12 惨劇
アレクサンドルは、そこここが燃え、吐き気を催す臭いが充満する血塗られた荒野となった平原に着飾って現れた場違いな兄夫婦を、恐怖をもって見つめた。
確かに、ヒューが魔物に襲われそうになったこの光景を見た。それを未来視、と言うならそれも良いだろう。兄夫婦が、そんなあやふやな話を真剣に聞いて、私兵を手配してくれたのは、嬉しかった。自分の同行を許可してもらえたのも、感謝しかない。けれど、どうして平然とこの地獄のような現場に立って、そんなに嬉しそう、なんだ?
「アリア!アリア、アリアっ」
ヒューの悲痛な叫びに、混乱しているアレクサンドルの頭は更に混乱する。
「アリア?」
アリアって、ヒューの母親代わりの人、じゃ無いのか?
何故、魔物に縋りついてその名を呼んでいる?
ヒューは幻覚を見せられているに違いない。
アレクサンドルがそう思ったとて仕方が無い。それ程、その魔物は、アレクサンドルが抱いていたヒューのアリアとはイメージが異なる。
「ヒュー、それは、君のアリアさん、じゃない。魔物だ。」
ヒューの細い肩を掴み、引き離そうとしたアレクサンドルは、突然、物凄い力で弾かれた。
「無・シン・者、ヒュー・触・不・可!(しん無き者、ヒューに触れるべからず)」
ビリビリと世界が震えた。
それ程の威圧の籠った言葉を発したのは、蜘蛛の魔物に抱きかかえられ、氷の矢に射られ、半ば凍り付いた少女だった。
その声には聞き覚えがある。やはり、それはリンクなのだろう。だけど、
「リンク?」
信じられない、とアレクサンドルの声は震えていた。
緑の肌、ぎょろりとした眼に、尖った長い鼻、その醜い容姿は幼子の体長しかなく、体に比して手足が非常に大きかった。
「おまえ、ゴブリン?」
切られた腹部から、溢れる緑の血も凍りついていた。そのお陰か、瀕死の重傷にも拘わらず、リンクは意識を失う事無く、ヒューを護る最期の術を発動することが出来た。けれど、魔力は使い果たした。もう、あまり時間は残されていない。
「私、クイーン。ゴブリン、違う。ヒューの、為の、クイーン。」
「リンク!リンク、しっかり、」
「ヒュー、大好き。」
頑張って笑う。それは、醜いゴブリンクの顔を歪に歪ませる結果となり、アレクサンドルのような普通の人間には、酷く恐ろしい物に見えた。
けれど、ヒューはためらいなく、そのゴブリンに手を伸ばした。
弾き飛ばされ尻餅をついた状態のアレクサンドルは、目の前の出来事が信じられない。
アリアはヒューの母親代わりの女性では無く、巨大な蜘蛛の魔物・アリアドネ。
リンクはヒューの姉妹か友人の少女では無く、醜い小鬼の魔物・ゴブリン。
では、ヴァンとエルエル、ライムは?
彼らは果たして人間、なのか?
いや、ひょっとして、ヒューも人間では無く、魔物、なのか?
