1 王子アレクサンドル
「大丈夫?」
おずおずとかけられた声に、口を開こうとしたが、ひび割れた唇から漏れるのは、僅かな吐息のみ。もう、目を開けるのもつらい。
このまま、死んでしまうのか。
アレクサンドルは薄れ行く意識の中、そう思った。
どうしてこんな事になってしまったのだろう。
ちょっと冒険してみようと思っただけだった。
アレクサンドルはインゲルハイム王国の第二王子だ。兄であり、王太子である第一王子のラインハルトはアレクサンドルより10歳年上の20歳。先日、成人を迎え、婚約者との結婚式を終えたばかりだ。仲睦まじい王太子夫婦の間に、世継ぎの子供が生まれるのは、そう遠くないだろう、と、宮廷雀たちの姦しい噂話も、アレクサンドルの耳に入って来る、一応は、王太子に何かあった時の予備であるアレクサンドルの役目も早々に終わりを迎えそうだ。
随分、年の離れた弟であるアレクサンドルは、王位争いとは無縁で、国王夫妻や兄王太子に大層可愛がられて育った。インゲルハイム王国は小国ではあったけれども、世界唯一の魔素工房と西のラムー大陸との貿易で賑わう豊かな国だった。そんな国の第二王子は、他国の王子たちに強いライバル心を持っていた。彼らの持つ物をアレクサンドルも欲した。最高級の宝石や伝説の武具、世界の果ての珍獣まで。
そんな中に、ベイリン帝国の皇子が自慢げに告げた冒険譚があった。
曰く、『魔の森の奥にある祠に名前を刻んできた』と言うものだ。
魔の森はベイリン帝国の北に存在する巨大な森だ。魔獣が跋扈し、人の立ち入りを拒む。
その話を聞いたのはアレクサンドルの兄であるラインハルトの結婚披露宴でのことだ。
お相手がここランティス大陸一の大国ベイリン帝国第2皇女であった事から、世界中から王族が招待された、大規模な結婚式になった。アレクサンドルはホスト役として、同年代の各国の子息令嬢たちをもてなしていた。
ふふん、と自慢げに、己の冒険を語る皇子は、その第2皇女と同腹の皇子であり、アレクサンドルと同じ年齢だった。同席した子供たちの注目が集まる。
『僕の兄上の結婚式なのに』
面白くないアレクサンドルは、つい、自分にも出来る、と公言してしまう。
そこから先は、子供の言い合いの常で、「出来る」「出来ない」「誰かに行かせるんだろう?」「そんなことするか、独りで行く」と。
流石に他国の王子を自国の魔の森に連れて行く訳にも行かず、ましてや、何かあっては、国際問題だ。
いち早く冷静に戻った帝国の皇子は、インゲルハイム王国の魔の谷を引き合いに出した。
「そんなに言うなら、自分の国にある魔の谷に行けば良いだろう?」
魔の谷。
そう言われてアレクサンドルも、一気に頭が冷えた。
魔の森の事は、全く知らないので、名前だけ聞いてもピンとこない。けれど、魔の谷、は別だ。
豊かなインゲルハイム王国を手に入れたい国は多い。けれど、魔の谷の存在が、最後の引き金を引かせないのだ。
魔の谷
魔の湖
魔の森
魔の山
この大陸に存在する四つの魔素だまりの存在する場所。
それぞれが、膨大な魔素を秘めた土地で、人間の侵入を拒んでいる。人間に許されるのは、せいぜいその端っこで僅かな魔素を採取する事だけだ。
魔の山からは魔石を、魔の森からは魔樹を、魔の湖からは聖水を(魔水と呼ばないのは印象操作だ)。
それぞれ、熟練した職人がわずかな時間で採取している。のんびりしていれば、採取する人間が、魔素に当てられて変性してしまうからだ。職人を育てるには莫大な時間と労力がかかる。そんな卓越した技術者を失う事は、国の損失に繋がる。その為、ある国では何百人と言う奴隷を使って、リレーのように魔素の採取を行っている。それでも、毎日、何人もが変性し、命を失う。それだけならまだしも、変性してもなお、生き残った場合。それは既に人では無く、人外、だ。”人外”は魔力を持たない人間に対し、強い憎悪を持っている。いや、真実は、人間に対し強い憎悪を持つ者が変性した時に”人外”になる、のではないだろうか、一部ではそう囁かれている。
