3 恩と仇
魔の谷から無事生還を果たしたアレクサンドル王子は、以前より熱心に鍛錬をするようになった。今回の冒険が、無事に終わったから良かったようなものの、王子の無謀な冒険の一因が、騎士達の忖度、つまり、手を抜いて王子の武術の相手をして、わざと負けてやっていた事による驕り、だった、と他ならぬアレクサンドル自身が気付いてしまったからだ。
騎士達としても、傍若無人なお子ちゃまの子守をするのは勘弁、適当に相手をして気分良く過ごして頂こう、と、手も気持ちも抜いて対応していたのは事実だ。
アレクサンドルが、きちんと教えを乞う姿勢を見せた事で、一応、今回の、冒険の責任が護衛騎士達にない事を明らかにして、手打ちとなった。
強くなるために。
第二王子として、本来なら、それ程の武力は要求されない。けれど、アレクサンドルには、護りたいものが出来てしまった。例えそれが、一方的な想いであっても、漠然とした訓練よりも、目的がはっきりしている方が、鍛錬に熱が入る、と言うものである。
包帯を無理に外そうとしてはいけない。治療が終われば、それは、自然に外れる。
そう診察の度に言われていたにも拘わらず、あの日、アレクサンドルは好奇心に負けて、右目の包帯だけ、少しずらして、自身の救世主の姿を覗き見た。
アレクサンドルに食べさせるべく、木製の小ぶりなボウルから、ひと掬い掬ったスープに、ふうふうと息を吹きかけているのは、ふわふわの薄茶色の巻き毛の可愛らしい自分よりやや年下らしき性別不明の子供。
一生懸命な様子が、とても可愛い。
しかし、ちらりと見えたスープは、深い紫をした、一見すると食べ物とは思われない色をしていた。
ぎょっとして、体が勝手に動いた。そのせいで、子供の掬い取ったスプーンの中身が、服の上に落ちてしまい、彼?彼女?は、慌ててボウルを脇の机に置くと、「ちょっと待ってて」と言い置いて、タオルを手に走り去った。
こわごわと、脇に置かれたボウルの中を覗く。
紫のスープの中に、白い肉?のようなものが浮いている。茶色の塊は木の根か?
「僕はこれを食べていたのか?」
恐る恐るすくい上げて見ると、白い肉のような物は何かの幼虫で、それが分かった途端、アレクサンドルはボウルを投げつけ、その場で嘔吐した。
「芙蓉蜂の子、は、とても、栄養が、高い。貴重。白芍薬の根、も、貴重。熱さまし。黄金蓮華花蜜も、全部、ヒューが、集めた。お前の為。」
その拙い話し方から、アレクサンドルは、今、自分を見下ろしているのが、リンクと呼ばれる少女であるとわかった。
「僕は、頼んでない!見えなければ、何を食べさせても良いと言うのか!こんなゲテモノ、」
その恩着せがましい言い方に、反射的に叫び返す。
「全く、物の価値の分からない愚者は、どうしようもありませんね。」
部屋の温度が真冬の寒さに変わる。
「リンクは、事実を言っただけです。包帯を外すと変性すると警告したはずですが、愚かですね。まあ、もう、体は治っているようですし、これ以上、貴方に関わると良い事は無さそうです。
それでは、王子様、ごきげんよう。」
冷たい声が、有無を言わせず、別れを告げた。
アレクサンドルの真下に、魔法陣が浮かび上がる。咄嗟に顔を上げた彼の右目に、悲しそうなヒューの表情が最後に焼き付いた。嘔吐した態勢のまま、アレクサンドルは、強制的に転移させられた。転移先は、どこかの騎士の詰め所で、今まさに捜索中の第二王子が、目の前に現れたとあって、詰め所は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。
王都に移送された後、侍医から入念な診察を受ける。特に、くじいた左足首と枝が刺さった右わき腹。更に、転移直前には明らかに嘔吐していたから、毒薬を飲まされた可能性も考慮されて、あらゆる解毒剤を飲まされる。
国王の侍医団がほぼ全員揃って、あーでもない、こーでもないとやっているのを横目で見て、アレクサンドルは、何種類目かの解毒剤を処方する薬師に問いかけた。
「芙蓉蜂って知っているか?」
「はい、殿下。勿論でございます。芙蓉蜂の子はとても栄養価が高く、王妃殿下も産後のご回復にお召し上がりになられました。」
「母上が?」
「はい。恐れながら、第二王子殿下は王妃殿下の体内で健やかにお育ちになられ、ご出産の際には、多少、難産となりました。無事お生まれになった後、王妃殿下のご回復の為に、帝国より取り寄せた、と聞き及んでおります。」
