Inciting Incident
アルフレッド王子は、馬上からエマをじっと見つめていた。彼の表情は、狩りの獲物を見つけた時のような冷徹さではなく、むしろ予期せぬ宝物を発見したような、静かな驚きに満ちていた。
エマの心臓は、うるさいほどに脈打っていた。雑誌で見て憧れていた、あの憧れの人が、今、目の前にいる。しかし、彼がなぜこんな人里離れた場所にいるのか、という疑問以上に、この身なりで彼に見られているという羞恥心が勝った。
「失礼。道に迷ってしまったようだ」
アルフレッド王子が静かに口を開いた。彼の声は、野原の静けさを破ることなく、しかし凛とした響きを持っていた。
「ここは…フランクリン伯爵領の森の端だ。王都へは、この道をまっすぐ行けば大きな街道に出るはずだ」
エマは俯きがちに答えた。視線を上げるのが恐ろしかった。もし彼の目が、自分の色褪せた服や、土のついた手に向けられたらと思うと、いたたまれなかった。彼にとっては、自分はただの取るに足らない、農民の娘に見えるだろう。
「そうか、ありがとう」
王子は馬の手綱を少し緩めた。彼の視線は、再びエマが抱えるバスケットの中の野花に注がれた。
「美しい花々だ。だが、温室で見るバラとは随分違う」
エマは思わず顔を上げた。王子の瞳は、彼女の野花を、軽蔑でも好奇心でもなく、純粋な興味をもって見ていた。
「これらは…野に咲く花です。華やかさはありませんが、誰の手も借りずに、自力で咲いていますから」
彼女は、反射的に野花を擁護する言葉を口にしていた。それは、彼女自身の存在証明のように感じられた。バラのように完璧でなくても、自分にも価値がある、と。
王子は、その答えに微かに口元を緩めた。その微笑みは、雑誌の写真で見たどの笑顔よりも優しく、エマの胸の奥をそっと撫でるようだった。
「誰の手も借りずに、か。……それは、羨ましい生き方かもしれぬ」
彼の言葉には、どこか寂しさが混じっていた。義務と期待に縛られた、王族としての重圧が滲んでいるようにエマには感じられた。この瞬間、彼女は彼の高貴な身分ではなく、一人の青年としての本質を垣間見た気がした。
「あなたは…この辺りに住んでいるのか?」
王子が尋ねた。エマは一瞬言葉に詰まった。下級貴族の娘だと正直に答えるべきか。しかし、身分を明かせば、この幻想的な出会いが、すぐに現実の壁にぶつかって終わってしまう気がした。
「ええ、この近くです。ただの…一住民です」
曖昧な返答に留めたエマに対し、王子はそれ以上詮索しなかった。その配慮が、エマの心を温めた。
彼は馬から降り、エマの傍らに歩み寄った。少し屈み込み、彼女のバスケットの中の、特に鮮やかな紫色の野花を指さした。
「この花の名は?」
「……タツナミソウです。波が打ち寄せるような形をしているから、そう呼ばれます」
「タツナミソウ……波か。いい名だ」
王子は、その小さな花を傷つけないよう、指先でそっと撫でた。その仕草一つにも、彼が自然を、そして素朴なものを尊重する心を持っていることが見て取れた。華美なものを求める世間の目とは違う、彼の真の感性がそこにあった。
二人の間に、短い、しかし濃密な沈黙が流れた。風が吹き抜け、タツナミソウの香りがほんのりと漂う。エマは、この沈黙が永遠に続けばいいと願った。身分も地位も関係なく、ただ野花を通じて心を通わせている、この奇跡のような瞬間が。
やがて、王子は静かに立ち上がった。
「感謝する。道案内も、そして、この美しい花々を見せてくれたことにも」
彼は再び馬に乗り、エマに深く一礼した。その仕草は、どんな貴族よりも優雅だった。
「では、また」
王子は、馬首を街道の方向へと向け、駆け去っていった。その金の髪が朝日にきらめき、彼の背中が森の木々に消えていくまで、エマは一歩も動けなかった。
(また……?)
彼は、ただの社交辞令でそう言ったのだろうか。それとも、この偶然の出会いが、彼の心にも何かを残したのだろうか。
エマは、心臓がまだ激しく高鳴っているのを感じながら、彼の立ち去った後の空虚な野原を見つめた。手元のバスケットの野花が、先ほどよりもずっと鮮やかに見えた。
この出会いは、彼女の人生の歯車を、静かに、しかし確実に回し始めていた。




