9 変性者
「やあ、アレクサンドル王子、久しぶりだね。」
数日後、兄夫婦に呼び出されたアレクサンドルは、一番会いたくない相手に改めて、紹介されていた。ベイリン帝国第5皇子シャルルマーニュだ。先日のラインハルト王太子の結婚式の時、魔の森の試練を克服したと自慢し、アレクサンドルに魔の谷行きを決断させた人物。本人には全く悪気が無く、勝手に対抗意識を燃やしたアレクサンドルが悪いと言えばその通りなのだが、それもあって、顔を会わせるにはバツの悪い相手だった。
そんなアレクサンドルの気持ちを知ってか知らずか、シャルルマーニュは爽やかな笑顔で右手を差し出した。
「また、会えて嬉しいよ。君の武勇伝は姉上から聞かされた。凄いな、独りで魔の谷を攻略したのだって?」
「!?」
一体、どういう話になっているのか。びっくりして振り返るアレクサンドルに兄夫婦はニコニコと笑っている。
「その話は忘れて欲しい、です。」
「どうして?それが、戦利品のアリアドネシルクなのだろう?」
シャルルマーニュの視線の先は、アレクサンドルの金髪に注がれている。
魔の谷に落ち、変性から目を守る為に巻かれた包帯をアレクサンドルは今、髪を括るリボンとして使っている。幻と言われるアリアドネシルクでは無いか、とマリー・クレールに指摘され、その価値と共に、愚かしい自分の戒めとして、ずっと手元に置いていた。
「戦利品?」
「なんだ、違うのか?魔の谷で蜘蛛の魔物と戦って勝利した証、だと思っていた。」
「どうしてそんな話になってる!?」
魔の森には、魔素に侵された魔物が度々人を襲う事がある。それらを討伐する為に騎士団が出撃する事もあり、強力な魔物の中にはたまに貴重なアイテムを落とすものがいる。
アレクサンドルの持つアリアドネシルクもその一種だとシャルルマーニュは思っていた、と言う。
「そんな誇らしい物じゃない、です。」
別れ際のヒューの顔を思い出す。
謝罪に行きたいのに、何処にいるのかわからない。あの時から何も進んでいない現実に焦る。
魔の谷の開拓に着手し、あの近辺に住んでいる者達が、意外と多くいる事が判明した。
けれど、その中にヒューたちはいなかった。
『僕を助けたから、出て行ったのだろうか?』
訳あって隠れ住んでいたのなら、他人に見つかった時点で引っ越す可能性はある。探されたくないのだろう、と王子の権力を使っての捜索を諦めたが、"罪を不問に伏す"、"王子の恩人"、として公開捜査をすべきだったのだろうか。けれど、何から隠れているのかわからない以上、罪を問わない、とも言えないのが事実だった。それに、本当に隠れていたのかすら、アレクサンドルには分からないのだから。
今となっては、この包帯だけが、ヒューと自分を繋ぐ唯一だった。
「よくわからないが、この場に僕が呼ばれた理由は、これですか?姉上。」
無遠慮にアレクサンドルを指差してシャルルマーニュは言う。
「そうね、その包帯?リボン?の魔素を辿って欲しいの。」
シャルルマーニュが指差したのは、アレクサンドルでは無く、その髪を括るリボン。
「魔素を辿る?」
「そう。僕の変性で得た能力。口にした物が魔素を帯びていれば、その痕跡を辿る事が出来る。」
「変性で得た能力?」
何を言っている?
青ざめるアレクサンドルにシャルルマーニュは、何を今更、と小首を傾げつつ、爆弾を投げつけた。
「君だって、持っているだろう?アレクサンドル王子。君のその右目の事だよ。」
外すな、と言われた包帯を外してしまった。
その結果、アレクサンドルの右目は魔素により変性し、異能を得た、と言うのだ。
「君のその目に何が見えるのか、僕にはわからないけれど。おめでとう、アレクサンドル王子。君は力を手にしたこちら側の人間だ。」
「何を、言って、」
「まあまあ、シャル。その話は後でも良くは無くて?今は、アリアドネシルクの出処を知るのが先決よ。アレクサンドル王子には、ゆっくりとお話して差し上げれば良いのだから。」
安心させる様にそっと肩に手を乗せたマリー・クレールから、ふわりと甘い香りが立ち昇る。その言葉は優しく聞こえるが、アレクサンドルは、ぞわぞわと腹の底に得体の知れない気味悪さが蠢くのを感じた。
『兄上は!?』
唯一の味方に思える兄に縋るような視線を送るが、兄は、相変わらずニコニコと微笑んでいるだけで、ひょっとして、目の前の自分の事が見えていないのでは?と恐怖に襲われる。
けれど、
「そうか、アレクはそんなすごい力を手に入れていたのに、私には教えてくれなかったのだね。どうして?ひょっとして、王位を狙っていたのかな?」
いつも通りの笑顔と口調。けれど、その内容は雲泥の差だ。
「兄上?」
「うん?私はね、お前を弟としては愛しているよ。でもね、ライバルになるなら、話は別だ。
悲しいね、たった二人の兄弟なのに、アレクが私を蹴落とそうとしているなんて、信じたくはなかったよ。」
「そんな事はありません!僕は、兄上に、国王になってもらいたいです。」
「本当に?」「勿論です!」
「なら、そのリボンを渡して。」
目の前にすっと出された手を、信じられないと見る。
「お前の会いたかった子にも会えるかもしれないよ。」
弾かれたように、アレクサンドルは顔を上げた。
うん、と兄が肯定する。
これをシャルルマーニュに渡せば、ヒューに繋がる?
