17 アリア
アリアが仲間たちと共に、魔の谷に住む事にしたのは、今から500年以上前。彼女はまだ子蜘蛛だったし、仲間たちはエルエルやヴァンではなく、同族の蜘蛛だった。
元の住処を追われ、ランティス大陸に渡って来たアリアたちは、濃い魔素の為に、捕食者から逃れる事の出来る魔の谷の中腹に巣を張り巡らした。生き物にとって有害な魔素ではあるが、蜘蛛たちは体に取り込まれた魔素を糸に変え吐き出す事で、その急激な変性を抑える事に成功した。その過程で、移住してきた同族たちは半数以上が失われたが、魔の谷に住むに相応しい魔物へとメタモルフォーゼする事が出来た。子蜘蛛だったアリアは分厚い繭に開けられた小さな穴から、そんな仲間たちの様子を見て育った。繭は子蜘蛛を急激な魔素の暴露から守り、少量ずつゆっくりと馴染ませる事で、アリアたち子蜘蛛は魔物・アリアドネとして、繭から抜け出た。
その頃には、幾重にも張られた巣の上に堆積した木の葉や土砂で、魔の谷が蓋をされたような形になり、地表に湧き出る魔素は随分抑えられていた。その魔素を糧に、魔の谷周辺に、魔物が生まれ始める。
その内、人間が集まってくるようになり、村を作り、街を作り、そして、国を作った。
それとは別に、当然、魔素を狙って、多くの魔物や人間が、魔の谷を襲って来る。
アリアと仲間たちはその悉くを撃退したが、その中で、アリアはいくつかの目と脚を失い、仲間はあるものは魔の谷を去り、あるものは死んでいった。
エルエルはアリアたち蜘蛛を最初にこの大陸に連れてきて以来、何度か魔の谷を訪れていた。その度に誰かを連れて来るので、アリアは彼らの巣作りも手伝った。
その内の一匹、スライムのライムは、どこかの国が実験で作成した多核スライムで、魔力の暴走で国を滅ぼした経歴を持つが、実際は、とても温厚で、核の扱いに慣れてからは、脚を失い行動に不自由の出たアリアを良く助けてくれた。
吸血鬼のヴァンは、エルエルに喧嘩を売りに度々やって来ていたのが、いつしか、そのまま居着いていた。彼は日の光を克服した唯一の吸血鬼で、魔の谷の外、人間達の世界とのやり取りを文句を言いつつ引き受けてくれていた。
ゴブリンクイーンとして生まれたリンクは、生まれつき知能が高く、低俗で邪悪な自らの種族に嫌悪感を抱き、この地に逃げ込んできた。そして、本来クイーンとして統率すべき同胞から逃げ出した自分を酷く嫌っていた。
そして、10年前、何者かの手によって魔の谷に投げ捨てられた人間の赤ん坊、それがヒューである。
誰かが助けなければ、決して生きていけない、非常に脆い存在。
誰もがこの子は一日と持たないだろう、と思い、それでも、体を温め、ミルクを手に入れ、魔素汚染から守るべく、全力を尽くした。
今日は目を開けるだろうか?
明日は?
そんな日々を積み重ねて、ヒューは、いつしか、アリアたちにとってかけがえのない存在になって行った。
そんな魔の谷の思い出が、炎に焼かれていく。
「私は置いて行って。」
そう言うと同時に、アリアは動かない自分の脚を強化した糸ですっぱり切り落した。
「アリア!」
ヒューの悲鳴が上がる。けれど、これで、体重はかなり軽くなるはずだ。どうせ動かない脚ならば、あっても無意味だ。
「アリア、この馬鹿野郎、何やってる!いいから、捕まれ!」
伸ばしたヴァンの手をアリアは小さく首を振って拒んだ。
「あの谷には|子供達を残して来たの。いつか戻るつもりだった。あの子たちを置いてはいけないわ。例え、生き延びているのかは分からなくても。それに、」
アリアはエルエルを見て、ヒューを見る。
「魔の谷の魔素が吹きあがっている。私達は良くても、ヒューには濃すぎるわ。このままでは、ヒューが危険。何とかしなくてわ。」
「馬鹿にしてるのか?俺様は速い。魔素が届く前にヒューを安全な所まで移動させてみせる。」
「ならば、さっさと行きなさい。」
「エルエル?」
「アリアが残ると言うのなら、彼女たちをこの地に導いたエルダーエルフとして、その結末を見届ける義務が私にはあります。」
「お前!」
「無論!ヒューたちと暮らしたこの土地を魔素に汚染された不毛の地にするつもりはありませんよ。」
離脱の言葉を受けて、ライムはリンクとヒューの体を取り込んでいる。
エルエルはライムに包まれて、外界の音が遮断され、何が起きているのか理解できずに不安そうな顔をするヒューに手を伸ばす。
つぽん、とライムの体に手を差し込み、ヒューの頬を撫でる。
「そんな顔をしないで下さい。必ず、また、会えますよ。
ライム、頼みますね。」
頷くように触手を動かしたライムをヴァンの影から湧いた蝙蝠の小さな足が捕まえる。大量の蝙蝠たちにつままれて、ライムの体が持ち上がった。
