5 魔の谷
インゲルハイム王国の東の国境、それが魔の谷だ。
その向こうは、緩衝地帯としてどの国にも属さない草原地帯を挟んでマリー・クレールの母国ベイリン帝国になる。一つの国家が管理できる魔境は一つのみ。その不文律によって、この魔の谷はインゲルハイム王国の管理下にある。
草原地帯は、どの国にも属していないが、無人、と言う訳では無い。その地一帯を、タウ族という騎馬民族が、遊牧生活を送っているのだ。定住をしない遊牧の民は、馬を自在に操る機動性の高さと武勇で有名だ。
インゲルハイム王国はこのタウ族と友好な関係を築いているが、一方で、ベイリン帝国では、略奪者として嫌われていた。
ベイリン帝国はその北方に広大な魔の森を有し、そこから伐採される魔樹を加工した魔法杖でこの世界有数の武力を誇っている。
魔の森に集まる魔素を吸い上げて育つ魔樹にベイリン帝国は品種改良を行い、効率的に魔素を濃縮する品種を生み出した。人類は、そのままでは魔素を使うことは出来ない。魔素の籠った何らかを用いる事で、人類は魔素を魔力として利用する。それが、魔石であり、聖水であり、それらを動力として利用する数多の魔法陣であり、魔道具だ。
その中で、魔法杖の誕生は、世界を根幹を揺るがした。
魔法杖を介する事で、個人が魔素を魔力として気軽に行使できるように変換したのである。
これまで魔石や魔法陣を用いた魔道具で行っていた事が、魔法杖の一振りで可能になった。
その影響の最たるものは、戦場にあった。
魔素を豊富に内蔵した魔法杖が1本あれば、例え、それを振る兵士が新兵であっても、その威力は、熟練の騎士十名以上に相当した。
魔法杖を開発したベイリン帝国は、さらに改良を進め、使用者の練度の向上も相まって、瞬く間に、この大陸における覇者となった。
帝国が不文律を無視し、他の魔境に手を出すかもしれない。
その危機感を持たない国家は無い。それは遊牧の騎馬民族であるタウ族も同じ事。
故にタウ族は、ベイリン帝国を敵視し、故に、インゲルハイム王国では、第二皇女マリー・クレールを王太子の妻に乞い、国家間の結びつきを強める方策を取った。
魔の谷に向かって突き出すように作られたプラットフォームが三つ。それぞれに一基の風車が建てられ、カラカラと回っている。谷底から魔素を汲み上げているのだ。
一度に掬える魔素の量は微々たるものだから、風車に連動した特殊加工された広口瓶は何周も往復して魔素を汲み上げる。工房勤めの騎士は、一杯になった瓶を見つけて、風車から外し、蓋を閉めて、空瓶と交換する。それだけの仕事だ。けれど、魔素の詰まった瓶は、平民が一生暮らすのに困らない程の一財産になる為、その管理は厳しく、また、瓶の交換の際に魔素をこぼそうものなら、瞬時に変性を起こすほどの濃さの魔素が詰まっている。魔素防御服と言う、恐ろしく機密性の高い服を頭からすっぽり着込んで、一日中過ごさなければならない、かなり、キツイ仕事だ。
魔の谷の深さは誰も知らない。谷底に向かって魔素は濃さを増し、視界の先は淀んだ空気によって隠されている。渓谷の両側は王家の直轄地とされており、境界には土壁が設置されている。そこから先は王家の許可が無ければ、立ち入る事は出来ない。とは言うものの、土壁は誰でも越えようと思えば越えられる高さだ。これまで、魔の谷に近づこうとする愚か者がいなかった訳では無いが、その末路は推して知るべしである。
汲み上げた魔素は、風車のすぐ近くに建てられた工房で、管理・保管されている。工房に働く者は、国から任命された騎士たちだから、武勇に優れ、忠誠心が高いのは言うまでもない。工房に侵入したところで、魔素の詰まった瓶を盗み取る事は不可能に近い。だからと言って、底の見えない谷底に自力で降りて魔素を汲んでくることは、実際にあり得ない。谷底に降りる途中で、変性して死に至るからだ。更に汲み上げた瓶1本分の魔素を浴びただけで、瞬時に魔人化し、取り込んだ魔素の暴走で爆発してしまう事故は、どうしても起こるヒューマンエラーと身の程知らずの盗賊によって、数年に一度発生するこの国のある意味、教育的出来事だ。
魔の森では不法侵入者の対策はどうしているのか、ラインハルトはマリー・クレールに尋ねた。
「そうですね、わたくしも詳しくは知らないのですけれど、トレントという移動能力をもつ魔樹をティムした術者が、定期的に見回りをさせているらしいですわ。」
教わったところで、インゲルハイム王国では真似できない方法だった。
そんな会話を交わしながら、マリー・クレールは手のひらサイズの短杖を取り出し、自分とラインハルトを覆う結界魔法を展開すると、ドンドン、谷に向かって歩きだした。護衛達がまだ魔素防御服の着用に、もたもたしている間の出来事である。
