The Rock Bottom
王室からの警告を受けた夜、エマは一睡もできなかった。窓の外は嵐が吹き荒れており、まるで彼女の心の葛藤を映しているようだった。
「アルフレッド様の傍にいたい」
それはエマの純粋な願いだった。しかし、彼女の愛が、彼の王子の地位を、彼の国民に対する義務を、そしてこの国の安定を脅かすのなら、その愛は毒でしかない。エリザベス公爵令嬢の冷たい言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
『あなたの立ち位置を理解して、節度ある振る舞いを。』
エマは決意した。彼の未来を守るために、自分が身を引くこと。それが、今、彼女がアルフレッド王子にしてあげられる、唯一にして最高の愛の形だと。
親友のマリーは、エマの決意を聞き、泣きながら反対した。
「馬鹿よ、エマ! なぜよ? あんなに愛し合っているのに! 王子様は、あなたのために全てを捨てる覚悟を決めているわ!」
「それがいけないの、マリー」
エマは、冷たい決意の光を瞳に宿していた。
「彼は、王族としての義務を捨てるべきではないわ。彼の父君や、国民は彼を必要としている。私が彼を縛りつける檻になってはいけないの。彼の本当の幸せは、国の安定の上に築かれるべきよ」
マリーは言葉を失った。エマの愛は、自己犠牲という、最も痛ましく、最も気高い形をとっていた。
そして、エマはアルフレッド王子に、最後の別れの手紙を書いた。手紙ではなく、最後の再会を願い出たのは、直接、彼の瞳を見て、決意を伝える必要があったからだ。
最後の密会は、二人が初めて出会った、あの野原だった。空は灰色に曇り、野花は風に晒され、震えていた。
アルフレッド王子は、希望と不安が入り混じった顔でエマを待っていた。彼の手には、エマの愛したタツナミソウが握られていた。
「イブニング・フラワー。君が、私に何かを告げるためにここへ来たことは分かっている。次の週末の発表会で、私は君を選ぶ。私は王室の全てを捨ててでも、君と共に生きる」
王子は、そう言ってエマの手を取ろうとしたが、エマは一歩引いた。
「アルフレッド様、私は…ここでお別れを言いに来ました」
王子の顔から、一瞬にして血の気が引いた。
「何を言っているんだ。君は…私を愛しているのだろう?」
「ええ、愛しています」
エマは、その一言を絞り出すのがやっとだった。
「でも、私は、あなたの重圧を理解できませんでした。私のような身分違いの女が、王子の隣に立つなんて、一時の気の迷いに過ぎなかったと、今、気づきました」
それは、愛ゆえの、残酷な嘘だった。彼の将来を守るため、彼に自分を諦めさせるための、最後の手段。
「エリザベス様は、あなたにふさわしい方です。完璧で、あなたを支えられる方。私は…あなたの人生を、足枷にしたくない」
王子の瞳は、みるみるうちに絶望の色に染まっていった。彼の手から、タツナミソウがハラハラと地面に落ちた。
「嘘だ。君の瞳は、嘘をついていない。君は私を愛している。君は、私を守ろうとしているだけだ」
「違います!」
エマは、震える声で強く否定した。
「私は、野に咲く花のように、自由に生きたいだけ。あなたの重圧は、私には耐えられません。さようなら、アルフレッド様。あなたは、あなたの義務を果たしてください」
エマは、それ以上言葉を続けることができなかった。一秒でも長くここにいれば、彼女の決意が崩れてしまう。彼女は背を向け、泣きながら走り出した。
アルフレッド王子は、その場に立ち尽くしていた。愛する人が、自分の未来のために、自らを犠牲にし、別れを告げたのだ。彼は、エマを追いかけることができなかった。なぜなら、彼女の言葉が、王族としての彼の弱点である「義務」を突いていたからだ。
彼は、愛する人を失うという、人生最大の痛みに直面した。そして、この激しい痛みが、彼にとって、義務よりも愛が、いかに重要であるかを、決定的に悟らせた瞬間となった。
エマの去った後、王子は冷たい地面に落ちた、タツナミソウの花を、崩れるように拾い上げた。
(違う。私の義務は、国民を愛すること。そして、私の魂を救ってくれる君を、誰よりも深く愛することだ。君を失うことが、この国を失うことよりも恐ろしい)
彼は、婚約発表会という、運命の舞台で、自らの愛を貫くという、最後の決意を固めた。




