桃を洗っただけなのに -常識人なので、鬼を斬りました-
ある日、川で桃を洗っていると、おじいさんが流れてきた。
しかも裸で。
私は女性なので、本来であれば視界に入れない努力をする案件だ。しかし、その努力は失敗した。なぜなら、そのおじいさんは私の名前を知っていたからだ。
「エリ!!」
叫ばれた瞬間、思考より先に体が動いた。助けなければならない、というより、もうそうなっていた。魂が勝手に決めていた。私は川に入り、おじいさんの腕を掴んだ。
川は浅かった。途中からおじいさんは私の手を振りほどき、何事もなかったかのように歩き始めた。助けた感じがしない。気味が悪い。
顔をよく見れば思い出すかもしれないと思ったが、まったく知らない顔だった。それでも魂が間違うはずがないので、一度家に戻ることにした。桃を持って。
おじいさんにはここで待っていてもらう。今は冬だし、このままだと死ぬかもしれない。でもおじいさんだ。余命も長くないだろう。そんな人を家に上げるのは常識的におかしい。私は常識人なので、そう判断した。
「ええよ……」
おじいさんは口を震わせながら言った。何か言いたそうだったが、私は聞かなかった。見た目が受け付けなかったし、聞いたところで助ける気はなかった。正確には、もう一回助ける気はなかった。
家に戻り、頭の中を整理しようとした。
そもそも「頭の中を整理する」とは何だろう。物理的に並べ替えるわけでもないのに、なぜ人は整理という言葉を使うのか。そんなことを考えている時点で、もう整理できていない気がする。
整理したい。したいのにできない。
あれ?
私、何しに家に戻ってきたんだっけ?
……思い出せない。
まあいい。桃を洗いに行こう。考えるのは疲れるし、疲れることはだいたい体に悪い。
「あー、くらくらするー」
私はそう言って外に出た。
玄関を開けた瞬間、目の前に人影があった。
「エリ!!」
さっきのおじいさんだ。
服は着ている。だが、それだけだ。顔の配置は人間なのに、全体の雰囲気が人間をやめている。
どこかで見た顔な気もする。俳優だろうか。裸だったし、AV男優かもしれない。
「エリ!! もうよい。苦しませて悪かった!!」
何を言っているのかわからない。だが、魂が珍しく仕事をした。
――逃げろ。
私は家に戻ろうとした。しかし、おじいさんは私の腕を掴んだ。信じられない握力だった。ゴリラ並みである。実際にゴリラに掴まれたことはないが、たぶんこんな感じだと思う。
顔は完全に鬼だった。昔の人は鬼を見たことがないのに、よくあんなに正確なイラストを描けたものだと感心する。今はそれどころではないが。
「はぁ、私を食べるのね」
私は諦めた。昔から諦めが早い。
「うん、そうだな。しかし、その前に手順がある」
おじいさんは事務的に言った。内容は理解しない方が良さそうだった。
「好きにすれば?」
私は強気なふりをした。感情を無に変換するのは得意だ。便利だが、あまり役には立たない。
「良い娘だ」
おじいさんは満足そうに笑った。
「その前に一つ質問なんだけど」
「ええよ」
「どうして私の名前を知っているの?」
それだけは気になっていた。
「それはね、わしらのbossが君のお父さんだからだよ」
その瞬間、おじいさんは私の腕を掴むのをやめた。
「へー、そうなんだ」
私は特に驚かなかった。納得できてしまったからだ。世の中だいたいそんなものだ。
「あまり驚いていないね」
おじいさんは少し不満そうだった。
「えぇ、納得ですわ」
その時点で、おじいさんの腕は切れていた。
「うわぁぁぁぁぁぁ! 痛いィィィ!」
どうやら、今気づいたらしい。
「切れてたね」
私は言った。
「いつの間に……」
「たぶん、さっき」
私の手には刀があった。前から持っていた気もするし、今出てきた気もする。どちらでも大差はない。
アニメだったら、ここで「シャキーン!」という音が鳴るのだろう。でも現実なので、特に何も鳴らなかった。
私は桃を洗いに行った。
今日は色々あった気がするが、だいたい忘れていた。




