表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
冤罪で追放された令嬢、呪い持ち魔導師公爵と100日限定の契約結婚します  作者: swingout777


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/12

追放宣告と“黒紋の指輪”

石の床は、冬の水みたいに冷たかった。

玉座のある壇上から落ちる光が、床に白い筋を引いている。その筋の上に立たされると、足元まで見透かされている気がした。


「リュシア・ヴァレリウス」


名前を呼ばれた瞬間、広間の空気が一段、重くなる。

ざわめきが薄皮のように剥がれ落ち、代わりに、視線だけが残った。貴族の、役人の、騎士の――そして、かつて笑い合ったはずの人の視線も。


リュシアは背筋を伸ばした。

膝を折らされるのは嫌だった。嫌だ、と思うこと自体が、もう罪のように扱われる気がして。


「王宮会計局における横領の件。証拠は揃っている」


宣告は淡々としていた。

淡々としているほど、反論の余地がないように聞こえる。言葉の形が、最初から判決の形をしている。


「……証拠、とは」


喉が乾いていた。声が少し、かすれる。

それでも言葉を出したのは、沈黙すれば“認めた”ことになると知っていたからだ。


会計局長ヴァルターが一歩、前へ出た。

掌に広げられた紙束は、ふしぎなくらい整っている。角が揃い、紐の結びも乱れがない。整いすぎていて、吐き気がした。現場の紙は、いつだってもっと汚れる。書き手の癖や、急ぎの焦りが残るはずだ。


「こちらが帳簿の写し。こちらが入金記録。そして……こちらが押印済みの承認書類」


ヴァルターは最後の一枚を、誇示するように掲げた。

赤い蝋の上に、王宮会計局の紋章がくっきりと刻まれている。


――印。

それだけで、場が静まり返る。


リュシアは瞬きを一つした。

蝋の盛り方が少し、均一すぎる。熱の当て方も、押した圧も。職人の手が入っているような、妙な“美しさ”がある。


「この承認書類は、私の筆跡ではありません」


言い切った途端、笑いが起きた。

小さく、上品に、しかし確実に人を傷つける笑い。誰かが「往生際が悪い」と呟く。別の誰かが「罪人の言い訳」と鼻で笑う。


壇上の裁定官が眉をひそめた。


「筆跡は、専門官が照合済みだ」


「照合官の名前を。照合に用いた原紙の提出を――」


「黙れ」


鋭い声が広間を割った。

リュシアの言葉は、空中で切り落とされる。裁定官ではない。――彼女の右手側、貴族席から発せられた声。


振り向くまでもなく、分かった。

その声の持ち主は、彼女の名前を“愛の言葉”として呼んでいた人だ。


レオン・クローディア侯爵子息。

婚約者。――だった。


レオンは、まるで誰かの代弁者のように立ち上がっていた。顔には心配の仮面が貼り付いている。だが、その目は冷たい。氷の上を歩くときの、落ちる相手を先に見つけた目。


「リュシア。もうやめろ。みっともない」


その「みっともない」が、胸の奥を掻きむしった。

彼が“味方”ではないという事実が、言葉より先に、体に染み込んでくる。


「あなたまで……?」


思わず漏れた声は、広間の空気に吸われて消えた。

レオンは、ため息をつくように肩を落とす。


「君が罪を犯したと認めるなら、せめて家の名誉だけは守れる。……婚約は、ここで解消する」


広間がどよめいた。

婚約破棄という言葉は、横領よりも人の興味を引く。血の匂いに群がるみたいに、視線が一斉に集まる。


「……名誉?」


リュシアは笑いそうになった。喉がひりつく。

名誉は守るものではなく、踏みにじるものなのだと、この場は教えてくる。


「帳簿の数字を見たでしょう。矛盾が――」


「矛盾などない」


ヴァルターが即座に遮った。遮り方が早すぎる。

リュシアは、その速度に確信を得た。――“見せたくないもの”がある。


裁定官が巻物を開く。

読み上げられる条文。罰則。追放。資産差し押さえ。


淡々とした声が、彼女の人生を切り分けていく。

まるで肉屋の包丁だ。骨と肉を、正しく分けるように。


「本日をもって、リュシア・ヴァレリウスの爵位及び王宮での職を剥奪する。王都からの追放を命じ――」


言葉の途中で、リュシアの視界が一瞬、狭くなった。

音が遠のく。鼓動だけが大きい。屈辱で目の奥が熱くなるのに、涙は出なかった。泣けば負けだ、という幼い意地が、まだ彼女の中に残っている。


リュシアは壇上ではなく、書類へ視線を向けた。

押印の赤。

蝋の光り方。

刻まれた紋章の線の鋭さ。


――印章。


心の中で、その単語を噛む。

いつもなら、紋章の線はもう少し潰れる。急いで押せば、端が滲む。なのにこの印は、あまりに綺麗だ。綺麗すぎて、嘘みたいだ。


(……誰が、この印を用意した?)


