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海辺に腰掛けて

 一人の老人が海辺に埋まった石に腰掛けていた。

 その石は、老人が子供の頃からあった。半分ほどは砂に埋もれているがもう半分は顔を出している。露出している部分は平たくなっていて、座るのに好都合だった。

 老人は石に腰掛けて、海を見ていた。もう三十分ほど、海を眺め続けていた。周囲には人はいなかった。駅からは遠く、サーフィンや海水浴をする人達はそこから五キロほど離れた砂浜に集っていた。地元民だけが知る隠れた場所だった。

 老人の名前は佐伯耕助といった。佐伯の側には、黄色いリュックサックが置いてあった。

 それは彼が中学生の時から使っているリュックで、頑丈な素材でできているらしく、全体的にくたびれた感じではあったがまだ使えるものだった。

 佐伯は海を見ながら、決心を固めている最中だった。…いや、もうすでに決心は固まっていた。彼はただ「時」を待っているだけだった。

 …思えば、はじめてここに座った時から、今こうしてここに座っている自分が、こういう行為を取る事はすでに定まっている気がする。

 佐伯はそんな事を考えた。

 彼がはじめてこの石に腰掛けたのは小学生だった。あれから六十一年の歳月が過ぎた。歳月はまるで一瞬の風雨のように過ぎ去っていった。

 佐伯が今感じているのは、小学生の時にこの石に腰掛けている自分が、白髪だらけの老いた自分へと変化するその歳月というのは、ほんの刹那であり、そしてその刹那には一体何の意味も感じられないという事だった。

 時の重みは、彼の体をすり抜けていった。彼は足元の砂を拾い、サラサラとした手触りを手のひらで感じてみた。

 砂は手の間からこぼれ落ちた。

 (小学生の頃もこんな事をしたな)

 彼は過去の自分を思い出してみた。ところが、それもまた手のひらからこぼれ落ちる砂と同じく、何の意味もない事柄だと彼は痛感していた。

 

 ※

 佐伯が海辺の石を見つけたのは彼が小学生の時だった。

 彼の実家はそこから五キロほどの所にあった。佐伯は海の側で育った。

 小学生の佐伯は、どこかへ出かけようと考えた。それは退屈な日曜日だった。そこで彼は彼なりの冒険を思いついた。

 『海に向かってひたすら真っ直ぐに道を進もう』

 彼が考えたのはそれだけだった。

 海の近くで育った彼にとっては海そのものは珍しいものでも美しいものでもなかった。何かの移動時にふと目に入る事はよくあった。

 ただ、彼はテレビで、インタビューを受けていたある人物が「はじめて海を見た時感動した」と話しているのを聞いた。彼はそれを聞いて(海に感動する人がいるんだ)と思った。

 彼はそこから海に向かって真っ直ぐ道を進むという小冒険を思いついた。もっともそれはすぐに終わる冒険のはずだった。

 佐伯は自転車に乗って、真っ直ぐに道を進んだ。海の方向は前もって地図で確認していた。

 途中何度か道を折れたが、最後にはきちんと海にたどり着いた。遠くから聞こえる海の音が便りになった。

 6月だったが、肌寒かった。にもかかわらず日は照っていて、どこか奇妙な天候だった。

 海に着いた佐伯は自転車を止め、砂浜に足を踏み入れた。

 佐伯が最初に感じたのは人の少なさだった。砂浜にはたいてい、サーファーや海水浴客がいるものだが、そうした人は見当たらなかった。

 砂浜は半円状になっていて、両翼が海に突き出していた。砂浜に降りていく部分には高い段差があり、段差の手前は広い駐車場になっていた。砂浜に降りると、高低差もあって、陸側の人の視界に入る事はほとんどなかった。

 佐伯は一目見てその場所が気にいった。そこは彼にとって秘密基地のように思えた。

 佐伯は砂浜を歩いた。シャリシャリという濡れた砂を踏む音がする。潮騒は鳴り続けていた。海を見ると、遠くに巡視船が見えた。船はもし近くにあったら途方もなく大きいだろう、と佐伯は考えた。

 歩いているうちに見つけたのが、砂浜に半分ほど埋もれている大きな石だった。黒みがかった石で、座るのにちょうど良かった。

 佐伯は石に座った。海を見つめた。そうしているうちに彼は、自分という人間が今の時代、今の社会、今のこの世界に生きている存在ではないもののように思えてきた。彼はもっと大きな悠久の時間の中を漂っている時間的存在なのだ…そんな気がしてきた。

 彼は一時間ほど海を見つめた。耳の中には潮騒の音が響いていた。その日はそれで帰った。

 

