(彼女?)からあなたへ
平日の、昼過ぎだった。
街が「やること」でできている時間帯。郵便受けが開閉され、エレベーターが上下し、配達の台車が段差を越える音が、遠くで規則正しく鳴っている。
その巨大なマンションの屋上に、花畑があることを知っている人は少ない。住人ですら、上がったことがない人のほうが多い。
ナズナは、たまにこういう場所を見に来る。事件ではないのに、何かが起きる場所を。
そしてその日、花の匂いの中心で、(彼女?)が目を覚ました。 この話は(彼女?)から(あなた)への物語 この話は(あなた)から(あなた)への物語.............
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まぶたの裏が、春の光であたたかい。
最初に入ってくるのは匂いだった。花の匂い。甘いのに、重くない。胸の奥が勝手にほどける匂い。
(彼女?)は「なんだかとても幸せだ」と思う。理由はない。けれど、そう思う。
怖くない。
それが不思議だった。目が覚めて、知らない場所で、知らない自分で、知らない時間にいるのに。
怖くない。
「え、私、すごいメンタル強い?」
自分で自分にツッコミを入れて、少し笑う。笑っても、誰も怒らない。花が揺れるだけだ。私は結構ひょうきんな女の子みたいだ。いやいや、乙女って言うべきか......?
立ち上がると、ジーンズが膝で擦れて、布の感触が生々しい。長袖のシャツ。春だから、これでちょうどいい。春は好きだ。風が肌の上を撫でて、寒くも暑くもない。
ポケットに手を入れる。狭い。手をねじり込む
ペンが一本。
そして尻のポケットに、折りたたまれた手紙。引っ張り出す。私は意外とナイスバディかもしれない......きついから
封も宛名もない。無記入。まっさらな紙が、(彼女?)の体温だけを吸っている。
「……なるほど。私は、書くためにいるのかもしれない。」
なんとなく、そう思う......
屋上のドアのガラスに自分が映る。成人している。長い髪。色は日が当たると濃い茶色、金に近い。目は茶色で、少しハーフみたいな輪郭。
「ふーん......結構、かわいいじゃん」
自分で言ってしまった......
うーーー
見た目だけは、ちゃんと“いる”。
でも、その“いる”が、どこにも繋がっていない。
名前がない。住所がない。スマホも財布もない。過去もない。
なのに、胸の奥が、明るい。そう、すごい明るいのだ、ホント笑える。
「こっほん!よし。仮説を立てよう。」
(彼女?)は花畑に向かって宣言する。花は黙っている。だから、こちらが自由に推理していいみたいだ。
な?花の諸君。
「私は天使かもしれない。だって幸福すぎる。怖くないしあなたたち(花)の匂いが祝福みたいなのよ。」
「普通こんな状況すごく怖いでしょ?でもね、どう転んでも大丈夫って感じ?って言うか、心の底からずっと幸せが滲み出てるっていうか....」
でも天使なら、もっと体が軽い気がするので、試しに軽くジャンプする。
着地。
膝に、しっかり体重が返ってくる。
「……天使、重いな。」
次の仮説。
「幽霊かもしれない。だって、いつの間にかここにいて、いつの間にかいなくなる感じもしないでもない。」
幽霊なら、影が薄いはずなので、足元を見る。
影は、ちゃんと濃い。花の影と同じように、まじめにそこにある。ふざけた私には勿体ないぐらいしっかりした影だ。
「くっきりした感じの幽霊、という線もある。」
んーーー、とても微妙だ、、、むむむ。
三つ目。
「ただの記憶喪失かもしれないな。現実的でかっこよくない?........ねー。誰に言ってんだか........記憶喪失って、物語っぽい。無記名の美少女って題名で映画化して欲しい!」
少しテンションが上がってしまった
。映画館で見よう。女の子と.......あれ?は?全然男に興味が無い.......まっいいか
四つ目。
「いや、今この体で生まれたのかもしれない。大人の体で、突然“今”だけ持って。」
じゃあお母さん誰?私何?(笑)呆れるよ。この状況で自分をイジれる自分に乾杯。
どれも決め手がない。でも、決め手がないことが、今日は面白い。
(彼女?)は屋上の縁に立って、下を見下ろす。
マンション群。まっすぐに並ぶベランダ。遠くに高級住宅街の緑。道路を流れる車は、みんな目的地へ吸い寄せられている。
「みんな、すごいな。ちゃんと用事がある。」
(彼女?)は、用事がない。
それが、なぜか誇らしい。不可思議で負い目を一切感じない。やらなきゃって焦りが全然無い。
エレベーターに乗る。
鏡に映る自分に、もう一度確かめるように笑いかける。笑顔が、ぎこちない。
途中の階で、スーツの人が乗り込んでくる。スマホを見て、眉間に少しだけ皺を寄せて咳ばらいをして不機嫌そうだ。
(彼女?)は、その皺を見て変な感情になる。
負の感情では無い。違和感の様だ。
「……忙しいんだね。」
知らない人に、心の中でそっと言う。言っただけで、なんだか足りる。
その人は(彼女?)をちらっと見る。金髪に一瞬だけ目が止まって、すぐにスマホに戻る。
見えてる。ということは、少なくとも完全な幽霊ではない。
(彼女?)は心の中でメモする。ペンはあるのに、メモ帳がないのが惜しい。手紙は今が使い時では無い気がする。
マンションのロビーを抜けると、外の空気は少しだけ街の匂いがする。アスファルト、駐輪場の自転車、遠いパン屋。
(彼女?)は歩き出す。
巨大な建物の影がにゅるーんと伸びる。平日の昼過ぎ、という時間の流れに、(彼女?)は逆らわない。流れに乗るでもない。ただ、横を歩く。
すると、不思議なことが起きる。
(彼女?)は、世界の些細なものがよく見えてきた。
お日様の粒子、信号が変わる前の、ほんの一瞬の静止。植木の葉の裏側の色。ベビーカーの車輪が段差を越えるときの呼吸。
「なんだか世界って単純なんだなー」
(彼女?)は真剣に思う。ほんとうに単純と.......