問いが、胸に火種として落ちた。

悔しさが、燃える。燃えるほど、冷たくなる。泣くより先に、考えろ。考えて、生きろ。証明しろ。


「――異議を申し立てるなら、今ここで」


裁定官の声が戻ってくる。

広間の空気は、彼女が“諦める”のを待っている。諦めれば、みんな楽になる。罪人が静かに消えれば、物語は美しく終わる。


リュシアは、唇を噛んだ。

血の味がした。


「異議があります」


一言だけ。

それで充分だった。


笑いが再び起きた。

だが、今度の笑いは、少しだけ遅れた。リュシアが折れないと分かった分、空気がざらつく。嫌悪と焦りが混じったざらつき。


ヴァルターが紙束を抱え直す。

レオンは目を逸らす。

誰かが衛兵に合図を送る。


「――連行せよ」


命令が落ちる。


リュシアは、最後にもう一度だけ、あの赤い印を見た。

刻まれた線の“完璧さ”が、逆に不自然に見える。


(印章を追えば、嘘に辿り着ける)


その確信だけを握って、彼女は踵を返した。

背中に突き刺さる視線の雨を、受け止めながら。


手首にかけられた鉄の輪が、動くたびに骨へ触れて痛んだ。

鎖は短く、歩幅を許さない。歩こうとするたび、王宮の石床に金属の音が落ちる。その音が、まるで「罪人」と刻印しているみたいだった。


広間を出ると、空気が変わった。

香の匂いが消え、湿った土と馬の汗が混じる。扉の向こうにあるのは“現実”だ。ここから先は、もう誰もきれいな言葉で装ってくれない。


「うつむくな」


護送役の騎士が短く言った。怒鳴るでもない。淡々とした声が、かえって冷たい。

リュシアはうつむかなかった。うつむいたら、負けたみたいだから。勝ち負けの話ではないのに、今はそれしか縋るものがない。


馬車――いや、護送車の扉が開けられる。

中は狭く、板張りの椅子は硬い。窓は小さく、外はほとんど見えない。見えたところで何がある。王都の屋根だ。人々の生活だ。彼女が触れられなくなった世界だ。


背中を押される前に、リュシアはひとつ、息を吸った。

冷たい空気が肺に刺さり、涙の代わりに咳が出そうになる。こらえる。咳も弱さに見える気がした。


「……待ってください」


声を出した瞬間、護送役が眉を動かした。

リュシアは足元の荷袋を指した。王宮会計局で使っていた小さな革袋。今日の朝まで、彼女の机の引き出しにあったはずのものだ。広間で押収された書類の中に混じっていた。


「あれは私の私物です。筆記具と――」


「没収だ」


即答だった。

護送役の騎士ではない。背後から聞こえたのは、会計局の役人の声だった。ヴァルターの部下だろう。制服の襟元の刺繍が、会計局のものと同じ色をしている。


(早い)


心が、嫌な形に冷えた。

“私物”に反応が速すぎる。普通なら、罪人の小袋に価値など見ない。だが彼らは見ている。そこに何かがあると知っている。


リュシアの脳裏に、朝の机がよみがえる。

矛盾に気づいたとき、彼女は帳簿を写し取り、数字の並びをメモして、革袋に入れた。万が一のために。手元に残せる、唯一の欠片として。


(あれが……証拠)


リュシアは思わず一歩、前へ出た。鎖が引っ張られ、手首が痛む。

護送役が短く舌打ちした。


「中身を確認させてください。王宮に返すべき公文書は入っていません。私の――」


「黙れ。命令だ」


役人が革袋をひったくるように奪う。

その動きが乱暴で、隠す気がない。人目があるのに。いや、人目があるからこそ、乱暴が正当化されるのか。罪人の所有物を奪うのは“当然”だから。


革袋の口紐がほどかれる。

紙の擦れる音。小さな金具の音。リュシアの胸の奥で何かが、静かに割れた。


(……あれは、私の最後の足場だった)


足場がなくなる感覚は、思った以上に身体的だ。

膝が柔らかくなり、胃が沈む。世界が少しだけ傾く。


役人は、中身をひとつずつ指でつまんで確認した。

羽ペン。小瓶のインク。折り畳んだ紙――数字を書き付けた走り書き。彼の眉が、ほんの僅かに動いた。次の瞬間、紙は手の中でくしゃりと潰された。


「――燃やせ」


囁くような声。だが、リュシアにははっきり聞こえた。

近くの兵が一瞬だけ戸惑う顔をしたのに、すぐに視線を逸らした。見なかったことにする顔。従う顔。


「待って!」


声が跳ねる。

だが、役人は見もしない。潰した紙を懐へ入れ、残りの物を袋に戻し、袋ごと別の兵に放り投げた。


「これは会計局で管理する。罪人のものではない」


嘘だ。

だが、この場で“嘘だ”と言っても、嘘を嘘にできない。力が足りない。証拠が足りない。何より、味方がいない。


(……口封じ)