 ※

 その日をきっかけとして、彼は人生のうちで何度か、その秘境のような砂浜にやってきて、石に座り、海を見つめた。

 彼は人生を通して、幸か不幸か、自分が生まれ育った町を遠く離れなかった。彼はそこで暮らし、そこで生きた。だから人生のところどころでその砂浜にやってくるのに不都合はなかった。

 彼の人生は平凡なものだった。高校を出て、大学を出て、会社に就職し、そこを二年で辞めた。そのタイミングで実家から二駅離れたところで一人暮らしをはじめた。別の会社に就職した。彼はそこで知り合った同じ年の女性と結婚した。三十歳の時だった。

 

 佐伯の全人生をつぶさに語る必要はないだろう。それはありきたりなものだからだ。…もっとも、語らなければならない事件がひとつだけある。

 それは、ごく平凡な人にやってくるにはあまりにも過酷な事件ではあった。とはいえ、多くの人々は単に偶然の作用によって、そうした運命の一撃に出会っていないにすぎない。それは誰にでも起こり得る。

 

 それは彼が五十三歳の時に起こった。彼は結婚しており、娘が一人いた。名前は結衣だった。結衣は十八歳、高校生だった。

 佐伯は結衣を溺愛している、と言ってもよかった。もっとも、彼は昔風の人間だったので結衣に対する愛情を直接表すような事はほとんどしなかった。ただ、彼は血を分けた自分の子供が可愛くて仕方ない、そういう人並みの感情も持っていた。

 事件というのは結衣が交通事故で死んだ事だった。学校からの帰り際だった。八十歳の男が軽トラックを運転していて、ブレーキ痕もなく、歩いていた女子高生に後ろから突っ込んだ。

 現場はゆるいカーブだったが、見通しが悪いという事もなかった。ただ、ガードレールがなかった。

 結衣は後ろからトラックに追突されて、背骨が折れ、腰骨も折れて、体がぐしゃぐしゃになって死んだ。唯一の救いともいえたのは彼女が即死だった事だ。

 結衣を轢いた男はその場で車を降りて、人が来るまでその場でぼうっとした。彼が心底の悪人であったなら、佐伯も彼を憎む事ができただろうし、その憎しみもまた生き甲斐のひとつになっただろうが、残念ながらそこにいたのはごく普通の老人だった。

 その男は近所での評判も悪くなかった。ただ痴呆が入ってきて周囲から心配されていたものの、これほどの大事件を起こすとは誰も予想していなかった。しかし男は霞のかかった意識のまま、ブレーキを踏む事もなく十八歳の体に鉄の塊を時速六十キロで思い切りぶつけた。

 男はほどなく逮捕された。佐伯は事件の知らせを職場で聞いた。電話がかかってきて、同僚が彼に電話を渡した。

 「警察からだって」

 同僚はうつむきながら受話器を佐伯に渡した。佐伯は受話器を耳に当てた。

 「佐伯さんですか? 佐伯結衣さんのお父さんでよろしいですか?」

 「はい、そうです」

 「結衣さんが事故にあいました。今すぐ来てください」

 相手の口調から、事は深刻だと佐伯は直感した。

 そこから何があったのか、今となっては佐伯はあまり覚えていない。

 そのあたりから記憶は欠落していた。全体の記憶はあまりにも不鮮明だった。…かと思うと、全くどうでもいい些細な事柄が、記憶の切れ端として脳の中で再生されたりした。

 それは例えば、結衣がいなくなった部屋のドアを閉める時にふと(あの勉強机はあいつがおねだりしてうるさいから買ってやったんだったな)と考えた事だ。結衣の部屋には女の子らしくぬいぐるみが沢山置いてあった。(そういえばあいつに彼氏がいるのかどうか、聞くのが怖かったけれどこれでもう永久に聞く機会はなくなったな…) 彼はある日にそう考えた。だがそう考えたのが、結衣が死んでから一年後だったのか、五年後だったのか、自分でもはっきりとしなかった。

 

 結衣が死んでから、色々な事があった。轢いた男から謝罪の手紙が来た。マスコミからの敬意を欠いた取材への憤慨。そして、妻の明日香が少しづつ狂っていった。

 明日香は、娘の死にショックを受けて、心を閉ざすようになった。彼女は娘の死が受け入れられない様子で、時には娘はどこかで生きていると言い張ったが、その一方では娘がもう死んでいる事もわかっているようで、それはその時々でまちまちだった。

 明日香は時間が経つほどに精神が狂っていった。佐伯は明日香への対応で手一杯だった。佐伯は、明日香をなだめたり、説き伏せたりしたが、我慢ならない時には押し飛ばした事もあった。明日香の方は佐伯に対して包丁を持ち出して脅す事もあった。翌日に佐伯は家中の包丁を捨ててしまった。

