表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
求道者  作者: 脱走中の患者
アカデミア編
40/41

ヘレナ再び


 地下の密室に案内されたノアは、思いがけない人物と再会した。


「セリオス?」


「あぁ、待ってたぞ、ノア」


 部屋にあるテーブルには、湯気の立つカップと広げられた地図が置かれている。セリオスは軽くカップを持ち上げ、一口飲んでからゆっくり立ち上がった。


「ヘレナからお前を連れてくるように言われたが、調子はどうだ?」


「大丈夫」


 ノアの短い返答に、セリオスはじっと彼を見つめた。包帯の巻かれた腕、ギプスで固定された手――その姿に、ほんのわずか眉を寄せる。


「随分、無茶をしたようだな」


 ノアは答えず、ただ視線を外す。セリオスは深くため息をつくと、ノアの肩に手を置いた。


「まぁいい。ヘレナが待っている。行くぞ」


 セリオスの手がノアの肩に触れた瞬間、視界が一変する。次の瞬間、ノアたちはヘレナの書斎に立っていた。


 本棚が壁一面を埋め尽くし、古書の香りが漂う部屋。ペンが紙の上を滑る音が微かに聞こえる。広々とした机には積み上げられた書類と、封をした手紙がいくつも並んでいる。


 ヘレナは机に向かってペンを走らせていたが、ノアたちの気配を感じて顔を上げた。


 セリオスはヘレナに頷き、その場から消えた。

 

「いらっしゃい、ノア」


 穏やかな声でそう言いながらも、包帯で覆われたノアの腕を見て、彼女の眉がわずかに寄る。

 

「ヴィクターから話を聞いたわ。怪我の具合はどう?」


「痛みはだいぶ引いた」


 ノアの返事に、ヘレナは目を細め、短く息をついた。彼女は机の上の手紙を片付けながら、ノアをじっと見つめた。


「そう……でも、そのまま放っておくわけにはいかないわね」


 彼女は椅子から立ち上がると、書斎の隅に向かって短く指を鳴らした。


「ミネーヴァ、例の物を」


 黒い影が足元から音もなく広がる。影の中から、黒猫が姿を現した。その口には厳重に封印された匣がくわえられている。ミネーヴァは俊敏な動きで匣を机の上に置くと、影の中へ再び消えていった。


「これは?」


「【毒蛇の葯杯】、傷を癒すための秘宝よ」


 ヘレナが答えると同時に、匣の封印が赤く光り始めた。彼女が手を触れると、封印が解かれ、中から蛇が巻き付いた精巧な杯が現れる。


「この杯に触れてちょうだい」


「……わかった」


 アカデミアの上空に放り出された記憶が鮮明に残るノアは、得体の知れないものに触れることに少し抵抗を感じていた。しかし、ヘレナが自分に危害を加えることはないと判断し、慎重に杯に触れる。


 巻き付いていた蛇の目がゆっくりと開き、鋭い牙から透明な液体がにじみ出て杯の中心に滴り落ち、静かに広がった。


「健康な者には毒を、病を持つ者には癒しの薬を与える……そういう秘宝よ」


 ヘレナは淡々と説明しながら、ノアをじっと見つめた。


「薬が生成されるまで少し時間がかかるから、その間に今回の任務について話しましょう。ヴィクターから概要は聞いたけれど、あなたの口から直接聞いておきたいの」


「言うことは変わらないけど」


 ノアはそう言いながら、指輪を軽く操作して丸盾の秘宝を召喚した。


 何重にもエーテル隔離作用のある布で包まれたそれを、静かにテーブルの上に置く。


 ヘレナはそれをちらりと一瞥すると、ノアの言葉に耳を傾けた。彼女の影がゆっくりと伸び、テーブルの上の秘宝を包み込む。


 その瞬間、指輪がブルリと震え、ノアの脳内に小さな声が響く。


『……しょ、触手……!』


「……?」


 ミネーヴァが悪口を言われたような気がして、困惑した目でノアを見つめた。


 指輪は必死に気配を隠した。


 ノアは無表情のまま話を続け、今のやり取りを無視した。


 アカデミアの時計塔に隠された秘境、その中に広がる昔のアタリカの街並み。そして、その中心に立つ巨大な神殿と、神殿に祀られた女神像――その像が秘宝と同じ丸盾を持っていたこと。教廷の者たちとの戦闘が秘境の崩壊を引き起こしたこと。