口封じ、という言葉が浮かんだ瞬間、背筋に冷たい汗が走った。

ただの没収じゃない。紙切れ一枚に、彼らは反応した。つまり、彼らは知っている。彼女が何に気づいたのか。あるいは、気づきかけたのか。


そして――知っている者は消される。


「乗れ」


護送役の騎士が、押し込むように言った。

リュシアは護送車に足を踏み入れた。中の暗さが、急にやさしく感じる。外の視線より、暗闇のほうがまだましだと思ってしまう自分が怖い。


扉が閉められる。

鉄の鍵が回る音。世界が一枚の板で遮られる。


馬が動き出し、車体が揺れる。

揺れに合わせて鎖が鳴る。金属音が、彼女の呼吸にまで絡みつく。


リュシアは、拳を握った。

爪が掌に食い込む。痛みが、現実に引き戻す。


(泣くな)


泣いたら、何も残らない。

残すものは、証拠じゃない。今はもう、証拠は奪われた。なら、残すのは――


(覚えておけ)


数字の並び。帳簿の違和感。押印の不自然さ。

印章が綺麗すぎたこと。会計局の役人が、紙切れ一枚に反応したこと。燃やせと言った声の温度。


全部、頭の中に刻む。

紙がなくても、記憶がある。記憶がある限り、嘘は完成しない。


窓の隙間から、外の光が細く差し込む。

その光の中で、リュシアは自分の指を見た。先ほどまで何もなかった指に、うっすらと赤い跡が残っている。指輪を嵌めた痕でもない。ただ、何かが触れたような――擦れたような、細い線。


(……おかしい)


心臓が、ひとつ強く打った。

広間で見た“赤い印”が脳裏をよぎる。印章。刻印。押しつけられる証拠。焼き付けられる罪。


「……絶対に、終わらせない」


声は、ほとんど息だった。

それでも言葉にした瞬間、胸の奥に小さな芯が生まれた。絶望が全部を飲み込む前に、意地が一本、残る。


彼らが証拠を奪うなら。

彼らが口を塞ぐなら。


私は、私のままで、証明する。


護送車は、王都の門へ向かって揺れながら進んだ。

その揺れが、まるで“終わり”へ運ばれているようで――同時に、“始まり”へ運ばれている気もした。


揺れが少し大きくなった。

石畳から土の道に変わったのだろう。車輪が跳ね、護送車の中の空気が埃っぽくなる。リュシアは背中を板に預けたまま、呼吸だけを数えていた。


――外の音が、変だ。


馬の蹄のリズムが乱れている。

護送役の騎士が、何か短く怒鳴った。すぐに別の声が返る。言葉は聞き取れないが、声の温度が違った。護送のそれではない。焦りの混じる声。


次の瞬間、護送車が急に減速した。

体が前へ投げ出され、鎖が手首を引き裂くように締まる。


「止まるな!」


外で叫びが上がった。

同時に、何かが木にぶつかる鈍い音。馬のいななき。金属の擦れる音――剣を抜く音だ。


リュシアの喉がきゅっと縮んだ。

襲撃。そんな言葉を頭が理解するより先に、体が“死”を思い出す。冷えた指先が、膝の上で震えた。


護送車の壁が、どん、と叩かれた。

誰かが外から車体に飛びついたのだ。板が軋み、釘が鳴る。小窓の隙間から、黒い影が一瞬、横切った。


「開けろ! 会計局の命令だ!」


叫び声が聞こえた。

会計局――その単語に、リュシアの心臓が跳ねた。さっき革袋を奪った役人と同じ匂いがする。命令口調。人を駒として扱う口調。


(来た……口封じ)