 佐伯が何より辛かったのは、明日香が「あなたには人の心がないのよ」となじる事だった。それは狂人の戯言と否定するのも可能だったが、佐伯にはどこか真実を含んでいるようにも感じた。 

 「あなたには人の心がないのよ。…昔からそうだった。あなたはいつも冷たかった。あなたはいつもそうだった。何を見ても、何をしても、何も感じない。あなたは、あなたなんかね…そもそも生きていないの。この世を生きていないの。あなたは生きているフリをしているだけ。…いっつもそう。人に合わせて、生きているフリをしているだけ。踊っているフリをするけれど、心の中では何も感じていないし、思ってもいない。結衣の事だってなんとも思ってないでしょ? あなたの部屋には結衣の物がひとつもないじゃない! …あなたが結衣を殺したも同然よ。あなたには人の心がない。あなたは悲しむ事ができないし、そもそも人じゃない。葬式の日だって、あなたは一度も泣かなかったわよね。あの日、結衣がいなくなった日もあなたは泣かなかった。あなたは雑誌を読んでいた。私は覚えているわ。あなたは結衣がいなくなった日に雑誌を読んでいたのよ! このひとでなし!」

 明日香の言う事には一理あった。それに、佐伯は実際、結衣が死んだ日に雑誌をめくって読んだのだった。もっとも、それは何もしていないと気が狂いそうだったので、何かないかと手近の雑誌を手にとって眺めただけだったが、それが明日香には許すまじき行為に見えた。

 佐伯は心の中では深い悲しみを抱いてたが、そういう悲しみを表に出すのは格好悪いという、昔風の教育を受けてきたので、彼はあの日も泣かなかった。葬式の日も泣かなかった。それが明日香の怒りを呼び起こす原因となった。

 裁判の進行と明日香の狂気の進捗は歩を合わせていた。佐伯は仕事をやめて妻の面倒と、裁判と、それが日々の全てとなった。あの怒涛のような日々の中で彼はほとんど眠れなかった。「ここが地獄なのか」とトイレでポツリと呟いた事もある。

 佐伯は、裁判にある種の期待を抱いていた。それは我が子を殺した畜生をこの目で見られるという事だった。佐伯は渾身の憎しみを抱いて裁判に出向いた。

 被告席に被告は座っていた。佐伯は憎しみの視線を向けたが、そこにはしょんぼりとした老人の男が座っていただけだった。男はうつむいていて、目が合わなかった。

 

 仮に神がいて、殺人という行為、その罪の重さと、その罪を重ねた人間に対する罰ーー要するに人間が裁可するような罪と罰という計量が、神の導きによって常に等価であったなら、人はいかに深刻な事件だとしても、それほどの理不尽を感じなかっただろう。

 そしておそらくは裁判という制度それ自体も、罪と罰が等しく釣り合うというようなフィクションを作り上げ、この世界の理不尽を少しでも軽減しようとする、そうした人間の営みの一種なのだろう。

 だが佐伯が裁判を通じて感じた事は、このしょぼくれた爺さんを縛り首にして、拷問したところで娘は返ってこないし、そんな事では何の満足も生まれないだろう、という事だった。

 佐伯ははじめは老ドライバーにできるだけ厳しい刑罰を与えるのが願望だった。その意志を事前に検察に伝えていた。

 しかし老ドライバーの陳述などを聞くと、まったくこの平凡な人物が、ただ不注意で、はっきりしない意識のまま車を運転していたのが全ての元凶だというのがわかってきた。また、老人のまわりの家族もいかにも申し訳無さそうにしていたのも佐伯にとっては印象的だった。

 ただ佐伯は求められた意見陳述の際には「できるだけ重い量刑をのぞみます」とはっきり言った。彼は自分が娘を失った悲しみについても語った。その口ぶりにはいくぶんか真実が込められていたが、佐伯は誰にも同情されたくなかったので、彼は心の真実が表に出そうになると口をつぐみ、いつもの冷静な口ぶりを取り戻した。大衆やメディアの好む役者になるのは御免だった。

 佐伯が「重い量刑をのぞむ」と言ったのは、明日香へ配慮が大きかった。佐伯自身は今からこの老人を縛り首にしてほしいなどとは思っていなかったが、そう言わなければ、明日香が怒り狂うのが目に見えていたからだった。

 明日香も意見陳述をした。彼女は唐突な話をしたが、途中で泣き崩れて、検察官に抱え込まれて傍聴席に戻ってきた。結果としては明日香が泣き崩れた事が、その場にもっとも強い印象を残した。

 

