Climax
週末、王室の婚約発表会は、宮殿の最も荘厳な「バラの間」で行われた。部屋は、その名の通り、世界中から集められたバラで埋め尽くされ、金銀の調度品と、貴族たちの宝石の輝きで、昼のように明るかった。
エマは、マリーの機転で、会場の二階にある使用人用の通路の影、小さな覗き窓から、その光景を見ていた。彼女は、王子の決意を揺るがせてはならないと、王子の前に姿を現さないことを固く誓っていたが、彼の最後の選択を見届ける義務があると感じていた。
一段高い玉座の間に、国王夫妻が座り、その中央には、アルフレッド王子とエリザベス公爵令嬢が立っている。
エリザベスは、まさに紅のバラの頂点だった。深紅のドレスは完璧に彼女の威厳を際立たせ、その表情は王子の隣に立つ未来の王妃として、一分の隙もなかった。彼女の隣に立つアルフレッド王子も、騎士の制服に身を包み、威風堂々としている。
しかし、エマは、遠くからでも、彼の青い瞳の奥に、激しい決意の炎が燃えているのを見た。それは、義務の光ではなく、愛の情熱の光だった。
国王が、婚約の承認の言葉を述べようと、咳払いをしたその瞬間。
アルフレッド王子は、静かに、しかし、広間の全員の心臓を止めるような、明確な声で話し始めた。
「父上、母上、そして本日お集まりいただいた全ての皆様。本日は、この婚約を正式に発表し、国の未来を確固たるものとする日のはずでした」
広間には、ざわめきが広がった。彼のトーンは、儀礼的なものではなかった。
「しかし、私は、ここで、一つの真実を告白しなければなりません」
王子は、深呼吸をした。
「私は、王室としての義務と、一人の人間としての愛の間で、激しく揺れました。そして、愛する人を失いそうになった時、私は悟ったのです。国民を真に愛する義務は、己の魂が真に求める愛の成就の上にこそあるのだと」
エリザベスの完璧な笑顔が、初めて、微かに凍りついた。
「エリザベス公爵令嬢」
王子は、婚約者の方を向き、まっすぐその目を見つめた。
「君は、この国が求める、完璧な王妃だ。知性、地位、美しさ。全てにおいて、君に優る女性はいない。私は、君の献身に心から感謝している。だが、君への感情は、愛ではなく、尊敬と義務だ」
王子は、壇上から一歩踏み出した。
「よって、私は、本日、この場をもって、エリザベス公爵令嬢との婚約を、破棄させていただきます」
広間は、爆発したような騒ぎに包まれた。国王夫妻は青ざめ、貴族たちは怒りと驚愕に満ちた声を上げた。
その喧騒の中で、エマは、涙を流しながら、アルフレッド王子の勇気を讃えた。彼は、彼女の愛を守るために、すべてを投げ打ったのだ。
王子は、貴族たちの怒りの声に臆することなく、話し続けた。
「私が愛するのは、地位や完璧さではなく、野に咲く花の純粋さ、そして、偽りなく私を愛し、私の魂を救ってくれる女性です」
王子は、懐から、押し花にしたタツナミソウを取り出した。
「私は、野花が持つ、自力で咲く強さと、飾らない美しさを愛する。その女性は、今、この広間のどこかにいる。彼女は、私の未来を案じ、自ら身を引こうとした。だが、私の義務は、彼女の愛を受け止めることだ!」
その告白を聞き、エマは胸を押さえた。彼の愛は、本物だった。
そして、広間の人々の視線が、愕然としたエリザベス公爵令嬢に集まる中、驚くべきことが起こった。
エリザベスは、一瞬、激しいショックで口元を覆った。しかし、すぐに、彼女は、涙を浮かべながらも、静かに、そして毅然として微笑んだ。
「アルフレッド様」
エリザベスの声は、静かだったが、広間の喧騒を鎮めた。
「あなたは、私が子供の頃から、その地位にふさわしい完璧な女性であろうと、私を縛りつけていた重圧から、私を解放してくれました」
彼女は、王子に近づき、彼の手を優しく握り、そして静かに離した。
「わたくしは、あなた様を愛しておりました。しかし、それは、王子の地位と、王妃になるという義務を含めた愛でした。私自身も、完璧であろうとするあまり、自分の本当の心を見失っていたのかもしれません」
彼女は、広間の貴族たちに向き直り、公爵令嬢としての最後の威厳を見せた。
「アルフレッド王子殿下の決断は、真実の愛に基づくものです。わたくしは、この婚約の破棄を受け入れます。そして、心から、殿下と、殿下が選ばれた『野に咲く花』の幸福を願います」
エリザベスの最後の言葉は、憎しみではなく、むしろ友情に似た温かさを含んでいた。彼女は、王子の重圧を理解していたからこそ、真実の愛を選んだ彼を、心から祝福できたのだ。彼女は、王子の真の幸福を願う「良きライバル」として、舞台から去ることを選んだ。
エリザベスの潔い退場により、騒ぎは収束に向かい始めた。
そして、アルフレッド王子は、覗き窓の影にいるエマを、まるで最初から知っていたかのように見つめた。彼は、強く、優しく、語りかけた。
「イブニング・フラワー。私の愛を、どうか受け入れてほしい」
エマは、涙を拭い、静かに、そして決意を持って、覗き窓から離れた。今こそ、彼女が、彼の愛に応える時だ。




