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ナズナ、湯煙にほどけて

1|到着──静かな温泉街


デバイスをポケットに仕舞い込み、ナズナは夜の温泉街に足を踏み入れた。




瓦屋根に行灯が灯る。路地裏には湯けむりが静かに揺れていた。遠くにある老舗旅館の赤提灯、石畳を打つ小さな水音、どこからか微かに漂う炙り魚の香ばしい匂い。




「……悪くない。たまには、こういうのも」




彼女はひとりごとのように呟いて、薄く笑った。




通りを歩くと、地元の小さな駄菓子屋や、湯上がり専用の牛乳スタンド、柳が風に揺れる足湯処が並んでいた。観光地にありがちな喧噪は一切ない。すべてが、時間ごと静かに熟成された空間だった。




道沿いには古い硝子戸の土産物屋があり、棚には手描きの湯のみや手拭いが並んでいる。揚げたての温泉まんじゅう屋からは、あんこの香りがふわりと流れてきた。




細い裏路地に入れば、宿と宿の間を縫うように流れる小川に、木の橋が渡されている。橋の欄干には風鈴が吊るされ、かすかに鳴る音が夜気に溶けていく。




ナズナは少し立ち止まり、飴細工の屋台で飴を買った。「これ、一晩持つかな」と呟きながら、すこしだけ微笑んだ。




やがて石畳を抜けた先に、今夜の宿が見えてくる。




2|宿──和の静けさに包まれて


宿は古民家を丁寧に改装したものだった。太い梁、磨き上げられた縁側、障子越しの月明かり。玄関をくぐると、ほのかに檜と米麹の匂いが混じる香りが漂ってきた。




女将が丁寧に案内し、部屋には温かい湯呑と、干し柿が添えられていた。




「今夜は地元の川魚と山菜を中心にお支度いたします。お口に合えば嬉しゅうございます」




ナズナは軽く会釈しながら部屋に通され、窓辺に腰掛け、襖を半分だけ開ける。




そこには、自然が息づく音があった。風の音。虫の声。遠くから響く川の音。




「……五感を研ぎ澄ますと、生きてるって実感するわね」




部屋の卓上には、小さな竹の一輪挿し。月見草がひとつ、静かに揺れていた。




3|湯──心と体のリセット


静かな内湯に、白く柔らかな湯気が立ち込める。




ナズナはそっとタオルを脇に置き、湯に身を沈める。




肩まで浸かると、時間の流れが変わるようだった。皮膚を滑る湯の感触、鼻腔に届く硫黄の香り、耳に響く湯の滴る音。




壁にかかる木札には、「源泉かけ流し・効能:神経疲労、目の疲れ、情報過多」と書かれていた。情報過多に思わずくすりと笑いがこぼれる。




湯船の縁に肘を置いて、彼女はただ、空を見上げた。星の位置が、わずかに冬の夜空を予告していた。




4|食──静けさの中の満足


夕餉は、ひとつひとつが丁寧に仕立てられていた。




前菜は、蕪と柿の白和え、小さな器に盛られた胡麻豆腐、銀杏の素揚げ。火を通しすぎていない茸のおひたしが、香り高く湯気を立てている。




鍋には地元の川魚“あまご”と、季節の山菜。柚子が一片浮かべられ、ほんのりとした香りが広がる。




ナズナは箸を進めながら、口に入れるたびに何かがほどけていくのを感じていた。




「……これ、ほんとうにいい」




釜炊きの白米と赤出汁、香の物。デザートに出された栗の渋皮煮が、とろけるように甘く、口の中に秋の終わりを告げていた。




食後に出された濃い煎茶を一口。彼女は静かに深呼吸した。




5|眠──ひとときの無防備


食後、ナズナは浴衣姿で畳に足を投げ出した。




卓には、地酒と梅の香る羊羹。




夜の帳が降りる中、彼女は布団に身を横たえる。




脳内には誰の声もない。通知もない。解析すべきデータもない。




ただ、微かに軋む木造の音と、月の気配。




「……また明日、事件は来る。でも今夜だけは、“ただの私”でいても、いいわよね」




襖の隙間から差し込む月光が、畳を淡く照らしていた。ナズナは静かに、まぶたを閉じた。

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