 老人は四年の懲役を言い渡された。佐伯はそれを受け入れた。判決が出る頃には、明日香は狂気を進行させていた。彼女は佐伯に控訴を促すような事はなかった。

 それとは別で民事裁判の方も進んでいたが、こちらでは相応の賠償金を得る事で話は決まった。もっともそこで得た金は、佐伯が妻を介護するのに費やされた。

 

 それから後の日々は地獄のようだった。佐伯は狂っていく妻の介護をした。佐伯は仕事をやめて介護に専念した。つききっきりでなければ何が起こるかわからない状況だった。明日香はそうした日々の中で、狂気を進行させていった。

 佐伯が隣でみていて気づいたのは、明日香がまるで子供に戻っていくような、そんな様子だったところだ。(まるで子供の駄々だ)佐伯はそんな事を何度も考えた。

 明日香の精神を狂わせたのは、娘が死んだという厳格な事実だった。それは現実だった。佐伯はそれを重たい現実として目をつむって感受したが、明日香にはそれは不可能なようだった。

 佐伯にとって不思議だったのは時折、明日香が結衣の死を知っているように感じる事だった。彼女を殺したのはあなただろう、となじってくる事もあった。あるいは正気に戻ったようにみえる瞬間には、あなたにこんな迷惑をかけて心の底から申し訳ないと思っていると言って、泣き出したりした。

 しかしまた別の時には、明日香は、あなたは結衣を隠しているんだろう、どこに隠しているんだ!と怒鳴りつけたてきたり、結衣が高校から帰ってくるから迎えに行ったほうがいいだろうか、と真剣に佐伯に相談したりした。

 佐伯には明日香の精神がわからなかった。事実と妄想が入り乱れて、本当は結衣が死んだ事を知っているのか、それとも結衣は生きていると本気で信じ込んでいるのか。佐伯の目には明日香の精神は複雑すぎた。

 ただ、そうした日々の中でも、明日香が子供に還っていくのはたしかなようだった。

 

 ある日の事だった。それはよく晴れた春の一日だった。

 結衣が死んでからは地獄のような日々が続いていたが、佐伯の中ではその日一日はとりわけ印象的だった。

 その日は佐伯が明日香の髪を切る日だった。結衣が亡くなって何年かした頃から、明日香の髪を切るのは佐伯の仕事になっていた。以前は明日香一人で美容院に行っていたのだが、美容院から電話がかかってきて、明日香の奇行についての苦情を伝えられ、それからは佐伯が髪を切る事になった。

 佐伯一家が住んでいたのは郊外の一軒家だった。古い一軒家で借家だったが、大家と顔をあわせた事はほとんどなかった。

 昔の日本風の家屋で、縁側と小さな庭があった。駅からは遠かったが、佐伯は縁側に日が当たっている様子に感銘を受けて、そこに引っ越す事にした。

 髪を切る日はカレンダーに「明日香 髪」と小さく書いていた。昼過ぎ、佐伯はいつものように明日香を縁側の庭の椅子に座らせた。散髪用のケープを着せた。ケープは胸のあたりで反り返っていて、切った髪がそこに集まるようになっていた。

 その日、明日香はいつもより大人しかった。「明日香、今日は髪を切るよ」と佐伯が声をかけると明日香は「はあい」と言って自発的に庭に出た。

 佐伯は庭に椅子を出した。明日香が椅子に座る。ケープを着せると、佐伯は明日香の髪を霧吹きで濡らしてから、髪を切り出した。

 「だいぶ伸びたなあ」

 佐伯はもうすっかり慣れた手付きで髪を切っていった。明日香は自分で髪の手入れができないので、佐伯は短めに切っていた。

 「…今日だったわね」

 明日香がぽつりと言った。「うん」 佐伯は何の事かわからなかったが相槌を打った。

 「ねえ、今日だったわよね?」

 「え? …ああ」

 「今日みたいな日だったわよね。あなたと最初に会ったのは」

 「………」

 「覚えてる?」

 「ああ…もちろん」

 「もちろん、覚えてるわよね。…あなたは一つ下で新人として入ってきた。そうよね? ねえ、あの時のあなたは素敵だったわ。今と違って。若かったし、今みたいに年を取っていなかった。…そりゃそうね。ところで入社式、覚えている? どこかの小さな体育館でやったわよね。私は手伝いで出席していた。あの時、あなたと目があったのよ。私が椅子を並べている時に。あなたは緊張していて、早めに出てきたのよ。その時に目があった」

 「そうだったかな」

 「…あなたは何も覚えてないのね。ほんとにいつも何も覚えてない。あなたもしかして結衣も忘れてない?」

 「…覚えてるよ」

 「それにしても、あなたはあの頃若かったわ。あなたはキラキラしていた。今じゃ、どうでしょう? こんなおじいさんになって。私の髪なんか切って。ねえ、あなた、あの日は桜が咲いてたのよ」