護送車は、本来なら王都の門を出て、しばらく街道を行く。

この場所で襲われるのはおかしい。偶然ではない。待ち伏せだ。時間も、場所も、計算している。


車体がまた、揺さぶられた。

木が割れるような音。小窓の格子が、ぎし、と歪む。外の空気が一気に流れ込み、冷たい土の匂いが鼻を刺した。


「中にいるのは罪人だ! 引き渡せ!」


別の声。低い。訛りがある。兵士の声ではない。

傭兵だ。雇われた刃。誰の金で動いているのか、考えるまでもない。


護送役の騎士が怒鳴る。


「王宮の命令だ! ここを通す!」


「王宮? 笑わせるな。命令を出したのは――」


そこで言葉が途切れた。

刃が肉を裂く音がした。短く、湿った音。次に、何かが地面に落ちる音。呻き声。息が詰まる。


リュシアは反射的に口を押さえた。

喉の奥から声が漏れそうになるのを必死で止める。叫んだら、ここにいると知られる。知られたら、終わりだ。


外の足音が増えた。

馬の周りを囲むように、複数。護送の人数を知っていて、十分な数を揃えている。組織立っている。雑な盗賊ではない。


小窓に、顔が現れた。

黒布で口元を覆い、目だけがぎらりと光る。

その目が、まっすぐにこちらを見る。罪人を見る目ではない。獲物を見る目だ。命令を遂行するためだけの、空洞の目。


「いるな」


短く言うと、その男は小窓の格子に手をかけた。

力任せに引き剥がそうとする。木が軋み、鉄が呻く。リュシアの背中を汗が伝った。


「開けろ」


男が言った。

そして、耳元に顔を寄せるようにして、低く付け足す。


「抵抗するな。――苦しまないで済む」


優しさの形をした脅し。

それが一番、怖い。


リュシアは壁際に身を縮めた。

狭い車内で逃げ場などない。それでも本能が、少しでも遠くへと命じる。肩が壁に当たり、木のささくれが服越しに刺さった。


外で再び、会計局の名が飛ぶ。


「余計な傷をつけるな! “書類”が――」


その声が、急に小さくなる。誰かに遮られたのだ。

遮った声は、先ほどの傭兵の低い声だった。


「分かってる。欲しいのは女じゃない。あの――」


そこで、言いかけた言葉が途切れた。

一瞬、風が止まったように静かになり、次いで、別の男が怒鳴った。


「黙れ!」


刃が交錯する音が続く。

だが、リュシアには、さっきの言いかけが耳に残っていた。


(女じゃない? じゃあ、何?)


書類。

そして、言いかけた言葉。


あの――……。


喉の奥が冷えた。

脳裏に浮かんだのは、暗号の言葉じゃない。彼らが本当に恐れているもの。


(原本……?)


自分の頭が勝手に補った単語に、背筋が粟立つ。

“原本”――誰がどんな契約を結び、誰がどんな金を動かし、誰が印章を押したか。すべての核になる紙。


会計局が奪い、燃やそうとした紙切れの先にあるもの。

それを彼らは知っている。知っているから、今こうして襲っている。


小窓の格子が、とうとう外れた。

男の腕が車内へ突っ込まれる。指が空を掴み、次に鎖へ伸びる。金属を引きちぎるつもりだ。


「来い」


指が、リュシアの腕を掴んだ。

皮膚が引っ張られ、痛い。恐怖で視界が狭くなる。息が浅くなり、喉が鳴る。


そのとき。


外で、空気が“割れた”。


――いや、割れたのは音ではない。

圧だ。目に見えない圧が、一瞬で道を支配した。寒気とは違う。もっと硬い、もっと重い何か。


「……退け」


低い声が聞こえた。

怒鳴り声ではない。命令というより、事実みたいな声。


掴んでいた男の指が、ぴくりと止まる。

小窓の外で、傭兵たちの気配が一斉に揺らぐ。ざわ、と恐怖の匂いが混じる。


「誰だ――」


男が言いかけた瞬間、彼の腕がふっと軽くなった。

掴む力が消えた。次に聞こえたのは、地面に膝をつく音。鈍い音。恐怖の音。


リュシアは息を飲んだ。

小窓の外に、黒い影が立っている。背が高い。長い外套。手元に、淡い光の線が走る。


その光が、刃の形をしていた。


そして、影の指には――黒い紋が見えた気がした。


(……黒紋)


