Waltz
宮殿の大広間は、まさに「バラの温室」だった。天井から吊るされた巨大なシャンデリアが、数千の炎を反射させ、公爵令嬢や侯爵夫人の豪奢な宝石や絹のドレスに光を浴びせていた。熱気、高価な香水の香り、そしてとめどないおしゃべりのざわめき。エマは、入口近くの影に身を潜めながら、この圧倒的な世界に眩暈を覚えた。
彼女は、銀色のドレスが浮いていないか不安でたまらなかったが、マリーが用意してくれたレースの扇で顔を半分隠し、必死に平静を装った。
そして、そこに、いた。
広間の奥、一段高い場所に、本日の主役であるアルフレッド王子が立っていた。彼の隣には、予想通り、深紅のドレスをまとったエリザベス公爵令嬢。彼女は完璧な笑顔で、王子に何かを語りかけている。その姿は、まるで宮廷の風景画の一部のように、絵になりすぎていた。
(ああ、エリザベス様。本当に、非の打ち所がない…)
エマは、自己卑下にも似た感情を抱いたが、すぐにマリーの言葉を思い出した。
「あなたは特別な『野の花』なの」
彼女は顔を上げ、広間を見渡した。そして、その瞬間、アルフレッド王子がふと、広間全体を見渡すように視線を走らせた。その視線が、一瞬、エマのいる隅へと向けられる。
(気づいていない。彼は私だと気づいていない!)
エマは安堵したが、同時に深く傷ついた。あれほど心を交わしたつもりでいたのに、変装すれば、彼は自分を見失うのだ。
しかし、王子の視線はすぐに他の貴族に向けられたが、彼は何かに引っかかったように、もう一度、エマの方を向いた。
彼の深い青の瞳が、エマの顔ではなく、彼女の髪に飾られた白いマーガレットに、そして銀色のドレスのラインに、何かを探るように向けられた。彼は、エマの全体的な印象――豪華絢爛なバラの中に、意図的に配置された、純粋な静寂のような気配――に興味を引かれたようだった。
やがて、オーケストラの演奏が変わり、情熱的なワルツの旋律が広間を満たした。次々と貴族たちがフロアへと繰り出す中、アルフレッド王子は、エリザベス令嬢と儀礼的な言葉を交わした後、何の前触れもなく、エマの方へ向かって歩き始めた。
(まさか…)
エマは心臓が口から飛び出しそうになるのを感じた。
彼はまっすぐエマの前に立ち止まった。
「失礼。今宵、この広間に咲く中で、あなたは最も静かな光を放っている」
王子は、そう言って手を差し出した。
「その静けさが、私には必要だ。一曲、私にお時間をいただけないでしょうか?」
彼は、エマの顔をじっと見つめているが、野原で出会ったエマだとは、やはり確信していない様子だった。
エマは、声が出なかった。全身が熱く震えた。彼女は小さくうなずき、震える指先を、彼の手のひらに乗せた。
王子の手は、大きく温かかった。
フロアの中央へ。二人の体が触れ合った瞬間、熱が伝わり、エマの周りのすべての音と光が遠のいた。
ワルツは始まった。エマは作法など完璧には学んでいなかったが、彼のリードは力強く、正確だった。彼に身を任せ、優雅に回転するたびに、銀色のドレスが月の光のように翻る。
「美しい」
アルフレッド王子が、エマの耳元で囁いた。
「ありがとうございます…」
「あなたのドレスではない。あなたの瞳だ」
彼はワルツのリズムを刻みながら、エマの琥珀色の瞳の奥を覗き込んだ。
「貴婦人たちは皆、自分の地位と財産を飾っているが、あなたは違う。あなたは、何か大切な秘密を抱えているようだ」
エマはドキリとした。彼は、彼女の「変装」の奥にある、彼女の本質を見抜こうとしている。
「秘密など…何も」
エマは必死で否定した。
「そうか?」
王子は、一瞬だけ寂しそうな微笑みを浮かべた。
「私は、華やかな世界よりも、静かな秘密を好む。そして、あなたは…あの日の野原の香りがする」
彼の最後の言葉は、まるで電流のようにエマの体を貫いた。
あの日の野原の香り。それは、彼女の髪飾りのマーガレットが、彼女の持つ自然の純粋さの香りが、彼に届いているということだ。彼は、彼女の身分ではなく、彼女の心が発する気配を、嗅ぎ分けているのだ。
彼がエマを抱きしめるように回転するたび、二人の距離は物理的にも感情的にも近づいていった。彼が本当に求めているのは、義務としての「バラ」ではない。心を許せる「野の花」のような存在なのだ。
ワルツが終わり、二人が離れる瞬間、彼の指先がエマの掌に触れ、何かを訴えるように優しく圧力をかけた。
この一曲のワルツが、身分違いの二人の間に、消すことのできないロマンティックな炎を点火した。舞踏会の熱狂は、彼らにとって、二人だけの秘密の空間となったのだ。