 ノアの話を聞きながら、ヘレナは時折的確な質問を挟みつつ、静かに耳を傾けていた。


 ノアは指輪の指示で、脱出の経緯やいくつかの内容を意図的に変えつつ、必要な情報を伝え終えた。その頃には、紅茶が三度入れ替えられていた。


「……女神像、ね」


 ヘレナは何か思い当たることがあるらしく、考え込むように視線を落とした。


 その時、蛇が巻き付いた薬杯が淡い光を放ち、中身が満たされたことを告げる。ヘレナが促すと、ノアは杯を手に取り、一気に飲み干した。


 ほんの少しの苦味が舌に残る。しかし、ルーカス特製の治癒薬のあの地獄のような味を思い出し、ノアは「これくらいなら」と心の中で安堵する。その瞬間――。


 全身から痛みがすっと引いていくのを、はっきりと感じた。


「……治った?」


 ノアは驚きながら、自分の手をグーパーと握ったり開いたりする。最初から怪我などなかったかのように、体のどこにも異常は見当たらない。


「人の手で直すには時間がかかる傷でも、秘宝なら一瞬よ。ただし、一瞬で治ったと知られるのは怪しまれるから、包帯を外すのはしばらく我慢してちょうだい」


 包帯を外そうとしたノアを制し、ヘレナは微笑みながら穏やかに言った。


「……わかった。秘宝も渡したし、もう帰っていい?」


 ノアが立ち上がろうとするのを、ヘレナは軽く首を振って制した。


「そんなに急がないで。アカデミアでの生活のことも聞きたいし、あなたの好きなスイーツも用意してあるのよ」


 その一言に、一瞬動きを止めたノアが、無言のまま席に戻った。その姿に、黒猫のミネーヴァはノアの首に「餌待ち」の札がぶら下がっているように見え、半ば呆れたように尻尾を揺らした。


「……」


 ミネーヴァはぼんやりと、もしかしたら自分が猫ではないのではないかと考えた。それでも、少なくともノアより純度の高い猫ではない、と感じるのだった。


 ノアは静かにスイーツに手を伸ばしながら、アカデミアでの日々を語り始めた。


 森では想像もしなかったほど多様な人々がいること、理解に苦しむ価値観に触れること、複雑で煩わしいルールに縛られる生活のこと。

 

 入学式での喧騒、図書館での出会い、迎春祭での踊り――。


 ノアの口から語られるのは、彼がこれまでに経験し得なかった新しい世界。その記憶をたどるように、言葉をひとつひとつ慎重に選びながら、彼は話を続けた。


 新しい出来事や人々の名前が出るたびに、ヘレナはただ静かに微笑み、ノアの語りに耳を傾けた。


 暖かな昼下がりの書斎にあるのは、少年の穏やかな語りとスプーンが皿に触れる軽やかな音、そして黒猫の眠そうな欠伸を。


「……エミールは臆病で、カイはいつもイライラしている。レオはイビキがうるさくて、カイに怒られてばかり。僕がいないと、この群れはどうにもならない」


 ノアが静かに締めくくった言葉に、ヘレナは思わずクスリと笑い、柔らかな目で彼を見つめた。


「たくさん友達ができたのね」


 その声には、まるで遠くを見つめるような優しさと、微かな安堵が滲んでいた。


「友達……」


 ノアはその言葉に小さく首を傾げた。


 本には、人は群れて生きるものだと書いてあった。けれど、ノアにとってその考えはどこか遠いものでしかなかった。森で一人で生きることに慣れ、すべてを自分でこなしてきた彼には、人の助けを必要と感じる機会などほとんどなかった。


 だから、『友達』という言葉も、ノアにとっては曖昧でつかみどころのない概念だった。


 ただ……。


 彼の脳裏に浮かんだのは、狭いとはいえ心地よい寮の一室の光景。エミールの心配そうな声、レオの軽口、カイの気難しそうな反応。それぞれの声が重なり、時にはぶつかり合う――そんな賑やかな空気を、ノアはいつの間にか居心地がいいと感じていた。


『友達』と呼ぶべきなのかは、ノアにはまだわからない。けれど、それが『一人では得られないもの』だということだけは、少しずつ理解し始めていた。


「うん」


 ノアが小さく頷くと、ヘレナはその姿を愛おしげに見つめながら、そっとノアの頭を撫でた。


 不意の行動にノアは困惑した目線を向けるが、ヘレナは微笑みを浮かべたまま語りかける。


「私はね、ノア、君があの森以外にも居場所を見つけてくれたことが、本当に嬉しいの」


 その声には優しさと深い感慨が滲んでいた。


「人はね、人と関わり合うことで成長していくものなの。孤独の中だけでは見えないものが、人との繋がりの中で見えてくる。だから、君がアカデミアで誰かと時間を共有していること、それを私は嬉しく思うわ」


 ヘレナはノアの髪に触れていた手をそっと離し、その目をじっと見つめる。


「ノア、君が見つけたその居場所は、君の人生にとってとても大切なものになるわ。そして、そこにいる人たちは、きっと君に新しい景色を見せてくれる」


「……そうゆうものなの?」


 ヘレナの言葉をあまり理解できなかった。

 

「ええ」


 ヘレナは考え込むノアの様子を眺めながら、穏やかな気分で紅茶に口をつけた。その優雅な仕草は、静かな書斎の空気に溶け込むようだった。


 しばらくして、ノアがふと顔を上げた。その瞳には迷いがあるようで、けれども何かを確かめる強い意志が宿っている。そして、彼は夜通し頭を占めていた疑問を口にした。


「ヘレナさん……教廷って何? 結社は、僕は何で教廷と戦う?」


 時が止まった、そう錯覚しそうなほどの静けさが書斎に訪れる。


 ノアのまっすぐな視線を受け止め、ヘレナは紅茶のカップを皿の上に置いた。


 カップが皿と触れ合う音が、書斎に異様に響いた。



 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