 「…うん、咲いてた」

 「あなたは桜の樹の間に立っていて、私、こんなに素敵な人がいるんだって驚いたのよ。そうよ、その時に私達ははじめて会ったの。はじめて会ったのよ! あの日、あの日には全てがあったわ! 全てがあったの! 輝かしい全てがね! あの日は、あの日は祝福されていたのよ! あなたと会ったあの日は!」

 「………」

 「それが…どうしてこうなったんでしょう? あなたは結婚してから日に日におちぶれるし。今はもうこんなおじさんよ。あなた、白髪だらけよ。てっぺんは禿げてきたし。どうしてそんななの?」

 「…どうしてだろう?」

 「ねえ、あの日、結衣が消えた日、あなたは職場からなかなか帰ってこなかったのよ。わかってる?」

 「…うん」

 「私はすぐに駆けつけたのに、あなたは仕事でぐずぐずして、それで結衣は手術ができなかったの。それで…消えちゃったの。もうすぐ戻ってくるけど」

 「戻ってくる?」

 佐伯は手を止めた。明日香が首を横に振ったからだ。

 「ああ、あなたはいつもそればっかり。昔は良かったのに。あなたは…昔のあなたはそれはそれはかっこよかったわ。それが今じゃ…あの子も…きっと…きっと………」

 明日香は手で顔を覆いしくしくと泣き出した。佐伯は待った。

 「でもきっとあの子は帰ってくるんでしょうね?」

 散髪が再開された。明日香はうつむいていた。散髪はもうすぐ終わりそうだった。

 佐伯は、なんとなしに塀の外を見た。うららかな春の日だ。(ああ、俺はこんな日に何をしているんだろう?)と彼は考えた。(今日もまた狂女の世話か…しかしそれも人生か…)

 「うん、帰ってくるよ」

 「帰ってくるわよね? ほんとに?」

 「ああ、今は学校に行っているだけさ。帰ってくるよ」

 「…あなたは本当はいつも頼りになったわよ」

 明日香が頭を揺らした。佐伯は手を止めた。

 「ごめんなさいね、いつも文句ばかりで、ほんとに…結衣は…帰ってくるわよね…ほんとに…ごめんなさいね…文句ばかりで…」

 明日香はすすり泣きをはじめた。佐伯は、また待たなければならなかった。

 

 ※

 それから後、明日香の狂気は進行して、精神病院に入る事になった。

 明日香の妄想は進行していった。明日香が死んだのは佐伯が髪を切ったその日から二年が過ぎた頃だった。

 自殺だった。精神病院の個室で、隠し持っていた紐で首を吊ったのだった。

 明日香は短い遺書を残していった。そこには

 「もうだれもせめたくはない」

 とひらがなで書いてあった。彼女は死ぬ寸前には正気に戻ったものと、文面からは考える他なかった。

 佐伯は一月に二回ほど面会に行っていた。面会には制限があった。たいてい、行くたびになじられた。「結衣はどこに行ったの?」「結衣を隠してるんでしょう?」といういつもの嫌疑から、過去の日常生活についての問題点を取り上げて、何度も繰り返し佐伯を責めたりした。

 明日香が死んだという報を受け取った時、佐伯の中に安堵の気持ちが起こったのは事実だった。彼はあとから振り返ってその事を罪深いと感じたが、しかしやっと荷が降りたという気持ちがしたのもまた確かだった。

 娘が死に、妻が死んで、佐伯がひとりぼっちになった時、彼は五十七歳だった。

 人生をやり直す、とまで行かなくても、再婚ぐらいはまだできたかもしれないが、その時の彼はもう自分の中のエネルギーを全て出し尽くした気がしていた。彼の見た目も明らかに年齢以上のものになっていた。佐伯は、人生をもう一度始める力が自身に残されていないように感じていた。

 

 それから後の年月を彼は映画のエピローグのようなものと感じていた。これが映画であったならば、娘が死に、妻が死んだところで作品は終わっていなければならない。

 エンドロールが流れ感動的な音楽が流れ、カメラは緩やかに引いていく。やがてカメラは街全体を映し出す。もうしょぼくれた中年男を映してはいない。彼が主人公である時間は終わったのだ。

 …本来ならば自分は自殺しなければならないだろう、と彼は考えた。(これが映画ならば俺が自殺してやっと作品は幕を閉じる)。あるいは、別の答えとしては、彼が別の誰かと出会い、再婚を考えるとか、海外に行って慈善活動に身を投じるとか、そうした人生の「希望」がなければならないだろう。