ふと、前を歩く人が小さな紙袋を落とす。落とした本人は気づかない。
(彼女?)は拾って、追いかけて、渡す。
「あの、落ちてました。」
声が出る。普通の声。少し可憐な声。性格に似合わないと自分で思う。
少しだけ息が弾む。
相手は驚いて、すぐに頭を下げる。
「ありがとうございます!助かりました!」
その瞬間、(彼女?)の胸の内がふわっと膨らむ。
なんかー.......“生きてる感じ”!!
「怒りも恨みもないと、こういうのだけが残るんだ。」
(彼女?)は自分で自分に感心する。世の中には、いろんな感情がある。もちろん、それが悪いわけじゃない。だけど今の(彼女?)は、感情の棚卸しを終えたみたいに軽い。
「でも、これ、怖いくらい軽いな。」
と、思ってみる。怖くないから、そう言ってみただけだ。
高級住宅街に入ると、音が減る。塀の高さが増え、庭木がよく手入れされ、空が少しだけ狭くなる。
犬が吠える。すぐに静かになる。
花壇の花は、屋上の花畑より“整っている”。名前札が付いている。
(彼女?)は立ち止まって、その札を読む。
「名前がある花、いいな。」
(彼女?)は笑う。
「私、名前ないけど。」
落ち込まない。ただ、事実を口に出してみる。
人は、名前がないと不安になることが多い。(彼女?)も、そうなるはずだと知っている気がする。なのに、ならない。
「……天使説、まだ生きてる。」
(彼女?)は自分の仮説に一票入れる。
小さな公園のベンチに座る。春の午後は、座るだけで成立する。
ポケットからペンを出す。尻のポケットから無記入の手紙を出す。
紙は、少しだけ花の匂いがする。あるいは、(彼女?)の匂いが花に似ているのかもしれない。
「宛先は……。」
(彼女?)は少しだけ迷う。迷っても、不安にならない。
そして、こう書く。
あなたへ。
たぶん、今これを読んでいるあなたは、
私と同じ午後を歩いた人ですよね?見てくれてましたか?
花の匂いがあって、
建物はただそこにあって
みんなは忙しくて
世界はなんとなく単純です
私は名前がありません。
けれど、怒りも恨みもありません。
不明なことは、たくさんあります。
天使かもしれないし、幽霊かもしれないし、
ただの記憶喪失かもしれないし、
いま生まれたのかもしれません。
でも、どれでもいい気がしています。
“今日の私”は、ここで息をして、
風が気持ちよくて、お日様がきもちよくって
たまに自分にツッコミを入れられます。
それだけで、充分だと分かる午後でした。
書いている間、(彼女?)はずっと軽い。
書き終えると、ペンをポケットに戻す。手紙を折る。宛名はあなたへ。署名は私。
「……よし。これで、届くはず。」
根拠はない。けれど、根拠がないことに、今日は救われている。
(彼女?)はベンチの端、花壇の影が落ちるところに、手紙をそっと置く。
立ち上がって、歩き出す。
振り返らない。
春の午後は、振り返らないほうが美しいと、なぜか知っている。
曲がり角をひとつ。影がひとつ。美しい茶色の髪が、光に紛れる。
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それきり、(彼女?)は街の中に溶ける。
しばらくして、ナズナが公園に来た。
ベンチのそばで立ち止まり、花壇の影に気づく。
紙。
ナズナは拾い上げる。指先に、微かな匂いが移る。屋上の花の匂いに似ている。あるいは、もっと別の、名前のない匂い。
封はない。宛名は.......あなたへ。少し字が.....汚い
ナズナは一行目から読みだす。
「...........」
喉の奥が少しだけ鳴る。
ナズナは手紙を折り直し、自分のノートに挟む。
そして、何も解決しないまま、空を見上げる。
屋上のほうから、風が降りてくる。
花の匂いが、一瞬だけ濃くなって、すぐに薄まる。
平日の昼過ぎは、やることが一杯だ。
そんな中で、たしかに“誰かの午後”だけが、観測として残った。
「面白い子だね........ふふ」