魔の谷は、北と西を海に囲まれたインゲルハイム王国の東を縦断する深い渓谷で、広大な草原を挟んでベイリン帝国との国境に当たる。そこに橋は無く、外からの訪問者は北の回廊と呼ばれる、海と谷との間の狭い道か、遥かに南に下って抜ける必要があり、侵入者に対しては、非常に強固な天然の防御設備となっている。
東からの旅人は、緑の草原がやがて、赤茶けた大地となる辺りで、北と南を指し示す道標に突き当たる。それを無視し、赤い大地を行けば、唐突に足元は消え、魔の谷が、ぱっくりとその死の口を大きく開いているのに飲み込まれてしまうだろう。それは、巨大な神の手が大地を引き裂いた為に生じた亀裂。大地に刻まれた傷跡。その底に満ちる魔素は、長い年月をかけ濃縮され、それ自体が重さを持つ気体となり、生き物全てを拒絶する。
遠くからでも、魔の谷に蠢く魔素は感じ取れる。特に、風の強い日には、魔素が谷の上まで上がってくることがあり、空がゆらゆらと揺らめき、谷の上を飛ぶ鳥の中には、当てられて変性するものもあるらしい。
そんな恐ろしい話を、インゲルハイム王国の子供たちは聞かされて育つ。それは王子であるアレクサンドルも例外ではなく、魔の谷が、どれだけ過酷で恐怖の対象か、想像に難くない。
そんな恐ろしい場所に自ら足を踏み入れる、そう思っただけで、アレクサンドルは眠れなくなりそうな恐怖に震えた。
真っ青になる第二王子に、他国の貴顕たちは、流石にそれ以上煽り立てる事はしなかった。
けれど、王太子の結婚式が無事に終わり、段々と日常が戻って来ると、ベイリン帝国の皇子に、馬鹿にされた、と言う思いばかりが、アレクサンドルをイラつかせるようになった。
インゲルハイム王国では風車を利用した魔素の汲み上げが行われている。他国と異なり純度の高い魔素を扱う為、平民の技術者をおかず、特殊な魔素防御服を着た騎士達が、その風車の管理をしていた。そして、風車に隣接する魔素工房勤めのその騎士達の中に変性した者は一人もいない。秘密保持契約が徹底されていることも、王子と言えどアレクサンドルに魔の谷の真の恐ろしさを見誤らせた一因だったのかもしれない。
ひょっとして、魔の谷は、言われている噂話やその見た目より、実は、恐ろしい場所ではないのではないか?そんな油断に通じる浅慮が頭をもたげる。
様々な原因があって、今、アレクサンドルは魔の谷の半ばで、力尽きて倒れている。
行先はちゃんと書置きに残して来た。だから、帰って来なければ、誰かが探しに来るはずだ。
そう、思っていたのに。
アレクサンドルがこの谷に入ってもう丸一日は経つ。
ドキドキ、ワクワク高揚していた気持ちは、谷底を覗いた瞬間には消え失せていた。震える足は、まともに動かず、前日まで降っていた雨でぬかるんだ地面で足を滑らせた。その拍子に、アレクサンドルの小さな体は、斜面を転がり落ちた。運良く途中の何かに引っかかったようで、気が付けば、木の葉が堆積した狭い空間に転がっていた。滑落した時に痛めただろう左足首がジンジンと痛む。更に、右脇腹に刺すような痛みがあり、そこに小枝が刺さっているのに気が付いた時には、ゾッとした。
アレクサンドルは弓と剣を持って来ていたが、装備は怪しまれないよう、軽い皮鎧だけだった。それを突き破って、飛び出した枝の先から、血が滲んでいる。抜いたらマズい、と本能で知る。
辺りはドンドン暗くなっていく。当然、野営の準備などしておらず、食料もおやつ程度しか持っていなかった。
おやつは早々に胃の中に消えた。喉が渇く。頭が痛い。寒い。
ずるっと何かが這う音がした。
何も見えない闇の中、恐怖だけが増していく。
『やってやる、やってやる。ただで殺される訳にはいかない。僕は、アレクサンドル。誇り高きインゲルハイム王国の王子だ。』
胸に抱きかかえていた剣を抜こうとするが、手が震えてカタカタと音が上がるばかりで一向に抜ける様子が無い。握力が既に失われつつあり、剣の柄をしっかりと握れていないのだ。
ガサ、とすぐ横で落ち葉が音を立てた。
「大丈夫?」
突然にかけられた声に恐怖と安堵でぐちゃぐちゃとなったアレクサンドルは、気を失った。
「え?ちょっと、うわぁ、ライムー。助けてー。」
その声はもう、アレクサンドルには届いていなかった。