恐怖の種類が変わる。

死への恐怖から、未知への恐怖へ。だが、不思議と体の震えが少しだけ止まった。今の声は、彼らの“仲間”ではない。会計局の匂いがしない。


外が、静かになる。

静かになりすぎて、逆に怖い。


小窓の向こうで、誰かが低く、短く呟いた。


「……原本を――」


言葉は最後まで届かなかった。

別の声が重なり、その言葉ごと叩き落とした。


「黙れ。――ここから先は、俺の領分だ」


リュシアは、その声を聞いた瞬間、分かった。

誰かが来た。

そして、今度こそ、本当に――生き残るための分岐点が来たのだと。


護送車の外が、息を止めたみたいに静かだった。

ついさっきまで剣と怒号で満ちていた世界が、嘘のように薄い膜に包まれている。


小窓の向こうに立つ影は、動かない。

ただ立っているだけで、空気が「従え」と言っているようだった。


「……誰だ、お前」


傭兵の一人が、震える声で言った。

剣先は向けたままなのに、腕が定まっていない。獲物を追う目が、目の前の男を“理解できないもの”として見ている。


影が一歩、前に出た。

外套の裾が揺れ、月光――いや、雲間の白い光が、彼の輪郭を切り取る。


顔は、冷たいほど整っていた。

感情の起伏が薄い。瞳だけが深い。深すぎて、覗き込むと落ちそうになる。怒りでも憎しみでもない。ただ、判断だけがある目。


「この護送は王宮の命令だ」


護送役の騎士が、ようやく声を取り戻して言った。

だが、その声も揺れている。味方のはずの騎士でさえ、目の前の男を“格上”だと直感している。


影――男は、護送役へ視線を向けた。

その視線だけで、騎士が言葉を飲み込む。背筋が伸び、姿勢が変わる。軍隊の指揮官に向ける敬意の姿勢だ。


「……失礼いたしました」


護送役が、自分でも驚いたように言った。

名乗りもされていないのに。肩書きも示されていないのに。空気が勝手に序列を決めている。


男は頷きもしない。

視線を戻し、傭兵たちの方へ歩いた。


足音は静かだった。

静かすぎて、逆に怖い。殺意があるならもっと荒いはずなのに、彼の動きは“作業”のように滑らかだった。


「退け、と言った」


さっきと同じ言葉。

低く、短く、容赦なく。


傭兵が歯を食いしばり、剣を振り上げた。

その瞬間、男の指先がわずかに動いた。空気に、淡い線が走る。魔法の詠唱でも呪文でもない。指の動きそのものが“命令”になっている。


剣が、落ちた。

傭兵の手からではない。剣そのものが、重力を忘れたように地面へ叩きつけられた。金属音が一度響き、傭兵の顔色が抜ける。


「な、に……」


傭兵が呻く。

次の瞬間、彼の膝が折れた。誰かに殴られたわけではない。骨が折れたわけでもない。だが、立っていられない“圧”が彼を押し潰している。


男は、そのまま歩いた。

傭兵たちの間を通り抜ける。剣を構えようとした者は、構え切れないまま崩れた。逃げようとした者は、足が前に出ない。


リュシアは小窓の隙間からそれを見て、唇を噛んだ。

安堵が、確かに胸に流れ込む。生きられるかもしれない、という安堵。


だが、それと同じ速度で、別の感情が湧いた。


(……怖い)


この男は、助けなのか。

それとも、別の支配者なのか。


会計局の役人と傭兵が“命令”で動くのなら、この男は“空気”そのものを支配している。格が違う。刃物を持った盗賊と、法を握る王と、どちらが恐ろしいか――考えるまでもない。


男が護送車の前で止まった。

外套の襟元から、銀色の紋章が見える。公爵家の徽章。見慣れない意匠だが、目が覚えるほどの重さがある。


「護送車を開けろ」


護送役の騎士が、即座に鍵へ手を伸ばした。

「はい」と声が裏返りそうになるのを、必死で抑えている。


扉が軋み、光が差し込む。

空気が一気に入ってきて、リュシアの肺が冷たくなる。


男は一歩、車内へ踏み込んだ。

狭い車内が、急に狭く感じる。彼が空間を支配しているせいだ。リュシアは反射的に背筋を伸ばし、視線を逸らさなかった。逸らしたら、負ける。そう思ってしまう。


男の視線が、リュシアの鎖に落ちる。

一瞬だけ、眉が動いた。ほんの僅か。怒りでも哀れみでもない。“不都合”を見つけた顔。


「……外せ」


命令が落ちる。

護送役が慌てて鍵を探し、鎖を外そうとする。だが、鍵穴に鍵が合わない。手が震えている。


「手を引け」


男が言うと、護送役が半歩、下がった。

男は指先を鎖へ向けた。淡い光が、鎖の繋ぎ目を撫でるように走る。金属が熱を持ち、次の瞬間――ぱきん、と乾いた音がして鎖が外れた。


リュシアは手首をさすった。

赤くなった皮膚が痛む。でも、痛みより先に、自由の軽さが来る。安堵が強くなる。生きられる。助けられた。


……はずなのに。


男が近づいた。

距離が詰まる。息が浅くなる。彼の瞳が、リュシアの顔を“読む”ように動く。価値を測る目だ。救う価値か、捨てる価値か。


「リュシア・ヴァレリウス」


彼は、彼女の名を知っていた。

それだけで警戒が跳ね上がる。名を知っているなら、事情も知っている。事情を知っているなら、目的がある。


「……あなたは」


問いかけようとして、言葉が詰まった。

名を問う? 助けた理由を問う? どちらも今は危険だ。


男は答えない。

代わりに、ほんの少しだけ首を傾けた。


「君は、死にたくないか」


あまりに直球で、リュシアは一瞬、息を止めた。

死にたいわけがない。だが、“生きたい”と即答するのも、弱みに見える。


「……死ぬつもりは、ありません」


絞り出すように言う。

男の目が、わずかに細くなる。肯定とも否定とも取れない微かな変化。


そのとき、男の右手の甲が――暗く光った。

黒い紋。肌の内側から浮き上がるような線が、脈打つように広がり、また収束する。


リュシアは、その一瞬を見逃さなかった。

あれは、さっき傭兵たちが怯えた“何か”だ。黒紋。呪いか、契約か――呼び名は分からない。ただ、空気が冷たくなる。


男は、ほんの一瞬だけ指を握り込んだ。

痛みを隠す動作。

次に瞬きを一つして、何事もなかったように手を下ろす。だが、空気は戻らない。


(……この人も、何かを抱えている)