谷に向かって伸びるプラットフォームを並んで歩く。建てられた風車が、ゴーンゴーンと音を立てて回り、連動した歯車にぶら下げられた広口瓶がゆっくり、昇り降りしている。足元のプラットフォームが、風車の動きに合わせて大きく揺らいでいる様で落ち着かない。
谷底から上がって来た瓶は、底にうっすらと霞がかかっており、それが魔素、だと言う。
「魔素、そのものを初めてみましたわ。」
特に意味は無いが、周囲の風景に圧せられたのか、声を潜めてマリー・クレールが言う。
「私も初めて見た時は驚いたよ。他の魔素溜まりと違い、魔の谷の底には魔素を取り込む物質が無いようだね。」
例えば、魔の森ならば樹木、魔の山ならば岩石、魔の湖ならば水。
「不思議ですわね、魔の谷の底や壁自体が魔石になっていてもおかしくは無いでしょうに。」
魔の山が、その内側に抱える魔力溜まりによって、山自体を魔石化したように、魔の谷も谷自体を魔石化しても良い筈である。ひょっとして、谷底は魔石化しているのかも知れないが、それを確かめる術が、現時点では無い。
汲み上がる瓶の中の魔素量はバラバラで、定期的に風車を止めて、すべての瓶を確認するのと、四六時中張り付いて満タンになった瓶を交換するのと、どちらが効率がよいか、悩ましい所だ、とマリー・クレールも思う。
「ああ、あれ位溜まっていれば、もう収穫しても良いだろう。」
瓶を収穫、そんな言い回しにクスリと笑って、マリー・クレールは、ラインハルトが命じて回収された瓶が、手元に来るのを待つ。
ゆっくりと回る風車に完全防御服を纏った者が、空き瓶片手に近づき、慎重に瓶を取り外し、先ず、蓋をする。空き瓶を素早く取り付けると、魔素の詰まった瓶を工房の炉の中に入れた。
「本来は、いくつかまとめて処理するのだけれど、特別に一つだけでしてもらっている。」
ラインハルトが、瓶を熱処理する事で、外側に付着しているかもしれない未知の物質の焼却と熱処理による蓋の密閉を同時にしている、と解説してくれた。
暫くして、程々に冷めた瓶が二人の元に届けられる。
「これが、魔素。」
熱処理中にシリアルナンバーが蓋に刻印され、いつどこにこの魔素の瓶詰が出荷されたのか、明らかになる仕組みになっている。
魔素工房の視察を終え、ラインハルトとマリー・クレールは、次の目的地に移動する。魔の谷沿いに南下し、唐突に谷は途切れる。魔の谷の南端には国境の砦があり、インゲルハイム王国の出入国管理を行う行政機関も置かれている比較的規模の大きな砦だ。
アレクサンドルは、魔の谷の南端を回り、草原地帯から侵入した、と告白している。
「結構な人の流れですのね。」
「そうだね、この国に陸路で入るには、ここと北の回廊しかないから。流石に北の回廊は魔の谷の真横を抜ける隘路だから、大きな商隊などはこちらを使う。それに、」
と、促すラインハルトの視線の先に、いくつかのテントと何頭もの獣の姿。
「ここは、タウ族との交易の場も兼ねている。ああ、だからなのかな、アレクが隠れる場所がそこかしこにある。」
全く、と溜息をつきながら、それ程困った様子を見せないラインハルトの手を、そっと、マリー・クレールは握る。
「お優しいライン様。ですが、わたくしは心配ですわ。」
ふわりと甘く香る吐息が、ラインハルトの鼻腔をくすぐる。
「今回は、ご無事にお帰りでしたし、護衛騎士達にも罪は問いませんでしたけれど、こんな事が二度と起こらぬよう魔の谷周辺の警備を強化すべきではありませんか?国境の在り方も含めて。」
愛おし気に妻を見下ろして、ラインハルトは「そうだね、その通りだ。」とうわ言のように呟いた。
「特に、これと言って、変わったところはありませんわね。」
「そうだね、何も無い。」
周囲を見回すマリー・クレールに対して、ラインハルトはマリー・クレールを見ている。
アレクサンドル王子が魔の谷に降りようとして滑落した、らしき場所を訪れて、恐らくその近くにあるだろう救助者の住居を探す。
けれど、人家どころか、獣が歩いたような跡すらない。
「まさか、谷の中、でしょうか?」
「流石に、貴女を行かせるわけにはいかないよ。」
先んじて制する夫に、マリー・クレールは苦笑する。
「仕方ありませんわね。
では、代わりに、熱処理する前の魔素の瓶を見せて下さいませ。」
ラインハルトは目を細めた。
「何か見つけたのかい?」
「ひ・み・つ。」
ふふふ、と笑う新妻に、ほぅ、と溜息をつく。
相手は格上の帝国の皇女だ。今後も何かと譲歩しなくてはならないのだろう。けれど、インゲルハイム王国の不利になるような、
いや、愛しい妻の願いなら、何を差し置いても叶えてなくては、
ラインハルトの思考は二転三転する。結果、
「お望みのままに。」と、王太子は答えていた。




