ヘレナ再び
地下の密室に案内されたノアは、思いがけない人物と再会した。
「セリオス?」
「あぁ、待ってたぞ、ノア」
部屋にあるテーブルには、湯気の立つカップと広げられた地図が置かれている。セリオスは軽くカップを持ち上げ、一口飲んでからゆっくり立ち上がった。
「ヘレナからお前を連れてくるように言われたが、調子はどうだ?」
「大丈夫」
ノアの短い返答に、セリオスはじっと彼を見つめた。包帯の巻かれた腕、ギプスで固定された手――その姿に、ほんのわずか眉を寄せる。
「随分、無茶をしたようだな」
ノアは答えず、ただ視線を外す。セリオスは深くため息をつくと、ノアの肩に手を置いた。
「まぁいい。ヘレナが待っている。行くぞ」
セリオスの手がノアの肩に触れた瞬間、視界が一変する。次の瞬間、ノアたちはヘレナの書斎に立っていた。
本棚が壁一面を埋め尽くし、古書の香りが漂う部屋。ペンが紙の上を滑る音が微かに聞こえる。広々とした机には積み上げられた書類と、封をした手紙がいくつも並んでいる。
ヘレナは机に向かってペンを走らせていたが、ノアたちの気配を感じて顔を上げた。
セリオスはヘレナに頷き、その場から消えた。
「いらっしゃい、ノア」
穏やかな声でそう言いながらも、包帯で覆われたノアの腕を見て、彼女の眉がわずかに寄る。
「ヴィクターから話を聞いたわ。怪我の具合はどう?」
「痛みはだいぶ引いた」
ノアの返事に、ヘレナは目を細め、短く息をついた。彼女は机の上の手紙を片付けながら、ノアをじっと見つめた。
「そう……でも、そのまま放っておくわけにはいかないわね」
彼女は椅子から立ち上がると、書斎の隅に向かって短く指を鳴らした。
「ミネーヴァ、例の物を」
黒い影が足元から音もなく広がる。影の中から、黒猫が姿を現した。その口には厳重に封印された匣がくわえられている。ミネーヴァは俊敏な動きで匣を机の上に置くと、影の中へ再び消えていった。
「これは?」
「【毒蛇の葯杯】、傷を癒すための秘宝よ」
ヘレナが答えると同時に、匣の封印が赤く光り始めた。彼女が手を触れると、封印が解かれ、中から蛇が巻き付いた精巧な杯が現れる。
「この杯に触れてちょうだい」
「……わかった」
アカデミアの上空に放り出された記憶が鮮明に残るノアは、得体の知れないものに触れることに少し抵抗を感じていた。しかし、ヘレナが自分に危害を加えることはないと判断し、慎重に杯に触れる。
巻き付いていた蛇の目がゆっくりと開き、鋭い牙から透明な液体がにじみ出て杯の中心に滴り落ち、静かに広がった。
「健康な者には毒を、病を持つ者には癒しの薬を与える……そういう秘宝よ」
ヘレナは淡々と説明しながら、ノアをじっと見つめた。
「薬が生成されるまで少し時間がかかるから、その間に今回の任務について話しましょう。ヴィクターから概要は聞いたけれど、あなたの口から直接聞いておきたいの」
「言うことは変わらないけど」
ノアはそう言いながら、指輪を軽く操作して丸盾の秘宝を召喚した。
何重にもエーテル隔離作用のある布で包まれたそれを、静かにテーブルの上に置く。
ヘレナはそれをちらりと一瞥すると、ノアの言葉に耳を傾けた。彼女の影がゆっくりと伸び、テーブルの上の秘宝を包み込む。
その瞬間、指輪がブルリと震え、ノアの脳内に小さな声が響く。
『……しょ、触手……!』
「……?」
ミネーヴァが悪口を言われたような気がして、困惑した目でノアを見つめた。
指輪は必死に気配を隠した。
ノアは無表情のまま話を続け、今のやり取りを無視した。
アカデミアの時計塔に隠された秘境、その中に広がる昔のアタリカの街並み。そして、その中心に立つ巨大な神殿と、神殿に祀られた女神像――その像が秘宝と同じ丸盾を持っていたこと。教廷の者たちとの戦闘が秘境の崩壊を引き起こしたこと。
ノアの話を聞きながら、ヘレナは時折的確な質問を挟みつつ、静かに耳を傾けていた。
ノアは指輪の指示で、脱出の経緯やいくつかの内容を意図的に変えつつ、必要な情報を伝え終えた。その頃には、紅茶が三度入れ替えられていた。
「……女神像、ね」
ヘレナは何か思い当たることがあるらしく、考え込むように視線を落とした。
その時、蛇が巻き付いた薬杯が淡い光を放ち、中身が満たされたことを告げる。ヘレナが促すと、ノアは杯を手に取り、一気に飲み干した。
ほんの少しの苦味が舌に残る。しかし、ルーカス特製の治癒薬のあの地獄のような味を思い出し、ノアは「これくらいなら」と心の中で安堵する。その瞬間――。
全身から痛みがすっと引いていくのを、はっきりと感じた。
「……治った?」
