「自由」とは「率先して何かを失う選択」をすること
◇「自由」だが実は「失っている」
筆者:
本エッセイを選んでいただきありがとうございます。
今回は「自由」について個人的な考えを述べていこうと思います。
早速ですが、「自由」と聞くとどんなことを想像されますか?
質問者:
そうですねぇ……羽が生えて飛び回るとか? そんな感じですかね。
筆者:
そのような拘束されていた束縛から解放されたり、自身の好きに出来ることなどポジティブなイメージが「自由」の第一印象だと思います。
ただ、僕は実はそうは思っていません。
「自由」というのは「自ら率先」して「対価」や「代償」を支払っていると考えます。
質問者:
え……自由なのに対価や代償を支払ってるって全く意味不明なんですけど……。
筆者:
では逆に「自由」の対義語である「束縛」「義務」「強制」とは何か? について考えてみますが、
「他者から強要されていること」であり、あまり選択肢がないことだと思います。
僕はこの点において「自由」というだけであり、「対価」を支払っている事には変わりがないと思います。
質問者:
そう言われても全く意味が分からないんですけど……。
筆者:
例を挙げましょう。テストが近づいているとします。
しかし、今日はゲームの発売日でテストとは無関係な人たちは盛り上がっていて、初日から始めるとポイントが高く、自分もそれに参加したいと思うとします。
そんな時に「自由」であれば「テスト勉強をする」か「ゲームを買って遊ぶか」の選択肢を選べるということです。
テスト勉強をすれば成績は上がる可能性は高いですが、ゲームをすることは出来ません。
かたやゲームを買いに行けばその分勉強をできないので成績が落ちる可能性は高いです。
このように、「自由」だったとしても「自分のやりたいことと」と「やらなくてはいけないこと」との間の板挟み状態であり、どちらかを取ればどちらかが倒れるリスクがあるのです。
質問者:
確かに「ちょっとだけ」と思っても、ずっとやってしまってテスト勉強ができなくなるとかあり得ますからね……。
筆者:
そうですね。「両取り」を目指そうとすると「二兎を追う者は一兎をも得ず」みたいな状態になりかねないので、ある程度どちらかに振り切らないといけないでしょう。
これが「自由における対価」であると考えます。
もっとも、世の中の事柄はここまでわかりやすく二者択一ということはないかもしれません。
しかし、何かを選び取っているつもりでも何かを代わりに失っていることには変わりないと思います。
質問者:
でも、いわゆる「上級国民」の方というのは極少数ながらも元から地位もお金もあるので、何も失わないのではないでしょうか?
普通レベルの有名な方ですと「有名税」みたいな「私生活を失ってしまう」みたいなことがあるのは分かりますけど……。
筆者:
確かに究極レベルの上級国民は一般人よりは失うものは少ないと思います。
ですが、どんなにお金持ちであったとしても「寿命」に関しては限界があります。
寿命を対価として選択しているという意味では変わらないと思います。
そのために支払うコストが
時間(寿命)
体力
精神の余力
欲望(3大欲求など)
不安の許容量
将来の安定
社会的信用
人間関係
自己評価
など、これらはお金ではありませんが「対価」として支払って自由を得ているのです。
質問者:
確かに、SNSなど熱中し過ぎて例え無料だったとしても「時間を無駄にした」という気持ちになることはありますものね……。
結婚と独身、それぞれのメリットとデメリットが相反していることだってありますし……。
筆者:
そういうことです。
そんな中で「自由」というのは「どれを対価にするのか率先して決断」していることだと思っています。
特に重大な決断をする際には何を失っているのか整理し、選択した際のプラスとその際のマイナスを総合的に判断することが非常に重要だと思います。
この場合、選択の代償だけでなく、選択しなかった場合の将来の代償を理解することが非常に大事になってくるでしょう。
時に選択肢しないことでマイナスになることもありますからね(例えばインフレで預金が目減りするなど)。
「お前のためにこうすべきだ」という権威(国家・共同体・教義)が、「良いことをしているつもり」で仕掛けてくるのでそれに惑わされないことも大事だと思います。
質問者:
確かに、「世間では〇〇だから」とか「何歳までに〇〇」などと押し付けてくることありますよね……。
筆者:
それらは、せいぜい参考にするぐらいで良いと思います。ただ、考え方が固まり過ぎても良くないので、時と場合によって是々非々で判断する形が良いですね。
選択の仕方は人それぞれの価値観次第だと思いますので先ほど挙げた内容のうちどれを重視するのか考えていただければと思います。
質問者:
得ていると同時に失っているというのはある意味当然かもしれませんが、言われてみて驚きでした……。
筆者:
ただ、失うことを怖がっても仕方がないので、しっかり考えた上で「選択したことを後悔しないこと」が非常に大事だと思います。
どのみち選択してもしなくても何かを失っていることには変わりないですからね。
例え結果的に間違いだったとしても「あの時は、その時なりにしっかり考えたんだから仕方ないね」と割り切って、教訓にしつつ未来を見据えることが大事だと思います。
質問者:
無料だとしても「寿命」を支払っているんですよね……。
筆者:
その感覚は大事です。
このサイトは広告は最近になって増えましたが、基本的には利用者側に具体的な費用負担を伴うわけではありません。
しかし、「時間(寿命)」を対価に読まれていることは間違いないと思うので、
無駄にしないようなコンテンツを発信していきたいですね。
◇「強制されない自由」でも「責任」は伴う
質問者:
少なくとも筆者さんの「自由」とは「対価をどれにするかの選択」をしていることにおいて「自由」であることは、おおよそ分かりました。
誰にも縛られない状況というのはこうなると良いことなのでしょうか?
筆者:
それは選択した「自由の内容次第」だと思います。
生きている上で自分一人で完結するということは現代社会においてまず無いと思います。
電気ガス水道などのインフラ、食料や衣料などだって他者に依存しているわけです。
そうなると、自由に選択しているように見えたとしてもやはり「他人に迷惑をかけない」これが絶対的な条件だと思います。
自分以外の他の方だって「自由に対価を選ぶ権利」というのはありますし、人権もありますからね。
質問者:
確かに身勝手な生き方をして他の方に迷惑をかけるということはあってはいけませんね……。
筆者:
「自由」というのは決断することにおいて他者から介入を受けないということですが、
逆を意味すれば決断に対して「責任」が非常に重くなるということも意味すると思います。
20世紀のフランスの哲学者サルトルは「自由には絶対的な孤独と責任」が伴っているために「自由の刑」とまで表現しています。
質問者:
今回のお話から「自由に生きる」って結構深くて大変なことなのかもしれないと思いました……。
筆者:
とはいえ、誰かに依存したり誰かに考えることを委託することは人間として果たしてどうなのかな? 生きていると言えるのかな? という風には思います。
一番最初だけ大変に思うかもしれませんが、僕はこういった感覚をずっと持っていますので、そんなに苦痛ではない感じです。
皆さんは「自由」についてどう考えましたでしょうか? ご意見ご感想をお待ちしております。