「誰か!この醜い化け物をさっさと処分しなさい。アリアドネはこのまま凍らせて工房へ運ぶわ。」
アレクサンドルの心の中がどれほど惑乱していようと、戦場は動いて行く。
マリー・クレールの指示により、凍り付いたアリアドネは、ベイリン帝国の騎士達によって、この場から運び出す為、鎖をかけられる。一方、処分を求められたゴブリンとそれを庇おうとする子供の頭上には、情け容赦なく、剣が振りかぶられている。
騎士はちらりとアレクサンドルの方を見た。インゲルハイム王国の第二王子が、茶色の巻き毛の子供を気にしていた事を知っていたからだ。
だが、アレクサンドルの口から、制止の言葉は発せられなかった。
それならば、と騎士は戸惑う事無く剣を振り下ろした。
その時になって、漸くアレクサンドルは気が付く。止めさせなければ、と。
しかし、それは、時すでに遅く、彼の大切な子供は、無残にも切り殺されてしまった。
筈、だった。
しかし、現実は、騎士の剣は、ヒューを傷つけることなく、粉々に砕け散った。
「無・シン・者、ヒュー・触・不・可、ですか。特異能力・王威、見事に発動していますね。リンク、それでこそゴブリンクイーンです。」
炎の向こうから静かな殺気を帯びた声が近づいて来るのに、アレクサンドルは動く事が出来ない。尻餅をついた体勢そのままに、体が地面に沈み込んでいく。
「リンクは、ヒューを護ったのですよ。ゴブリンの中でもごくまれにしか生まれない王、しかも、更にまれなる女王。その女王の特殊能力・王威に、逆らえる者は、それこそ、真なる王だけでしょう。」
アレクサンドルを拘束し現れたのは、スラリと背の高い、華奢なプラチナブロンドの長髪の美丈夫。
「エルエル!助けて、エルエル。アリアが、リンクが、死んじゃうよぉ」
彼が、エルエル・・・。
人間を越えた圧倒的な美貌に、その場の全員が支配された。
冷たい物言いながらもアレクサンドルを完璧に治療し、転移陣を使って彼を送り返した凄腕の魔法使い。その容姿に加え、彼の大きく尖った耳が、エルエルがエルフである事を証明していた。
始原の森に住み、他種族を見下し、外界に出る事の滅多に無い、と噂されるエルフは、腕の中にぐったりとした遊牧民の女性を抱いていた。
「セイ姉ちゃん!」
泣いていたヒューの目から更に涙が溢れ出る。
「どうして、セイ姉ちゃんまで。」
「君のせいなの?君が僕らを捕まえるために、キャラバンを襲わせたの?
酷い、どうしてこんなことが出来るの?セイ姉ちゃんはお腹に赤ちゃんがいたのに。もう少しで生まれるところだったのに。
全部、全部、君のせいなの?」
アレクサンドルは初めてヒューと視線があった。この恐ろしい結末を招いたのが、自分だと糾弾するその事実に、直ぐに目を逸らす。
「ううん、違う。僕のせいだ。僕が、君なんか見つけなきゃ良かったんだ。あのまま、あそこに放置しておけば・・・。君なんか助けるんじゃ無かった!」
ヒューの言葉はアレクサンドルの胸を抉った。
楽しかったあの日々が、全て、裏切りの色に塗り替えられていく。ヒューのアレクサンドルを見る目は、間違いなく憎しみ。
違う、と声を大にして叫びたい。
けれど、アレクサンドルの喉は、何か苦い物が詰められたように、声を出すことが出来なかった。
「あーあ、可哀想に。アレクはね、君が魔物に襲われる未来を視て、助けに来たんだよ。
まあ、それが、盛大な勘違いだったんだけれどね。」
いつの間にそこにいたのか。
シャルルマーニュは、ヒューから向けられる憎しみの視線に射すくめられ、凍り付いたように動けないアレクサンドルの頭を持ち上げ、その目を覗き込むように見つめながら、そう言った。
「でもって、その気持ちを僕の姉に利用された。ただそれだけ。」
「シャルルマーニュ?そんな所にいないで、ちゃんと役に立ちなさい。」
突然、現れたエルエルの美貌に呆然と目を奪われていたマリー・クレールだったが、弟の嫌味に我に返った。
「やれやれ、人遣いの荒い。僕は十分、有用だったでしょう?」
肩を竦めたシャルルマーニュは、アレクサンドルの右目をべろりと舐めた。
そして
「ご馳走様。」
そう言うと、手に持っていた血塗られた剣で、アレクサンドルの顔を切りつけた。
変性した右目の中心に縦にすっぱりと線が走り、大きく血が噴き出た。
「え?」
その声は、誰から発せられたのか?
切られた当人は元より、憎々し気に睨んでいたヒューも、何が起こったのか理解が追い付かない。警戒していたエルエルも予想外の出来事だった。
「うん、僕らベイリン帝国以外の変性者は困るんだよね。ましてや、未来視、なんてさ。」
かつては若葉色だったシャルルマーニュの右目が、濃紺に染まる。
シャルルマーニュは、その舌で味わったアレクサンドルの変性した右目を、解析し、自らに再構築してみせた。
「この能力は、僕だけでいい。」
だから、奪った。右目ごと。
「あぁ、インゲルハイム王国は今日で終わりだ。」
そして、未来を視て、笑った。




