さいごのバックハグ
冷え切ったドライアイスのツンとした匂いが肺を焼く。さっきから天井に立ち昇っている煙と、冷え切った空気とで、すでに私の鼻腔はおかしくなりかけていた。
初デートの日にも持っていった黒のエルメスのバッグが、垂直に落ちたことも忘れ、私は一歩、また一歩と、"彼"に歩み寄る。真冬の理科室みたいな匂いが、いっそう濃くなる。
端正な顔を覆う布切れは、まるで無垢な花嫁を彩るヴェールみたい。その、苛烈とも言える奇妙な美しさは、どこか現実離れしていて、私に束の間の夢すら与えてくれる。
いまだ震えの治まらない指先で、彼を覆う布をゆっくりと外した。悲鳴を上げそうになるのを、必死で堪える。この、血色のまるでない陶器の頬に、私はかつてキスをしたことがあっただろうか。
「どうして、どうしてあなたが……っ」
死ななければならなかったのーー続く言葉を、私は喉の奥に押し込めた。
『やっぱり、次は動物園がいいですね。君によく似たレッサーパンダを紹介しますよ』
人より潔癖症のはずの彼が、恋人である私に譲歩したとはいえ、そんなことを提案してくれるとは夢にも思わなかった。
思い出しただけで、頬を伝う、いやに渇いた涙が彼の遺骸に滴り落ちてゆく。彼と交わした最期のやり取りが、次のデートの行き先についてだなんて、あんまりだ。「また今度」なんてありきたりな言葉、私たちが口にすることは永遠に許されないのに。
ふるふると揺れる蝋燭の灯りが、二重になって遠くに見えた。
生前、諜報組織の一員として何十ヶ国語に及ぶ通訳から要人警護に至るまでを易々とこなしていた彼からしてみれば、私の相手なんてほんの少しのお戯れ、些末なものに過ぎなかったのだろう。
結局、平々凡々な一般人OLである私が、エリート街道まっしぐらの彼に勝てたことなど、ただの一度もなかった。
(ここだ! えいっ)
私は今日も懲りずに、彼の背中めがけて無駄な一撃を繰り出している真っ最中だった。
「……右斜め上、といったところでしょうか?」
反射的に、慌てて手刀を引っ込めた。本から目を離さず、彼が気怠げにそう言ったから。
「ど、どうして分かったんですか? 私、声に出してないのに」
「舐めてもらっては困ります。毎日毎日、伊達に危険な仕事をしていませんから」
ため息まじりに告げる彼に、不満を感じなかったといえば嘘になるけど。私も私で、だ。
「あ、そっか。そうですよね……えへへ……」
久しぶりに会えたというのに、彼女そっちのけで読書に夢中になる彼にちょっと構ってほしかったからって、まるで小学生男子みたいな程度の低い行動に、胸が羞恥でいっぱいになる。
「まぁ」と、彼は読んでいた本をパタリと閉じ、おもむろにソファから立ち上がった。
「それを差し引いても、同棲している可愛い彼女の気配くらい、すぐに察知できそうなものですが」
「へっ?」
突然の惚気に、耳の先まで赤くなったのが自分でもよく分かった。彼はそのままくるりと身体を翻して、ダンスにでも誘うかのように私の腰を抱き寄せた。慣れた手つきだ、と思う暇もなかった。
「さすがに、君からの精一杯のお誘いにも気づけないほど、僕は鈍感な男じゃありませんよ」
「お、お誘いって……!」
一心に注がれる熱っぽい視線。からかわないでください、と押し返そうにも、細身の彼のどこにそんな強い力が込められているのか、結局私は逃がしてもらえなかった。
「背後から奇襲を仕掛けてくるあたり、なんとも愛らしい……」
知っていますか?と、彼の声には隠し切れない微笑が含まれている。
「レッサーパンダは威嚇する時、ちょうどそんなふうに両手を上げてみせるんですって」
言われてから気づいたけど、それこそハグされ待ちの小動物だ。もはや、彼の甘い囁きにおとなしく降参するしか、私に道は用意されていなかったようだった。
「……でも、このままじゃ、いつまで経っても私からバッ……クハグ、できないじゃないですか」
何を血迷ったか、ぱくぱくと、か細い声が口から洩れていった。目と目が合った時、案の定というか、彼は人を食ったような笑みを唇の端まで浮かべていた。
「こっちのほうが収まりがいいでしょう? ほら、君の間抜けな顔も拝めますし」
スウェット越しに感じる熱が、鼓動が、金木犀の香りが。それらが、私たちの当たり前になるーーはずだった。
だけど今、ただひたすら伝わってくるのは、鉄のように冷たいステンレス台の感触だけ。
ああ、結局。
「何から何まで、真逆だったんですね。わたしたち……」
皮肉なことに、私が彼をバックハグできたのは、これが最初で最後だった。