Introduction
エマが住む村は、王都から遠く離れた、古い伯爵領の端にあった。森と、なだらかな丘に囲まれたその土地は、宮廷のきらびやかさとは無縁の、静謐な空気に満ちていた。朝露がまだ残る薄紫色の空の下、エマはいつものように、裏庭の先に広がる野原へと足を踏み入れた。
彼女の着ているのは、仕立ての良いドレスでも、流行の最先端の服でもない。くすんだ若草色の、簡素なワンピース。しかし、彼女の身のこなしは軽やかで、一歩一歩がまるで草原を駆ける鹿のように優雅だった。
エマの目は、常に足元に集中していた。彼女が探しているのは、豪奢な温室で育てられた、完璧な形をしたバラではない。
「ああ、なんて健気なの」
彼女はそっと膝をつき、露に濡れた小さな花に語りかけた。それは、薄い藤色のベルベットのような花弁を持つ、名も知らぬ野花だった。背丈は低く、人目を引く派手さもない。だが、その花は、強い風や激しい雨にも耐え、自らの居場所で精一杯、鮮やかな色を主張していた。
エマは、その野花が自分自身のように思えた。
彼女は下級貴族の、さらに末席に連なる貧しい家の娘だ。父は病弱で、母はいつも家計の心配をしている。宮廷のパーティーや舞踏会など、夢のまた夢。彼女が知っている世界は、この静かな野原と、古い教会の鐘の音だけだった。
「きっと、王都の姫君たちは、私たちがこうして地べたに這いつくばって花を摘むなんて想像もしないわ」
彼女はそっと息を吐いた。野花の隣には、朝日に照らされてダイヤモンドのように光る蜘蛛の巣があった。その美しさは、どんな宝石細工にも劣らない。
エマは、華やかな世界に憧れがないわけではなかった。むしろ、強く憧れていた。
時折、行商人が運んでくる古びた雑誌には、王都の社交界の様子が描かれていた。アルフレッド王子――彼の顔が、その紙面の中央で輝いていた。明るい金の髪、空の色を閉じ込めたような深い青の瞳。そして、国民の安寧を願う、優しくも凛とした横顔。
(ああ、アルフレッド王子様……)
彼の婚約者が、公爵令嬢のエリザベスであることは、誰もが知っている事実だった。エリザベス令嬢は、王都の「咲き誇る紅のバラ」と称される、すべてにおいて完璧な女性だ。知性、美貌、地位。何もかもが、エマのような「野に咲く小さな雑草」には手が届かない、天上の存在だった。
「私があの場に行くことは、一生ないわ」
エマは、摘み取った野花を丁寧にバスケットに並べながら、諦めにも似た寂しさを感じた。身分という見えない檻が、彼女をこの静かな場所に閉じ込めている。
だが、彼女の心の中には、一つの小さな疑問が常に渦巻いていた。
――アルフレッド王子は、本当にあの完璧なバラを心から愛しているのだろうか?
彼女の想像する王子は、いつもどこか寂しげだった。義務と責任に押しつぶされそうになりながら、それでも気高く振る舞っている。まるで、煌びやかな金細工の檻の中で、自由に空を飛びたいと願う鳥のように。
エマは立ち上がり、清々しい野原の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。土と草と、摘んだばかりの野花の、混じり合った清らかな香りが、彼女の肺を満たす。
「よし。これで、母様のテーブルが少し明るくなるわ」
彼女は現実を直視し、目の前の小さな幸せに感謝することを忘れない。身分は低くても、彼女の心は誰よりも豊かだった。
エマは、バスケットを手に家へと戻るため、振り返った。その時だった。
野原の向こう、木々の影から、馬の蹄の音が聞こえてきた。そして、迷い込んだように現れたのは、一人の、見慣れない青年だった。彼は乗馬服を着ており、その姿は明らかにこの村の住人ではない。その、端正で気品溢れる顔立ちを見た瞬間、エマの心臓は激しく高鳴った。
――まるで、雑誌から抜け出してきたみたいに。
彼こそが、彼女が毎晩夢見ていた、あのアルフレッド王子だった。
王子は彼女の存在に気づき、馬を止めた。そして、その深い青の瞳が、エマが手に抱える素朴な野花のバスケットに向けられた瞬間、二人の運命は静かに、しかし決定的に動き始めたのだ。




