Intervention
ワルツが終わり、アルフレッド王子はエマの手を取り、丁寧にキスをした。その瞬間、彼の視線に込められた熱が、エマの指先から全身に伝わり、彼女の心臓を痺れさせた。
「あなたの名前を聞かせてもらえないか? 私には、あなたの名前が必要だ」
王子は、真剣な眼差しでエマを見つめた。エマは、思わず本名を口にしようとして、寸前で思い留まった。名を明かせば、身分も明らかになり、この魔法は解けてしまう。
「私は……ただ、イブニング・フラワーとお呼びください」
エマは、その場限りの、曖昧な偽名を囁いた。野に咲く花にちなんだ名だ。
王子は、その名に少し戸惑いを見せたが、すぐに微笑んだ。
「イブニング・フラワー。わかった。私も、君が誰であるか、この広間の中で静かに探し出そう」
その時だった。二人の間に、冷たい、しかし圧倒的な香りが割り込んできた。それは、豪奢なバラの香水。
「アルフレッド様」
エリザベス公爵令嬢が、静かに、しかし有無を言わせない存在感を伴って、二人の傍らに立っていた。彼女の深紅のドレスは、周りの色をすべて吸い尽くすかのように鮮やかだった。彼女の登場により、周囲の貴族たちは一斉に沈黙し、場の空気が張り詰めた。
「次のダンスは、私とお約束のはずでした」
エリザベスの声は、完璧に訓練された淑女のそれだった。しかし、その声の底には、アルフレッドが自分以外の女性に、しかも正体不明の女性に心を奪われていることに対する、微かな動揺と焦りが隠されているのを、エマは感じ取った。
「失礼した、エリザベス」
王子はそう言い、エリザベスに手を差し伸べた。彼は義務を果たすため、彼女の隣へ戻らなければならない。その一瞬の別れが、エマの胸を鋭く刺した。
エリザベスは、王子がフロアに戻るのを見届けた後、冷たい視線をエマに向けた。その瞳は、完璧な淑女の笑顔とは裏腹に、エマを値踏みし、選別するような鋭さを持っていた。
「初めてお見かけする方ね」
エリザベスは、口元だけを微笑ませた。
「どなたの娘さん? そのようなシンプルな銀色のドレスは、この舞踏会ではなかなか見かけませんもの」
『シンプル』。それは、豪奢ではない、取るに足らない、という皮肉を込めた、静かな攻撃だった。
エマは、身分を明かせないため、言葉に詰まった。
「あの…」
「よろしい。貴族社会の慣習に慣れていないご様子ね」
エリザベスは、エマがつけているマーガレットのコサージュに一瞬視線を走らせた。
「美しい花だけれど、野花を髪に飾るのは、いささか大胆なセンスだわ。アルフレッド様は、ああいう珍しいものに、つい興味を引かれがちなの。子供の頃からね」
彼女は、エマが王子を魅了したのは「野花」という珍しさであり、エマ自身の魅力ではない、と暗に伝えていた。それは冷たいが、人を陥れる悪意に満ちたものではなかった。むしろ、「王子の隣にふさわしいのは、野花のような一時の気まぐれではなく、完璧な私であるべきだ」という、地位と義務に囚われた女性の悲壮なまでの信念が滲んでいた。
「わたくしは、アルフレッド様の婚約者、エリザベス・ローゼンベルク公爵令嬢よ。どうぞ、あなたの立ち位置を理解して、節度ある振る舞いを」
そう言い残すと、エリザベスは踵を返し、王子とのダンスのために広間へ戻っていった。彼女の背中は、まるで鉄の鎧をまとったように隙がなかった。
エマは、その場に立ち尽くした。エリザベスが言ったことは、すべて真実だ。自分はここにいるべきではない。彼女の言う通り、王子の一時の気まぐれに過ぎないのかもしれない。
しかし、その瞬間、エマの胸に、マリーの言葉と、野花を摘んだ時の純粋な思いが蘇った。
(私は、彼に嘘をついていない。私は野に咲く花だ。そして、彼は、その香りを嗅ぎ分けてくれた。エリザベス様は、完璧なバラかもしれないけれど、その完璧さは、彼女を自由から縛りつけている檻でもあるはずだ)
エマは、エリザベスへの畏怖よりも、むしろ彼女の完璧さの裏にある、重圧に同情にも似た感情を抱いた。ライバルは、憎むべき悪役ではなく、王室の義務という同じ檻の中で苦しむ、もう一人の女性なのかもしれない。
エマは、エリザベスの冷たい警告にも屈せず、舞踏会の中に留まることを決意した。王子の寂しい瞳の真実を、もっと知るために。