助けてくれた。

格の差で襲撃を止めた。

でも、彼の中に“黒い前兆”がある。


安堵と警戒が、胸の中でせめぎ合う。

リュシアは、視線だけは逸らさないまま、声を絞った。


「……私を、どうするつもりですか」


男はようやく、名乗るように言った。


「エイドリアン・アルノルト」


その名が落ちた瞬間、護送役が息を呑んだ。

そして、信じられないほど丁寧に頭を下げる。


「まさか……魔導師公爵、閣下……!」


魔導師公爵。

言葉の重さが、車内の空気をさらに固くする。


エイドリアンは、リュシアを見たまま淡々と言った。


「ここにいると、次の襲撃で君は死ぬ」


そして一拍置き、言葉を続ける。


「生きたいなら――取引をしろ」


取引。

その言葉は、救いの形をしていなかった。助ける、と言うより、買う、と言っている。


リュシアは息を整えた。

手首の赤い痕が、まだ熱を持っている。鎖が外れたのに、心の中の鎖はむしろ重くなった気がした。


「取引、とは……」


問いかけた声は、思ったより硬かった。

硬くしないと、足元が崩れる。いま彼女に必要なのは感情じゃない。倒れないための骨だ。


エイドリアンは馬車の外へ視線を向けた。

地面に崩れた傭兵たち。剣を拾うこともできず、呻き声すら押し殺している。護送役の騎士たちも、勝ったのに顔色が戻らない。勝利が恐怖を消していない――それだけ、この男が恐ろしい。