 だが、現実はいずれでもなかった。佐伯は我が身ながらその優柔不断に苦笑いを浮かべた。(なんなんだ、これは) 彼は死にもせず、何かを始める事もなく、ただぼんやりと生きていた。もう生きている事の意味が何なのか全くわかっていないのに。

 エンドロールが流れた後もなにかの手違いで、カメラはかつて主人公だった中年男を映し続けている。男は苦笑いを浮かべ、頭を掻くが、何をするわけでもない。観客と演者の間にきまずい時間が流れる。

 そんな生が続いていた。佐伯は何をするでもなかった。明日香が亡くなった後、一年の間、何もしなかった。インターネットで映画を片っ端から見てみたが、それで何かを得たり賢くなるわけではなかった。

 一年が経つと、貯金がつきてきた。明日香の介護で、賠償金はほとんど使っていた。

 (働かないとな)と佐伯は考えた。彼は近所の工場で働き始めた。荷物の仕分けのアルバイトだった。

 佐伯に仕事の指導をしたのは、二十の若者だった。彼は世間によくいる小物の類で、いい年をしてアルバイトとして新人で働き出した佐伯を頭から馬鹿にしていた。若者はいつも何かの自慢をしたがった。そのたびに佐伯は

 「それはいいですね」

 と薄い笑いを浮かべた。若者はおべっかを言われるたび、満足げな表情を浮かべた。

 

 佐伯はひとりになっていた。結衣が死に、明日香が死んで、ひとりになった。

 別にそこで自殺してもよかったはずだが、自殺しなかった。かといって、新しく人生をやり直す気も起こらず、ただ惰性で、自らの生を存続させていくだけだった。

 ひとりになると佐伯に考える時間が生まれた。これまでは考える時間はあまりなかった。結衣が亡くなった後は明日香の介護で忙しかったからだ。

 彼の頭が回ったのは、眠れない夜だった。加齢と共に寝付けない日が増えた。若い頃には思ってもみなかったが、心地よく寝るという当たり前の事ですら、若さ故の特権だった。

 布団に横たわり、彼は考えてみた。これまで考える余裕のなかった事を考えてみた。

 考えるという事は彼には不思議な事実に思えた。まるで客観的な世界が存在せず、ただ自分の意識が大きな宇宙と直接繋がっている、そんな感覚だった。彼はその形而上的な空間の中で、考えてみた。

 佐伯にとっての疑問は人生の意味だった。

 (どうして俺は生きているのだろう? もう全てを失ったのに。生きている意味はないのに? どうしてだろう? どうして?)

 考えても答えは出なかった。彼は自分がなにかの手違いでこの世に生き残ってしまった気がした。死んだ妻は、死ぬ事によって彼を非難しているようにも感じた。

 「どうしてあなたはのうのうと生きているの? 狂いもせず、死にもせず。あなたは結衣が亡くなったのに、冷静なのね。いつものように。あなたには心がないんだわ」

 …佐伯はそんな妻の架空の非難の声を聞いた。だが、考え直してみても、仮に自分が死んだところで、それが誠実さの証明になると思われなかった。

 とはいえ、生きる事が解決になるかというとそうでもない。

 佐伯にはわからなかった。生きる意味をまったく見いだせないのに、彼はただ生きていた。彼は問いを発するばかりだった。

 (なぜだろう? なぜなんだろう?)

 思考の声は意識の宇宙をさまよったが、どんな明快な答えも降ってこなかった。

 

 ※

 時が過ぎた。十年以上の月日が流れていた。

 彼はアルバイトを転々とした。六十代になってからはアルバイトの仕事につくのも大変になっていた。なんとか頼み込んで置いてもらった事もある。

 佐伯は六十五で年金を受取る事にした。ほそぼそと生活していけばなんとか生きられる程度の金額だった。

 とはいえ佐伯の頭から疑念は尽きなかった。

 それは「この生はなんだろう? この生の意味はなんだろう?」というものだった。

 生きる意味がわからなかった。生まれた意味がわからなかった。結衣は消えて、明日香も消えた。生きる材料がなかった。

 にもかかわらず生きていた。それは佐伯にとって奇妙な事だった。

 彼は自分に何度も問いかけてみた。

 「お前はそんなに生きたいのか?」

 遠くから返ってくる答えは「いいえ」だった。だが

 「お前はいますぐ死にたいのか?」

 という問いに対しても答えは「いいえ」と返ってきた。

 彼にはわからなかった。そんな宙ぶらりんの中で彼は十年以上の月日を送った。

 