薬師の答えは、アレクサンドルを困惑させるのに十分だった。
「だが、芙蓉蜂の子は、あの、見た目、だろう?あんなものを母上に食べさせたのか?」
あぁ、と薬師は訳知り顔で頷いた。
「王子殿下は図鑑をごらんになったのですね。確かに、あのままの姿で王妃殿下にお出しする訳には参りません。薬効を十二分に引き出すには、あのままが一番なのですが、侍医団と料理長が工夫に工夫を重ね、なるべく薬効を落とさないようにしつつ、食しやすい形態にした、と聞き及んでおります。」
「白芍薬の根、黄金蓮華花蜜」
「おぉ、いずれも貴重な薬の元で、ございます。王子殿下は薬学にもお詳しいのですね。」
では、こちらで最後でございます、と最後の解毒剤を飲まされて、アレクサンドルはそのまま、ベッドの住人になった。
安静第一、と傍仕えの侍従だけ残されて、ぼんやり、豪奢なベッドの天蓋を見ながら、考える。
『リンクの言った事は、全部、本当だった。』
あのゲテモノを煮込んだ様な料理は、実は医学的に正しいものだった。
よく考えれば、足首の捻挫も、右わき腹の傷も、たった7日で治るには、重症だ。
それはつまり、
そう言う事だ。
「はあぁー。」
アレクサンドルは大きく溜息をついた。
魔の谷に落ちた所を助けてもらっただけでなく、治療まで完璧にしてくれた相手に対し、侮辱しただけでなく、満足にお礼の一つも言えなかった醜態を思い出す。
最後にみたヒューの悲し気な表情が頭から離れない。
「アレク?寝ているのかい?」
聞こえた声は、兄、ラインハルトの物だった。
「兄上。」
体を起こそうとするアレクサンドルを10歳年上の兄は優しく留め、新妻共々、侍従の運んできた椅子に腰かけて、弟を心配そうに見下ろした。
「魔の谷に行ったのだって?どうしてそんな無茶をしたんだい?」
俯いて答えない弟に
「あぁ、咎めている訳じゃ無いんだ。まあ、本当は、叱らなきゃいけないんだけれど。」
そう言って、苦笑する兄は、王太子と言う立場に立つには優しすぎる人だった。
格上のベイリンク帝国から嫁いできた第2皇女マリー・クレールは、噂通りの才色兼備な令嬢だったが、気の強い所があり、婚約者時代から、第一王子のラインハルトは、彼女の言動・行動に困ったように笑いながらフォローしているのを、アレクサンドルは苦々しく思っていた。決して、仲が悪い訳では無い。むしろ、マリー・クレール皇女がラインハルトに甘えて我儘を言っている、どこまで許してもらえるのかの距離を測っている、そんな感じなのだ。
けれど、11歳のアレクサンドルにそんな恋愛の機微は、わかろうはずもなく、兄嫁となる帝国皇女に反発を覚えていたのも事実だ。
「ご迷惑をおかけして、申し訳ありません、兄上。」
素直に謝る。だが、魔の谷に行ったのに、深い理由は無い。新しく義理の兄弟となった同年代の子供に負けたくなかったからだ。
「僕が、油断していたのです。魔の谷を甘く見ていました。」
「どうせ、シャルルマーニュが自慢したのでしょう?全く、仕方のない子だわ。」
ラインハルトの横で、マリー・クレールが謝罪する。
「本当にごめんなさいね、アレクサンドル王子。シャルルマーニュの自慢話は話半分に聞いてくださいな。あの子、嘘は言っていないのだけれど、本当、でも無いのよ。」
例えば、今回の魔の森の試練にしても、そう。
ベイリンク帝国の成人の儀に「魔の森で魔物を狩って来るまで、森を出る事を許さない」って言うのがあってね。何歳からでも受けても良いのだけれど、別に人数制限はないの。
だから、シャルルマーニュの魔の森探検は、あの子の護衛騎士をぞろぞろ引き連れて、の事なのよ。
それにね、目的の祠も、森の深層ではなく、魔樹を加工する工房の傍にあるのよ。」
だから、全然、自慢できるような話じゃないの。
そう、語るマリー・クレール皇女は本当に申し訳なさそうに、アレクサンドルの手を取った。ふわりと甘い香りがする。
「貴方が無事に帰ってきて、本当に良かったわ。後一日でも遅ければ、わたくし、シャルルマーニュを魔の谷に突き落とすところでしたわ。」
怖い事を、サラッと言って、マリー・クレール皇女は、アレクサンドルにウィンクをした。纏っている甘い香水の香りが強くなる。
良い香りだけれど、好きにはなれない。
『ヒューの方が良い匂いだった。』
世話してくれた時に思いがけず近くなる子供の体臭を思い出し、途端に真っ赤になったアレクサンドルだった。