「彼らは、君を“消す”命令で来た」


淡々と言われたことで、逆に現実味が増した。

リュシアの喉がきゅっと縮む。だが、その言葉の続きに逃げ道があることも分かった。命令、という言い方は、命令主が別にいるということだ。


「……会計局長?」


「可能性は高い。だが、単独ではない」


エイドリアンは首を振らなかった。

確定させない。余計な言葉を与えない。敵にも、味方にも。


その慎重さが、リュシアの警戒心をさらに煽った。

この男は甘くない。感情で動かない。だからこそ“取引”ができる。だからこそ、危険だ。


「取引の内容を聞かせてください」


自分でも驚くほど、冷静に言えた。

屈辱に耐えた広間のときより、声がぶれない。今は泣く暇もない。


エイドリアンは、ようやくリュシアの指先を見た。

指輪はまだない。だが、さっきから指の根元に残る、薄い擦れのような跡――そこに視線を落とす。


「結婚する」


あまりに短い結論だった。

リュシアの思考が一拍遅れて追いつき、次の瞬間、全身が拒絶で熱くなった。


「……は?」


声が低くなった。

怒りというより、侮辱されたときの声だ。自分が“物”として扱われた瞬間の声。


「冤罪で追放され、襲撃される女に、結婚を迫るんですか」


理屈は整っている。

口は回る。だが、胸の奥はざらざらしている。王宮で奪われた尊厳が、また奪われる音がした。


エイドリアンは表情を変えない。

変えないまま、言葉だけで刺してくる。


「迫ってはいない。選べる」


「選べるように見えません」


リュシアは一歩、前へ出そうとして止まった。

狭い車内で一歩前に出ることは、距離を詰めることだ。距離を詰めたくない。けれど下がりたくもない。身体が宙に浮いたみたいに不安定になる。


エイドリアンは、淡い光を指先に灯した。

小さな輪郭。銀色の指輪の形が、空中に“組み上がる”ように浮かぶ。魔法の装飾ではない。実用の、符号の組み合わせ。契約魔術の形だ。


「これは契約指輪だ」


光の輪が、ふっと濃くなる。

輪の内側に、細い文字が走る。読めない。だが、見ただけで“縛り”だと分かる。


「この刻印がある者だけが、俺の結界の保護下に入る」


リュシアは指輪を見つめた。

“保護”。その言葉は魅力的だ。今はそれしか生き延びる手段がないかもしれない。


だが、保護という言葉は、管理と紙一重だ。

守られる代わりに閉じ込められる。王宮で追放されたのに、別の檻に入るだけなら、何の意味がある。


「……どうして私が必要なんですか」


拒絶の熱が、少しだけ冷える。

理屈を求めた。理屈がないと、飲み込めない。


エイドリアンは、ほんの僅かに目を伏せた。

伏せたというより、瞬きが遅れた。何かを計算している。


「君は“今すぐ消される存在”だからだ」


答えになっているようで、答えになっていない。

リュシアは眉をひそめる。


「それが理由なら、私を安全な場所へ匿えばいい。結婚など――」


「匿えば、匿った側が攻撃される」


エイドリアンの声が、少しだけ硬くなる。

硬さは感情ではない。事実を突きつける硬さだ。


「それでも俺は匿える。だが、君は結界の外に出た瞬間、狙われる。保護を“恒常化”するには、契約が要る」


なるほど、と頭が言う。

くそ、と心が言う。


結婚は、社会的契約だ。

しかも“公爵夫人”という肩書きは、無数の目を引く。敵が迂闊に手を出せない盾になる。盾の代償は、自由だ。


「期限は」


リュシアは自分の声を探した。

拒絶のままでは死ぬ。ここで死ねば、冤罪は確定し、彼女は罪人のまま消える。そう考えると、怒りの火は一旦、手のひらで握れる。


エイドリアンは即答した。


「百日」


「……百日?」


「百日後、離縁する」


離縁、という言葉が、少しだけ救いに聞こえた。

期限があるなら、檻にも出口がある。出口が見えるなら、耐えられる。


「その百日で、何をするんですか」


「君の冤罪を晴らす」


リュシアの胸が、ほんの少しだけ上を向いた。

その言葉は、今の彼女が一番欲しい約束だ。


だが、すぐに疑念が追いかける。


「あなたに、何の得が?」


リュシアは踏みとどまった。

ここで“ありがたい”と思ったら負ける。取引なのだ。取引なら、相手の得を知らなければいけない。相手が得を言わないなら、こちらが損をする。


エイドリアンは指輪の光を一瞬、弱めた。

目を上げ、リュシアをまっすぐ見る。


「俺にも必要なものがある」


言ったのは、それだけだった。

必要なもの。何だ。利権か。名声か。政治か。あるいは――もっと別の“核”。


だが、彼はそれ以上を語らない。

語らないことで、こちらに想像をさせる。想像は不安を生む。不安は従属を生む。そういう手口を、リュシアは王宮で何度も見てきた。


(……代償を隠している)


直感が告げる。

指輪が保護になるなら、その保護には何か支払いがある。契約はいつだって、片方だけ得をしない。


リュシアは目を細めた。


「結婚の条件は、指輪だけですか」


「秘密保持。公の場では夫婦として振る舞う。百日後、離縁」


淡々。短く。

それが全てであるかのように。


「……違反したら?」


エイドリアンの目が、一瞬だけ暗くなる。

黒い底を見せるような暗さ。


「やめておけ」


それは答えではなく、警告だった。

リュシアの背中に冷たいものが走る。違反のペナルティは重い。重すぎて言えないのだ。あるいは、言えば取引が成立しない。


彼が隠すほど、危険がある。


それでも――。


リュシアは、指の根元の薄い跡に視線を落とした。

王宮の赤い印章。奪われた紙。燃やせと言った声。

そして今、口封じの襲撃。


このままなら、次は確実に死ぬ。

死ねば、冤罪は永遠に“真実”になる。


生きるために、必要なのは尊厳ではなく、手段だ。

尊厳は、生き残った者が取り返せる。


リュシアは、息を吸った。

冷たい空気が胸を満たし、怒りの火が少しだけ落ち着く。


「……分かりました」


言葉が落ちる。

自分でも悔しい。悔しいのに、足元が少しだけ安定する。絶望が、一段、薄くなる。


「ただし、条件を追加します」


エイドリアンが動かなかったので、リュシアは続けた。


「百日の間に、冤罪を晴らす。私の名誉を取り戻す。そのためにあなたは協力する。――それが取引です」


エイドリアンは初めて、ほんの僅かに口角を動かした。笑みではない。了承の印だ。


「いい」


指輪の光が、再び濃くなる。

輪の内側の文字が、まるで生き物のように走る。


「なら、契約を結ぶ」


言葉が落ちた瞬間、エイドリアンの右手の甲が、また脈打った。

黒い紋が、さっきよりも強く。

ほんの一瞬、痛みを飲み込むように指を握り、何事もなかったように手を開く。


リュシアはそれを見た。

見たからこそ、胸の奥がざらつく。


(……この取引、私だけの代償じゃない)


なのに、彼は何も言わない。

隠す。黙る。淡々と進める。


エイドリアンは指輪を、リュシアの指先へ近づけた。


「手を」


その短い命令に、リュシアは一瞬だけ躊躇った。

拒否の感情が最後に抵抗する。


だが、彼女は手を差し出した。

震えないように。負けないように。


指輪の冷たい光が、指に触れた。


指輪の冷たい光が、指に触れた。

触れた瞬間、皮膚の表面だけではなく、もっと内側――血の流れにまで触れられた気がした。


「……っ」


声にならない息が漏れる。

痛いわけではない。熱いわけでもない。なのに、体が“これは危険だ”と告げてくる。獣が罠に触れたときの、ぞわりとした感覚。


エイドリアンは淡々と言った。


「離すな」


命令というより、手順の確認みたいな口調だった。

その落ち着きが、かえって怖い。彼にとってこれは何度も繰り返してきた作業なのか、と錯覚する。


リュシアは自分の指を見つめた。

光の輪は、指に嵌る“直前”で止まっている。浮いているのに、確かな重みがある。輪の内側の細い文字が、静かに回転していた。


(……契約魔術)