 ※

 佐伯は今、海辺の石に座っていた。彼はもう七十の齢を越えていた。

 彼はこの石に何度か腰掛けた。小学生のあの日。結衣が死んだ後。明日香が死んだ後。なんとなく彼は人生の時間を整理する為にこの場所に来ていた。

 そこで茫洋とたゆたう海の姿を見て、自分のちっぽけさを思った。自らに降り掛かった人生の苦難は、良くも悪くも、巨大な自然現象の中ではほんの一刹那の些事にすぎないとその時々に思いなしてきた。それは彼に小さな癒やしを与えた。

 今はもう何も失うものがない一人の老人として彼はここに来ていた。

 彼が若い頃は七十を過ぎた老人にはそれなりの貫禄があり、それなりの人生経験・叡智があって、一人の人間として様々な事をやり遂げ、そうしてそれくらいの年になるとゆっくりと自分の身仕舞いをする、そういう存在だろうと漠然と考えていた。

 ところが今ここにいるのはすべてを奪われて、人生に何一つ価値あるものを見いだせなかった一人の老人だった。

 彼はもう苦笑する事もできなかった。そういえばここ数年、大きく笑った事はない気がする。

 (最後に笑ってみるか?)

 考えたが、わざと笑うのもバカバカしくて笑えなかった。彼の顔は風雨の痕が刻み込まれた石のように皺だらけだった。

 

 彼は海を見ていた。一時間が経った。体が冷えてくるのを感じた。

 (寒いな)

 彼はまわりを見渡した。人は見えない。周囲に人がいる心配はないだろう。

 (そろそろはじめないとな)

 彼は太陽を見た。太陽は彼がやってきた時と場所を変えていた。

 (太陽の回転のスピードは思ったよりも早い。子供のときにもそう考えた事があったっけな)

 彼は立ち上がった。寒くて体が動かなくなって、実行が不可能になるのは避けたかった。

 

 思えば、もう十分に生きてきた気がした。佐伯は考える。

 (もういいよな、もう十分だよな)

 終わりのない小説のエピローグにも終わりをつけなければならない。

 (いつかはこの苦しみにも、俺の苦しみや、明日香や結衣の苦しみにも、何かの意味がつけられるのだろうか? いつか報われる、とまで行かなくても、それがなにかの"たし"になったりするのだろうか? そんな事があるだろうか? いつか、"ここ”ではないどこかの場所で、それらになにかの意味がもたらされる…そんに事があるだろうか? そんな事があれば…きっと…いや、きっとそうあればいいが………)

 彼は立ち上がった。なんとなしに空を見た。

 (太陽は明日も今日と変わらず回るんだろうなあ…間抜けな事だ。…いや、間抜けなのは俺か…)

 彼は足元のリュックに手をかけた。リュックは思ったよりも重たく感じた。

 (いいや、海まで引きずっていこう)

 彼はやたらに重いリュックを片手でひきずりながら歩いた。前方には満ち引きする海があった。

 

 死は怖くなかった。というより、もうすでに彼は自身が「死」そのものになっているような気がしていた。生よりも死の方が親しかった。

 あとはうまく死ねるか、という問題だった。その為に彼はリュックにダンベルを詰めて持ってきたのだった。

 (さて、ここから海に入るぞ…)

 リュックを引きずりながら進むと、足先が海に触れた。波が寄せてきていた。スニーカーの合間から海水が染み込んできた。

 (思ったよりも暖かい。太陽の熱で温まっているのか…)

 彼はここに何度か来た事があるが、海水に触れた事はなかった。

 (海…あらゆる生命はみんなここから来たんだ…そこに還って何が悪い…)

 膝頭まで水に浸かった。彼はふと、ポケットに財布が入っている事を思い出した。無意識的にポケットから財布を取り出そうとしたが、途中で手を止めた。彼は苦笑した。

 (今更、金が濡れたってどうなる? クレジットカードが死ぬ前に濡れるのが嫌か? なんとも滑稽な…死ねば全て同じなのに…)

 そのあたりから佐伯は前進するのを難しく感じた。ここからは強い決意と力で前進していかなければならない。彼は服を着てきたのを後悔しはじめていた。服が前進を困難にする。

 

 佐伯は苦労してリュックを抱えた。リュックの中のダンベルが重すぎたので半分に減らした。普通に背負うと後ろに重心を取られるので、前に荷がくるようにした。それだけするのに十分かかった。水の中で動くと体力が一気に吸い取られた。

 (これじゃあ死ぬ前に死んじゃいそうだな)

 空を見上げるとトンビが飛んでいた。彼は子供の頃にトンビに菓子パンを取られた事を思い出した。

 (よし、いこう…)