しゅるっと、リボンが解ける。
アレクサンドルが動けない間に、彼の髪を括っていたリボン(包帯)は、ラインハルトの手を介して、シャルルマーニュの元に渡った。
「あぁ、これは、」
シャルルマーニュが破顔した。
「いいねぇ、素晴らしい。最高級の魔力だ。このリボンの生産者は天才だ。実に美しい。実に美味しい。」
リボンの端を口に含んで恍惚とする少年の姿は、一言で言うなら不気味だ。
実の姉のマリー・クレールの顔に浮かんだ嫌悪の表情を、うすら寒い笑顔の下のラインハルトの目は捕らえた。
『この姉弟も、一枚岩では無い、と言う事だね。シャルルマーニュ皇子の変性は、味覚?口?舌?興味深いね。』
ラインハルト王太子は、アレクサンドルが思う程、のんびりした青年では無い。魔境を有する一国の王太子が、ただの”良い人”では務まらないからだ。
彼に、ベイリン帝国第二皇女との婚約話が出たのは、三年前。成人を迎えた皇女の相手として向こうからの申し出だ。格上の帝国からの婚約話に、ラインハルトは、国の為、その話を受けた。
そして、顔合わせ。
初めて見たマリー・クレールは、高圧的では無く、可愛らしく、社交的だった。
これなら、仲良くやっていける、そう思った。けれど、同時に恐ろしかった。
ラインハルトは、彼女の異能をその時、初めて知った。
「よろしくお願いしますわ、ライン様。そう、お呼びしてもよろしくて?」
差し出された左手に触れた時、ふわりと立ち昇った甘い香り、その瞬間、ラインハルトは、マリー・クレールに恋をさせられた。
己の意志を書き換えられる気持ち悪さ。
最初の好印象を否定して余りうる嫌悪感。
マリー・クレールは焦っていたのだろう。
彼女自身が十分に魅力的であったにも拘わらず、魔の谷を有するインゲルハイム王国に取り入る為に、何としてもこの縁談を結ばねばならない。王太子と良好な関係を築かねばならない、その焦りが、初手から切り札を使わせることになった。
マリー・クレールも変性者だ。
彼女の変性部位は声帯。
その声に魅了の魔力を乗せ、人を操る。
効果は、対面しているとき限定だが、彼女が対象の体に触れていれば、100%発動する。
婚約者のこの能力を知ってなお、ラインハルトは、婚約を継続した。
ここ百年のベイリン帝国の飛躍的な躍進の原因を探る為には、それが望ましかったから。そして、確信する。
ベイリン帝国では皇族主体で、魔の森の魔素を自らに取り込み、意図的に変性を引き起こし、魔力を使えるように人体改造をしている。その途中で、当然、暴走し人外となる皇族もいたが、彼らは、不慮の事故や、最初からいなかった者、として処理されていた。
数代前から、ベイリン帝国皇族の中に傑物が多いのもその為で、当然、今の皇帝一家も変性を受けている。具体的なその能力の一つがシャルルマーニュの魔素の追跡能力と今、知れた。
おそらく、ベイリン帝国では、騎士達の中にも変性者が何名もいるのだろう。
魔法杖も変性者を隠す都合よいアイテムとして作られた可能性もある、と、ラインハルトは思っている。
『けれど、アレクは?』
さっきは、マリー・クレールに操られたフリをして、アレクサンドルを問い詰めてみせた。けれど、弟本人は、何を言われているのかまるでわかっていなかった。驚きで見開かれた瞳は確かに左右で色が違っていたが、それは、空の青さと海の青さの違い程度で、取り立てて言う程では無い。
『変性者は、変性者がわかる、と言うのか?』
ならば、マリー・クレールがこれまでアレクサンドルの能力に言及しなかったのは、何故か?いや、むしろ、彼女も驚いていたではないか。
ベイリン帝国の人間にとっては、自国民以外に変性者が生まれる事は望まないだろう。アレクがそうであると、マリー・クレールが気が付いていたなら、彼女は弟を魅了していた筈だ。
『これは、吉兆なのか?それとも・・・。』
困惑するアレクサンドルを横目に、怪しげな薄笑いを浮かべながら、ラインハルトの頭の中では、今後の展開が幾つも繰り広げられていた。