王宮の書類で見たことがある。

契約は紙だけで成立しない。魔力を介して“当人”を縛る。それが貴族社会の当たり前だ。だから破棄は難しい。だから重い。


リュシアは喉を鳴らした。

百日。夫婦の演技。秘密保持。離縁。

そう言葉で整理しても、指先の感覚だけが「戻れない」と叫んでいる。


「……本当に、百日で終わるんですね」


自分の声が少しだけ震えた。

震えをごまかすために、唇を噛む。痛みで身体を固定する。


エイドリアンは、迷いなく頷いた。


「終わる。君が望むなら」


――望むなら。

その言い方が、逆に引っかかった。望んでも終わらないことが、この世界にはある。契約が絡めばなおさらだ。


(代償を隠している)


S5で感じた疑念が、まだ胸に刺さっている。

でも今は、それを追及できない。追及したところで、ここで生き残る手段は他にない。


リュシアは、息を吸った。

護送車の外。倒れた傭兵。震える護送役。

世界はまだ危険の中にある。ここで躊躇えば、次はない。


「……分かりました」


言葉にした瞬間、輪の光が濃くなった。

まるで“了承”を受け取ったみたいに。


エイドリアンの指先が、輪の内側の文字へ触れる。

触れた瞬間、文字が一斉に走った。光の筋が指輪を駆け巡り、輪の内側から外側へ、薄い稲妻のように広がる。


リュシアの指に、熱が走った。


「っ……!」


今度ははっきり痛かった。

焼ける痛みではない。刺すような熱。骨にまで届く熱。指の根元に、見えない針が何本も打ち込まれる感覚。


反射的に手を引こうとした。

だが、エイドリアンの手がリュシアの手首を掴み、逃がさなかった。強くはない。それでも、逃げられない確かさ。


「動くな」


低い声。

その声の冷たさが、痛みよりも怖い。


光の輪が、するりと指へ落ちる。

落ちた瞬間――指輪が“実体”になった。

銀の重みが、指の骨に乗る。冷たさが肌に張り付く。


そして、内側の文字が、皮膚へと染み出した。


赤い線が、指の根元に現れる。

最初は細い糸。次に、糸が枝分かれし、模様を作り始める。花にも鎖にも見える、矛盾した形。美しいのに、縛りだと分かる形。


「刻印が入った」


エイドリアンの声が、遠い。

リュシアの耳は、今、自分の血の音しか拾っていない。


刻印が“焼き付く”感覚が、遅れて来た。

熱は引くはずなのに、引かない。むしろ、身体の内側がじわじわ熱くなる。指だけではない。胸の奥にも、薄い線が走る。


(……なに、これ)


怖い。

契約は指だけを縛るものじゃない、と頭が知っていても、身体が納得できない。


リュシアの視界が揺れた。

一瞬、護送車の内壁が遠くなる。足元が浮く。


その瞬間、指輪が――光った。


外へ向かって、ではない。

内側へ向かって。

リュシアの中にある何かを探り当てるように、光が“脈”を打つ。


エイドリアンの手の甲の黒紋が、同時に脈打った。

黒い線が浮き上がり、痛みを飲み込むように彼の指がわずかに震える。彼はそれを隠すように、指を握り込んだ。


リュシアの指の刻印が、彼の黒紋に呼応する。

赤と黒が、見えない糸で繋がったように感じた。繋がった、と確信した瞬間、胸の奥がひやりと冷える。


(……私にも、反応した)


契約は、彼女を守るだけではない。

彼の“黒いもの”と、彼女を結ぶ。守りのための回路なのか、呪いの回路なのか――判断はまだできない。


ただ一つ、分かる。

これが“軽い結婚ごっこ”ではないということ。

紙にサインして終わるような話ではない。身体の中へ入ってきた。


リュシアは指輪を見つめた。

赤い刻印が、指の根元で静かに落ち着いていく。熱は残ったまま、痛みだけが薄れる。代わりに、重みが増す。何かを背負わされた重み。


エイドリアンが、静かに言った。


「これで君は、俺の保護下に入った」


保護。

その言葉が、刃みたいに刺さる。守られる代わりに、縛られる。


リュシアは、視線を上げた。

目の前の男は、相変わらず冷たい顔をしている。だが、その瞳の奥に一瞬だけ、疲労の影が見えた気がした。彼もまた、代償を払っている。払っているのに、何も言わない。


言わないまま、淡々と告げる。


「――婚姻は成立した」


その一言で、世界が変わった。

追放令嬢が、公爵夫人になった。

冤罪の罪人が、王国最強の盾の内側に入った。


救いか、檻か。

まだ分からない。分からないまま、刻印だけが確かに残る。


リュシアは心の中で、たった一つの言葉を繰り返した。

逃げない。折れない。証明する。


「罪を着せたなら、証明してみせる」


エイドリアンは、外へ視線を向けて言った。


「結婚しろ。百日だけだ」


その声が、事実になった。


指輪の紋が焼き付き、私は“公爵夫人”になってしまった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