4 王太子夫婦
「本当に、体はどうも無いの?」
真っ赤な顔をするアレクサンドルを満足げに見下ろして、マリー・クレールは優しく尋ねた。
「別に、何とも無い、です。大体、治ったのなら出ていけ、と追い出されたので。」
いきなり、転送された理不尽を思い出して、アレクサンドルは、不機嫌になる。
「僕だって、きちんとお礼が言いたかったし、また会う約束だってしたかったのに。」
あらあら、とマリー・クレール皇女は隣のラインハルト王太子をそっと見る。
「そうだね、第二王子を助けてもらったのだ、王家としても、感謝を示したいね。」
「兄上!兄上もそう思いますか?」
ぱっと輝いた弟王子の顔に、ラインハルトは吹き出しそうになるのを堪える。
「勿論だ。で?何処の誰なんだい?」
「それが・・・。」
突然、がっくりと下を向いたアレクサンドルに、兄夫婦は首を傾げた。
「わからないんです。」
「??」
「僕は、変性を予防するためと言われて、ずっと目隠しをされていて。名前はわかるんですけど、顔はヒューしか・・・。」
「ヒュー?」
「僕の世話をずっとしてくれていた子で。茶色のふわふわの巻き毛と同じ色のおっきな目の、僕よりちょっと年下っぽい子です。とっても良くしてくれたのに、僕、その子を傷つけてしまって・・・。それで、エルエルを怒らせて、追い出されたんです。」
「エルエル?」
「多分、ヒューの兄か何かだと思います。凄く、賢い人で、医学の知識があるみたいでした。」
それをきっかけに、アレクサンドルは、こっそり王宮を飛び出してからの、自分の行動を掻い摘んで説明した。既に、最初に転移して出てきた騎士詰め所や、王城に着いてから、騎士団長と宰相の前で、そして、これが3度目だ。
流石にアレクサンドルも同じ話の繰り返しに飽きてきていたけれど、相手は大好きな兄である。つい、色々聞かれるままに答えていると、随分と時間が経ってしまっていた。
「ああ、すまない、アレク。ゆっくり休みなさい、と言いながら、私がすっかり邪魔をしてしまった。
とても興味深い話だったよ。」
兄ラインハルトに小さい頃の様に、頭をポンと撫でられる。
アレクサンドルは、無事に家に帰って来たのだ、とその時、しみじみと思った。
パタン、と弟の部屋の扉が閉まる。
ラインハルトとマリー・クレールは、仲良く腕を組んで自分たちの暮らす王城の一画に向かった。
「ライン様、」
二人きりになると、マリー・クレールは、周囲を確認してから、遮音の魔道具を起動した。
「魔の谷に調査隊を送るべきですわ。」
「目的は?」
「アレクサンドル殿下を助けた、と言う者たちの素性が気になります。」
「それは、そうだが・・・。工房の者達ではないのは間違いないね。流石に正体不明の怪しい家族を雇ったりはしないよ。」
アレクサンドルの興味の中心はヒューと言う子供だけで。その子にしても、その容姿はちらりと目にしただけ、と言う。その他の人物像は更に曖昧だ。丁寧で柔らかい口調の医師らしき男・エルエル。乱暴な言葉遣いと態度の男・ヴァン。小声で話すもう一人の子供が、リンク。母親と思しきアリア、使用人らしいライム。
「魔素溜まりの近くに、子供と一緒に暮らすなど、我が国ではありえません。」
実家の帝国を我が国と表現した事に気付いていないのか、マリー・クレールはそのまま話し続ける。
「ベイリン帝国の魔の森は、帝国北方に位置しています。気候的にも厳しい所ですので、北部三州の人口は、他の州に比べ少ないのです。魔の森で採れる魔樹の伐採目的で入植を進めてきましたが、森の中に居を構える事を許してはおりません。」
魔の森の中は、魔素が濃く、長時間留まる事は出来ない。あらゆる生命は魔素を長時間浴びると変性してしまうのだ。変性した生命は、元の生命とは別物となる。動植物は魔物となり、魔力を使えるようになる。その変性は多くは生存本能を高める方向に働き、攻撃的になる事が多い。魔の森の主な魔物は、樹木が変性した樹魔であり、種によっては移動能力を獲得している物もある。
