10 追跡
「ヒュー!危ない!」
目の前に拡がる光景に、アレクサンドルは叫び、手を伸ばす。
人々の叫び声、ゴウゴウ、バチバチとテントが燃え上がり、馬が狂ったように走り回る。夜の闇の中、どう見ても襲撃されている人々の中に、あの子はいた。
顔など見えなくてもアレクサンドルにはわかる。
今まさに、巨大な魔物があの子に覆いかぶさろうとしている。
「ねぇ、何が見えたの?」
耳元で囁かれ、ハッとしてアレクサンドルは飛びのいた。
慌てて辺りを見回すも、そこは豪華な王宮の自室で、明るい陽光が降り注いでいる。人の焼ける嫌な臭いも、逃げ惑う姿も無く、平和そのものだ。
「え、あ、何?」
彼の横には薄笑いを浮かべた少年がいる。
「ねぇってば、何が見えたの?教えてよ。」
「シャルルマーニュ皇子?」
「君の能力と僕の能力って、ひょっとしてすごく相性が良いのかも。ねえ、見えたのって、このリボンの関係者でしょ。」
ヒュー!
「なんで知ってるんだ!」
「アハハー、やっぱり。君の能力って多分、未来視だよ。って過去視の可能性もあるんだけどさ。で、どんなのが見えたの?」
ワクワクと身を乗り出すシャルルマーニュ皇子と、アレクサンドルは午後のお茶の最中だった事を思い出す。
シャルルマーニュの能力で、アレクサンドルの持つ包帯の製作者は、既に国外にいる事がわかっている。毎日移動している様で、先程まで、地図を見ては居場所を予想していたところだ。
突然、アレクサンドルの右目に痛みが走り、映像が見えた。
これが、変性して得た能力、と言うのか。
上手く消化できないまま、アレクサンドルは、見えたままを語る。
「夜、だった。辺り一面火の海で。テントが燃えていて。助けを求めて走る人も燃えていて。馬が鳴いて。子供の泣き声もして。」
「ヒューがいた。」
「必死で腕を伸ばしていて。でも、覆いかぶさるように大きな影が。あれは、魔物?」
魔の谷で見た蜘蛛型の魔物より、遥かに巨大な蜘蛛の魔物がヒューに迫っていた。その背には誰かが乗っていて。
「助けなきゃ。僕が、ヒューを助けなきゃ。」
アレクサンドルは駆け出した。「兄上!」
「これは、これは、結果が楽しみだ。」
シャルルマーニュが実に楽しそうに笑う。アレクサンドルの変性した能力の証明は直ぐにつきそうだ。
「役に立ってくれるかなぁ。まあ、役に立たなくてもそれなりに使うんだけどさ。」
流石に、”未来視”かもしれない異能で見た未来を変えるために、兵や騎士団を派遣する訳にはいかないだろう、とラインハルトは、父王に相談せず、自らの私兵を数人、アレクサンドルに貸してくれた。
シャルルマーニュの連れて来た護衛騎士たちと共に、右目に映った光景、魔の谷の向こう、ベイリン帝国との緩衝地帯たる平原に、アレクサンドルは馬車を走らせたのだった。
「もう、ここまでで良いですよ。ありがとう、セイ。」
「ありがとうね、セイ姉ちゃん。」
「そうかい、じゃあ、今晩は盛大に宴を開こう。エルダーさま達の無事を祈らせて下さい。」
魔の谷の向こうに夕日が沈み始める頃、タウ族のキャラバンは野営の準備を始めた。
長であるケーンの妻セイは、名残惜しそうに恩人を見上げる。白銀の長い髪を緩く一つに編んで、ゆったりとした旅装に身を包んだ長身の男性は、大切そうに傍らの子供の肩に手を回し、申し訳なさげに言う。
「すみませんね、本当はセイの出産には立ち会いたかったのですが。」
「あー、それは気にしないで。ケーンも明日には合流できるって伝書鳩が知らせて来たし、婆さまたちだってちゃんといるんだ。それに、ここでお別れなのもあたしの体調を気遣ってなんだろう?エルダーさまにも奥方様にもこれまで、十分にしてもらっているんだ。それより、予定を遅らせちまってるんじゃないかと、そっちの方が心配だよ。」
豪快に笑いながら己の大きくなったお腹を軽くだが、パンパンと叩くセイにヒューの方が気が気では無い。
インゲルハイム王国とベイリン帝国の間、魔の谷の緩衝地帯の草原を北から南に南から北に、遊牧して生活する騎馬民族タウ族の長ケーンとその妻セイの間には長い間子供が出来なかった。仲が良すぎるからだ、とからかわれるぐらい、いつまでも熱愛夫婦だが、長に子供が出来ないのは部族として考えると困った問題だ。