ノアは驚きながら、自分の手をグーパーと握ったり開いたりする。最初から怪我などなかったかのように、体のどこにも異常は見当たらない。
「人の手で直すには時間がかかる傷でも、秘宝なら一瞬よ。ただし、一瞬で治ったと知られるのは怪しまれるから、包帯を外すのはしばらく我慢してちょうだい」
包帯を外そうとしたノアを制し、ヘレナは微笑みながら穏やかに言った。
「……わかった。秘宝も渡したし、もう帰っていい?」
ノアが立ち上がろうとするのを、ヘレナは軽く首を振って制した。
「そんなに急がないで。アカデミアでの生活のことも聞きたいし、あなたの好きなスイーツも用意してあるのよ」
その一言に、一瞬動きを止めたノアが、無言のまま席に戻った。その姿に、黒猫のミネーヴァはノアの首に「餌待ち」の札がぶら下がっているように見え、半ば呆れたように尻尾を揺らした。
「……」
ミネーヴァはぼんやりと、もしかしたら自分が猫ではないのではないかと考えた。それでも、少なくともノアより純度の高い猫ではない、と感じるのだった。
ノアは静かにスイーツに手を伸ばしながら、アカデミアでの日々を語り始めた。
森では想像もしなかったほど多様な人々がいること、理解に苦しむ価値観に触れること、複雑で煩わしいルールに縛られる生活のこと。
入学式での喧騒、図書館での出会い、迎春祭での踊り――。
ノアの口から語られるのは、彼がこれまでに経験し得なかった新しい世界。その記憶をたどるように、言葉をひとつひとつ慎重に選びながら、彼は話を続けた。
新しい出来事や人々の名前が出るたびに、ヘレナはただ静かに微笑み、ノアの語りに耳を傾けた。
暖かな昼下がりの書斎にあるのは、少年の穏やかな語りとスプーンが皿に触れる軽やかな音、そして黒猫の眠そうな欠伸を。
「……エミールは臆病で、カイはいつもイライラしている。レオはイビキがうるさくて、カイに怒られてばかり。僕がいないと、この群れはどうにもならない」
ノアが静かに締めくくった言葉に、ヘレナは思わずクスリと笑い、柔らかな目で彼を見つめた。
「たくさん友達ができたのね」
その声には、まるで遠くを見つめるような優しさと、微かな安堵が滲んでいた。
「友達……」
ノアはその言葉に小さく首を傾げた。
本には、人は群れて生きるものだと書いてあった。けれど、ノアにとってその考えはどこか遠いものでしかなかった。森で一人で生きることに慣れ、すべてを自分でこなしてきた彼には、人の助けを必要と感じる機会などほとんどなかった。
だから、『友達』という言葉も、ノアにとっては曖昧でつかみどころのない概念だった。
ただ……。
彼の脳裏に浮かんだのは、狭いとはいえ心地よい寮の一室の光景。エミールの心配そうな声、レオの軽口、カイの気難しそうな反応。それぞれの声が重なり、時にはぶつかり合う――そんな賑やかな空気を、ノアはいつの間にか居心地がいいと感じていた。
『友達』と呼ぶべきなのかは、ノアにはまだわからない。けれど、それが『一人では得られないもの』だということだけは、少しずつ理解し始めていた。
「うん」
ノアが小さく頷くと、ヘレナはその姿を愛おしげに見つめながら、そっとノアの頭を撫でた。
不意の行動にノアは困惑した目線を向けるが、ヘレナは微笑みを浮かべたまま語りかける。
「私はね、ノア、君があの森以外にも居場所を見つけてくれたことが、本当に嬉しいの」
その声には優しさと深い感慨が滲んでいた。
「人はね、人と関わり合うことで成長していくものなの。孤独の中だけでは見えないものが、人との繋がりの中で見えてくる。だから、君がアカデミアで誰かと時間を共有していること、それを私は嬉しく思うわ」
ヘレナはノアの髪に触れていた手をそっと離し、その目をじっと見つめる。
「ノア、君が見つけたその居場所は、君の人生にとってとても大切なものになるわ。そして、そこにいる人たちは、きっと君に新しい景色を見せてくれる」
「……そうゆうものなの?」
ヘレナの言葉をあまり理解できなかった。
「ええ」
ヘレナは考え込むノアの様子を眺めながら、穏やかな気分で紅茶に口をつけた。その優雅な仕草は、静かな書斎の空気に溶け込むようだった。
しばらくして、ノアがふと顔を上げた。その瞳には迷いがあるようで、けれども何かを確かめる強い意志が宿っている。そして、彼は夜通し頭を占めていた疑問を口にした。
「ヘレナさん……教廷って何? 結社は、僕は何で教廷と戦う?」
時が止まった、そう錯覚しそうなほどの静けさが書斎に訪れる。
ノアのまっすぐな視線を受け止め、ヘレナは紅茶のカップを皿の上に置いた。
カップが皿と触れ合う音が、書斎に異様に響いた。