「ヴァン、約束してください。ヒューを、ヒューたちを必ず守ると。次に会った時に、きっちり確認しますからね。」
それは、再会を期した別れの言葉。
ヴァンは睨みつけるようにエルエルに視線を固定する。違えたら許さない。そう意志を込める。
「ったり前だ。この俺様がついていて、ヒューの髪の毛一本も傷付けさせやしないさ。」
その返事に笑ったエルエルの表情はそれはそれは、穏やかで、火柱が立ち昇り、魔素が荒れ狂う背景には全くそぐわない物だった。
「お願いしますね。」「おう、任せろ!」
それを最後に、ヴァンはヒューごとライムを抱きかかえ、周囲を蝙蝠たちが護衛しながら、北の空に消えた。
「あなたも早くこの場を去りなさい。」
興味深く成り行きを窺っていたシャルルマーニュに、エルエルは声をかけた。
「風向きによってはこの平原にも魔素が流れてきます。」
「エルダーエルフ、僕を見逃すの?」
不思議そうに首を傾げるシャルルマーニュに、エルエルは深いため息をついて答える。
「本当はそんな事はしたくは無いのですがね。物事には優先順位と言うものが存在します。私達の一番はヒューとの平穏な生活、その為には、多少の事には目をつぶりますよ。」
それは、シャルルマーニュ如き小者は、何時でも潰す事が出来るのだ、と言う言葉にしない自信。
「はぁ、エルダーエルフにとって、僕は多少の事、ですか?まあ、今は、仕方ありませんね。」
そう肩を竦めると、シャルルマーニュは無防備に背中を向けた。
「行きますよ、姉上。これ以上留まっても得られるものはなさそうです。」
いつの間に集まっていたのか、マリー・クレールの周囲にはベイリン帝国の騎士達が控えている。その殆どが、どこかしらに負傷を追っていた。
「ふむ。」
少し考えて、シャルルマーニュは自分の着ていたトーガのような衣装を脱ぐと、手近な騎士に渡す。
「アリアドネシルクだ。まだ、治癒効果は残っている。至急、怪我人に振り分けて動けるようにしなさい。ここは直に魔素が溢れる可能性がある。出来るだけ早急に離れる。」
無言で頭を下げる騎士達と対照的に、ギャンギャンと喚く姉を無視して、シャルルマーニュは北の空を見上げる。
「あの子に逃げられてしまったな。残念。
あれ?そう言えば、アレクはどうしたのかな?」
ついでのように呟いた。
「エルエル、セイは繭に保護したわ。上手くいけば、無事に乗り切る事が出来る、かもしれない。」
去って行くシャルルマーニュたち一行を確認したエルエルに、アリアが告げる。
遊牧民族タウ族族長の妻、出産を間近に控えた臨月のセイだが、気を失った彼女を預けられるタウ族は周囲に見当たらない。幾人かは逃げおおせたと期待しているが、全滅の可能性もあるのだ。辛うじて、助ける事が出来たセイも、このまま魔素に飲まれては、生き延びたとしても魔人化する。
エルエルの土魔法でドームの中に休ませ、更にアリアの巣を作る為の強固な糸で囲った。
上手くいけば、子供だけでも救う事は出来るかもしれない。
「ならば、ここで出来る事は、」
「もう、無いわ。」
「なら、行こうか。」
「ええ、行きましょう。」
エルエルはアリアに手を伸ばす。
その手を掴んで、アリアは笑った。
「この500年とちょっと。楽しかったわ。」
「そうだね。でも、諦めるのはまだ、早いんじゃないかな。」
「そうかしら。」
「私はね、欲張りなんですよ。強欲、と言っても良い。」
「知ってるわ。だから、なんでも拾って来るのでしょ。」
くすくすと笑うアリアはヒューといる時とは違い、少女の様だ。
「そうだね。それはこれからも変わらないよ。アリアにも付き合って欲しいんだ。」
「私にだって、寿命と言うものはあるのよ。」
「そうなんだけどね、だから、ちょっと実験に付き合って欲しいかな。」
そんな軽口を叩きながらも、二人は空を飛び、魔の谷の真上についた。
エルエルが言葉と裏腹に、厳しい表情をし、内心ではかなり苦渋に満ちている事をアリアは感じている。
その理由は、魔の谷に近づくにつれ、明白になった。
暴走した魔法に延々と注がれる魔素。
谷一面が火の海となり、吹き上げる熱風に魔素が溶けて、インゲルハイム王国側に流れていた。夜の街にざわめきが生まれているのも、遠目で感じられる程だ。
「これは、抑えられないですね。」
「そう、ね。」
この業火では、もう、谷に住んでいたものたちは皆、生きてはいないだろう。火が回る前に逃げ延びていれば、幸いだ。
「どうするの?」
アリアの問いにエルエルは静かにけれど決然と告げた。
「創世魔法を使います。
この谷の魔素を全て使って、谷を広げ、魔素で汚染されたインゲルハイム王国を大陸から切り離します。
アリア、あなたの魔力も全てもらいますよ。」




