだ点だ。

点なら、線になる前に止められる。

止める方法は一つ。


核を奪う。

核を奪って、書き換え返す。

枝を幹から切り離す。

接ぎ木を剥がす。


痛みで視界が霞む。

でも、霞の向こうで元婚約者の指が核に触れているのが見える。

その指が、黒紋を私へ流している。

指が、私の人生を記録にしようとしている。


リュシアは、自分の痛みを“証拠”として使うことにした。


「……今、あなたが触った」


声を低く、鋭くする。

痛みで声がかすれるのを逆に利用する。

“生々しさ”は嘘を剥ぐ。


「核に触れて、契約を伸ばした。

その瞬間、私の刻印が反応した。

黒紋が移った。

――あなたは今、核契約の改竄を“実行”した」


元婚約者の笑みが一瞬止まる。

彼は気づく。

実行は証拠になる。

脅しは逃げ道になるが、実行は逃げ道を焼く。


だが彼は、引けない。

引けば核を奪われる。

引けば舞台が消える。


だから彼は、さらに核を強く握った。

握った瞬間、痛みが跳ねる。

黒紋がもう一筋、腕に走る。


リュシアは歯を食いしばり、涙を一滴だけ落とした。

涙は弱さじゃない。

痛みの証拠だ。

そして、覚悟の証拠だ。


(この痛みごと、奪う)


黒紋が彼女へ。

代償が彼女へ。

その現実が、逆に“勝ち筋”を一本化する。


核を奪えば、彼も私も救える。

奪えなければ、二人とも削れる。


次の瞬間、リュシアは――痛みに耐えながら、核の紙へ手を伸ばした。

指先が触れる寸前、黒紋が熱く脈打った。


指先が核の紙に触れる寸前、空気が裂けた。

裂けたのは音ではない。

契約が引き伸ばされる感覚――世界の“線”が、ぎし、と鳴る感覚。


リュシアの指に、黒紋が伸びる。

腕から手首へ。手首から掌へ。

そして、指輪の縁に沿って――指へ。


痛みが、骨の中に針を刺すみたいに走った。

熱じゃない。

冷たい痛み。

“引き受けろ”と命令する痛み。


(引き受ければ、彼は助かる)


最終段階の説明が、逆向きに回転して胸に落ちる。

器が限界なら、代償を分ければ回収は遅れる。

守りが反転する前に、分担すれば“間”が作れる。

間が作れれば、核を奪って書き換え返す時間ができる。


それが見える。

見えるから怖い。

見えるから、選択が残酷になる。


背後で鎖の擦れる音が、また近づいた。

護送は続いている。

舞台の裏で、次の舞台が組まれている。


元婚約者が笑う。


「どうする?

引き受ければ、公爵は持つ。

引き受けなければ、回収が始まる」


最悪の二択。

命を秤にかける二択。


そのとき――通路の奥、護衛たちの間から、エイドリアンの声がした。

掠れているのに、はっきり届く声。

彼はまだ“今”にいる。


「やめろ。君の心が削れる」


胸が締まる。

彼は分かっている。

体じゃない。心が削れる。

代償は痛みだけじゃない。

選択を重ねるたびに、信じる力が削れる。

人を愛する力が削れる。

自分を選ぶ力が削れる。


だから彼は止める。

好きなものから壊す仕組みを、ここで完成させたくないから。


でも、リュシアはもう見てしまった。

黒紋が指へ伸びる現実を。

引き受ければ彼が助かる可能性を。

そして、引き受けなければ彼が回収される可能性を。


(私は、私で選ぶ)


選ぶのは、“犠牲”ではなく“共同”だ。

彼を壊して勝つのは嫌だ。

彼に私を壊させて勝つのも嫌だ。

なら――二人で生きるための引き受け方を選ぶ。


リュシアは、震える指をゆっくり握りしめた。

黒紋が脈打つ。

指輪が焼ける。

痛みが“契約の声”を帯びる。

それでも、声に飲まれないように、自分の声を上書きする。


そして、言った。

小さくても、確定する言葉で。


「一緒に生きるために引き受ける」


元婚約者の笑みが歪む。

彼は“犠牲”を期待していた。

“救うために壊れる女”を期待していた。

でも今の言葉は違う。

それは犠牲の宣言ではない。

共同の宣言だ。

生きるための宣言だ。


リュシアは核の紙から指を引かない。

触れる寸前の距離で止め、痛みを受けながら“線”を読む。

核が動こうとしている。

契約が伸びようとしている。

その動きを止めるには――“儀式の場”が必要だ。


核契約は、手順で結ばれた。

なら、ほどくのも手順だ。

ほどく手順を行う場所がある。

封印文字が刻まれ、核印が押され、代償が確定する場所。


――契約儀式の場。

旧校舎ではない。

王宮の奥。

表にない部屋。

“封印登録の監督室”――記録には「該当なし」と書かれる場所。


元婚約者が、リュシアの目の動きを読んだのか、口元を吊り上げた。


「行く気か。

じゃあ見せてやる。核契約の原初を」


その言葉が、決戦前夜の鐘みたいに胸に鳴った。

今夜はまだ終わらない。

終わるのは――儀式の場で核を奪い、契約を書き換え返したときだけだ。


黒紋が、もう一度だけ疼いた。

指へ。

指輪の縁へ。

線が確定しようとする。


リュシアは痛みを飲み込み、目を上げた。

彼を助けるために。

私が私でいるために。

核を握る者を裁くために。


黒紋が私の指へ伸びる――引き受ければ、彼は助かる。

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