ケーンは族長を降りても良い、と考えているが、二人ともまだ、20代前半と十分に若い。移動生活を基本とする騎馬民族故に結婚も10代半ばと早く、早々に子供を一人前に育てるのが、通例となっているが、子供を諦めるには早すぎた。セイは妊娠はするのだが、流産してしまうのだ。
そんな彼らにとって、エルエルは福音をもたらした。
元々、魔の谷に迷い込んだ家畜を見つけて引き渡した一件から始まった関係だが、常に移動する遊牧民と谷に引きこもる家族。お互い、付かず離れずの丁度良い距離感をとりつつ、交流を深めていた。そんな中、タウ族が何気に摂っている食事の中に、妊娠初期には毒になる植物が含まれている事をエルエルが気付いた。セイの悪阻が食欲不振をもたらすものであったなら、摂取量も少なく、大事には至らなかったかもしれない。けれど、彼女は普通に食べる事が出来た。ただそれだけで、流産していた事実は本人には秘されているが、食生活を変えた事で、無事、安定期を迎え、来月には予定日を迎える。
長のケーンと産婆役をこなす年長の女性たちには、注意すべき植物は伝授済みだが、これをきっかけに、タウ族とエルエルたちの交流は深まった、と言える。
今回、インゲルハイム王国を出国するにあたり、エルエルはタウ族に協力を求めた。
脚の悪いアリアの移動にはどうしても大型の馬車が必要だったからだ。大型の馬車は目立つ。中身を改められることは必須だ。けれど、元々、入国していない馬車の中を確認される事は無い。
馬車の用意が出来たと連絡を受け、夜陰に紛れ、魔の谷を出発したヒューたち一行は、国境警備の騎士達に見とがめられることなく、タウ族に合流する事が出来たのだった。
インゲルハイム王国を出て後、人目を避け、魔の谷の影響を受けるギリギリの端を移動している。念のため、長のケーンをリーダーに精鋭たちが、エルエルたち本隊の後を1日遅れで進み、追手の有無などの情報収集と攪乱を行ってきた。
けれど、これ以上は、タウ族に、特に妊婦であるセイに影響が出かねない、と別れる事を決める。本当は、もっとずっと早くに別行動をとる予定だったのだが、タウ族が付いてきた、と言うのが正しい。お陰で道中は賑やかで、子供達が殺された件で落ち込んでいたアリア(奥方様と呼ばれている)やヒューに笑顔が戻っている。
後衛のケーンたちを待つ為、明日もこの地にキャンプを張るタウ族たちは、二日酔いなど気にせず、豪快に飲んで歌って踊った。
その宴の名残を、ゴブレット片手にぼーっと眺めるヴァンに、エルエルが声をかける。
「不寝番、ご苦労様です。」
「ああン、何だ?ちゃんと真面目にやってるだろ。」
じっと手の中のゴブレットを見られているのはわかっているが、この程度の酒で酔うはずが無いのはお互い知っている。
「おい、このまま、黙って行っちまっていいのかよ。」
ガバリとゴブレットを傾けたせいで、ヴァンの口の端から乳白色のアルコールが零れ落ちる。
馬の乳で作った馬乳酒と呼ばれるアルコールと呼ぶには度数の低い健康的な飲み物だ。遥かにアルコール度の高いアルヒを宴の時に飲んでいたのを知っているから、一応は不寝番の役目をきちんと考えているのだろう。
「良いわけが無いでしょう。」
今日まではタウ族と行動を共にしていたから、我慢していた。ヒューを泣き顔にした輩に罰を与えないでどうする、と、にこやかに笑いながらエルエルは言う。
『こいつの方が、俺様よりよっぽど怖ぇよ。』
そんな内に秘めた怒りは、見えない分、計り知れない。
「なら、どうするんだよ。」
「今なら、皆、寝静まっていますから、あなた、ライムをちょっと連れて行って、暴れて来て下さい。」
「ライムをちょっと、って・・・。別に、良いけどさ。簡単に言ってくれる。」
「だって、簡単でしょう?」「ま、そうだな。」
その言葉と同時に地面にごとん、とゴブレットが落ちた。既に、ヴァンの姿は無い。
「せめて、手渡して欲しいですね。」
はあ、と溜息をついて、それを拾うと、エルエルは何処からともなく水を生み出して、ゴブレットを洗う。
「残ったライムは、私と不寝番です。」
エルエルの後でごそ、と地面が小さく音を立てた。