魔素の浸食による変性は人間も例外では無く、人が変性した物は姿形だけでなく、言葉、理性を失い、衝動のみで行動する、魔人と化す。
人類の歴史の黎明期、魔素溜まりとのかかわり方が手探りだった時代。魔人化したかつての人間による悲劇は、世界各地で起こった。そうやって、人間は魔素の恐ろしさ、有用さを知ると共に、如何に効率よく魔素溜まりから、魔素を得、活用するのかを模索し、今に至る。
この大陸には大きな魔素溜まりが四か所あり、それぞれ、別の国家が管理している。一国家で複数の魔素溜まりを有する事は認められていない。
それは、魔素溜まりから得られる魔素が、非常に強力な武器になるからだ。そうは言っても、あらゆる場所に小さな魔素溜まりは無数に生まれる。ただ、それが、周りの環境に影響を与えるほど、巨大化する前に近くを通った動物に吸収されるか、そこに住む人間に発見され、適正に対応されるため、魔の森や魔の谷のような魔境にならないだけだ。
「子供の方がより魔素の影響を受けやすいのは、誰もが知る事実。にも拘らず、子連れで魔の谷の近くに隠れ住んでいると言うのには、それなりの理由があるのでしょう。
けれど、子供、しかも二人。変性し魔人化する前に、何とかしなくてはなりません。魔人が発生した場合、その責任は発生させた国家が取らねばならないのです。」
分かっているのでしょう?とマリー・クレールはラインハルトを見つめる。その対応も含めての魔境の管理なのだ。
「嫁いで早々、国難級のトラブルに巻き込んでしまい、すまないね。」
既に、疲れた様子でラインハルトは、肩を落とす。
「いえ、魔の谷の近くに違法住民がいる事が、知れて良かったですわ。それと、」
と、先程よりも慎重に、マリー・クレールは言葉を続けた。
「アレクサンドル王子の持っていた布、あれは、ひょっとして、スパイダーシルクでは無いでしょうか?しかも、最高級のアリアドネシルク。先程、少し触らせて頂きましたが、あの手触りは普通ではありません。」
「普通では無い、って。あれは、包帯、と言っていたよ。」
「だからですよ、ライン。最高級のアリアドネシルクを包帯に使う、そんな贅沢が出来るなんて、普通は考えられません。スパイダーシルクを生み出す蜘蛛の魔物は、ラムー大陸にしか生息しない筈なのです。ですから、こちらでは手に入らない非常に貴重な品、なのですわ。それを包帯に使うなど、物の価値を知らないのか、それが珍しいものでは無いのか、のどちらかだと思いませんか?」
それこそが、第二王子を助けた家族が、隠れて暮らしている理由では無いか、そう、マリー・クレールは言う。
ならば、魔の谷には、スパイダーシルクを生み出す魔物が住んでいるのではないのか?
それが、元から住んでいた物なのか、正体不明の家族が連れて来た物なのか。
「とにかく、一度、行ってみましょう?魔の谷。」
「君を危険に晒したくはないのだけれど・・・。」
躊躇するラインハルトとは裏腹に、とても楽しそうなマリー・クレールだった。
『何やら、面倒な話になりそうだね。』
ラインハルトは新妻に知られないように、そっと溜息をついた。
行方不明だった弟が無事に戻って来たのは良いが、その供述は首を傾げるものだった。
まず、魔の谷に落ちて魔人化しなかったことがおかしい。
本人は治療してもらった、と言うが、怪我の痕跡も無い。
扉がギシギシ言うような廃屋に住んでいるような連中に、そんな高度な医療技術があるとは思えない。
ましてや、転移魔法陣?
確かに、転移魔法は存在する。けれど、そんな物を描ける魔法使いはこの国でも片手で余る程しかいない。それをエルエルとか言う男が使うと言うのか?
ならば、その男は高位の魔法使いだ。
そんな男が魔の谷で何をしている、と言うのだろう。
更に、アリアドネシルク?
マリー・クレールがいずれは魔の谷行きを望むのはわかっていた。けれど、別方面から興味を惹いてしまった。
『もうしばらく、大人しくしていて欲しかったのだけれど。』
予想外の出来事のオンパレードに、またまた、溜息をついてしまうラインハルトだった。