 彼は進んでいった。強い決意で。体がずぶずぶと濡れていき、前進するのが難しくなっていった。歩いていくうちに、急に足元から地面が消えた。一瞬抗おうとしたが、すぐにやめて体を前に預けた。リュックが彼を引っ張って、彼は海の中に落ちていった。

 

 目を開けると、上から差してくる光と海の青とが視界の中でちらちらと揺れ動いた。

 体が冷たく、手足の感覚がなかった。腕や足の付根の感覚は残っていた。

 両腕からリュックサックが抜けかかり、なんとか両手で抱きついた。足はまだ地面につかない。海の底は遠いようだ。

 もう何も考える事はできなかった。頭の中を奇妙なイメージがちらちらとした。

 彼の頭に最後に残ったイメージは、結衣でも明日香でもなかった。ただ彼が少年時にキャンプで見た光景だった。

 彼がまだ小学校低学年の頃だ。親に連れられて、キャンプにいった。

 テントの設営が終わって、休憩時間になった。佐伯は離れにあるトイレに向かった。

 その途上で、佐伯は奇妙なーーあるいはごく自然な光景を見た。森の中で、いわゆる天気雨だが、日の光の中を柔らかに雨が降っている様を見た。

 彼がさっきいた場所には雨が降っていなかった。だが前方ーー彼の立っているところから三メートルほど先には雨が降っていた。

 (ここが雨と晴れとの境目なんだ)

 と小学生の彼は思った。

 木々の中で、雨滴が光を受けて光っている光景は限りもなく美しいものに思えた。

 彼はそこに五分ほど立ち尽くしてから、その場を去った。

 彼はその時、自分が受けた印象、自分が見た光景の意味、それを他の誰にも言わなかった。自分以外にはきっと伝わらないと思ったからだ。

 

 死の寸前に彼が見たのはその光景だった。

 その光景が、今見ている海の中の光に彩られた風景と重なりながら、見えていた。

 奇妙な風景が目の前に浮かび、佐伯は自分の体から力が抜けていくのを感じた。誰かが体の中から何かを吸い取っている。

 目の前に大きな気泡が現れた。それは彼が吐き出した空気だったが、自分が吐き出した空気だとも彼は気づかなかった。

 海水が体内に入り込み、彼の視界は一転した。そうして意識は途絶えた。何もわからなくなった。闇すらも消えた。

 彼の肉体は彼の意識を追うように衰亡していった。そうして数分後には心臓が動くのを止めていた。彼は死んでいた。

 死体は海の中をゆっくりと落ちていった。彼はまるで、何か極めて重大なものを抱きかかえるかのようにダンベルの入ったリュックを抱きしめていた。彼はその姿勢のまま、硬直しつつ海の底へと落ちていった。

 

 ※

 佐伯の死体が海岸に打ち上げられたのは二日後だった。死体は海水を吸い込んで青白く膨張していた。黒い斑点が見られた。

 死体は犬の散歩をしていた近所の人に発見され、警察が呼ばれた。警察は、ポケットの財布の中身から人物を特定した。

 佐伯の死はほとんど反響を与えなかった。両親はとうに亡くなっており、兄弟もいなかった。明日香の両親もすでに亡くなっていた。明日香の妹に連絡がいったが、ほとんど他人事といった風だった。

 

 佐伯の死は、地方新聞の片隅に掲載された。佐伯の名前と年齢、溺死体があがったこと、死体の状況からおそらくは自殺であろうという簡単な事実が簡潔に書かれていた。

 その情報を興味を持って読んだ人間はほとんどいなかった。それは単なる文字の羅列として、ほとんどの人の頭を素通りしていった。佐伯の死はこの世に何の痕も留めなかった。

 

 ただ、一人だけ、その名前と年齢に目を止めた人間がいた。男は六十過ぎで、仕事帰りにパチンコ屋のソファーに腰掛けて休憩中だった。男はソファーの前に置かれた地方新聞を時間つぶしで読んでいた。男は佐伯の自死の記事に目を留めた。

 (佐伯耕助? …どこかで聞いたような…)

 男は思い出そうとしてみた。どこかで会った人物のような気がする。そうしてその人物は、何か不幸な出来事を背負っていたような気がする…。一体なんだろう? 一体、どこで会ったのだろう…? 知っているような気がする…。

 実際には男は佐伯の同僚だった。結衣の事故の前に同じ職場で働いていた。部署は少しばかり遠かったが。

 とはいえそれももうずいぶんと昔の話だった。男は思い出そうとして首を捻っていたが、五分ほど考えて、諦めた。

 「知っているような気がするんだけどな」

 男は新聞をラックに放り込んだ。

 男は立ち上がり、歩き出した。男は設定の甘い台がないかと、店の中を一周するつもりだった。




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