時計塔
時計塔――アカデミアで最も高い建物。
その威容はアカデミアだけにとどまらず、アタリカの街からも見上げることができる。長年にわたり学生たちに親しまれ、集合場所としても使われるその建物は、夕陽に照らされるとさらに輝きを増し、どこか神々しさすら感じさせる。
それはアカデミアの象徴として、日々変わらぬ存在感を放っていた。
ノアは高い場所が好きだ。
これまで何度も時計塔の頂上に登り、そこから広がるアカデミアの校舎やアタリカの街並みを見渡してきた。風を感じながら、動き回る人々の姿をぼんやりと観察するのが、彼にとって特別な時間だった。
だからこそ、時計塔については人一倍詳しいと自負していた。少なくとも、誰よりもその存在を身近に感じていると。
今もまた、ノアは時計塔の前に立っている。
その周囲にはベンチに座り談笑する学生たちや、夕陽に照らされて揺れる木々の葉。赤く染まる空が、アカデミア全体に長い影を落としている。何度も見慣れたこの穏やかな光景は、いつもと変わらないはずだった。
だが――。
時計塔の建物の中、通路の真ん中に、一際目を引く華やかな扉が立っていた。
その扉は奇妙な存在感を放ちながら、静かにそこに佇んでいる。だが、不思議なことに、談笑する学生たちは誰一人としてそれに気づいていないようだった。
彼らの視線はどこか遠く、扉に目を向けることなくそのまま歩き去る。そして、扉にぶつかる事なく、まるでそれが存在していないかのように通り抜ける。
ノアだけが、それを見ていた。
ノアは喋る事なく、ポケットの中から小さな水晶玉を取り出す。
水晶玉の中に小さな光が閉じ込められ、扉を目指している。
結社の研究班が石像のカケラを元に開発した装置で、カケラに残留するエーテルを利用して、石化の秘宝を探すことが可能だ。
オルビス商会経由で手に入れてから、ノアはアカデミア中を歩き回ったが、その時は何も反応がなかった。
それが今、突如現れた扉を真っ直ぐ指している。
ノアには直感があった。
今入ろうと思えば、目の前の扉は開くだろう。
だが、今ではない、準備が必要だ。
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オルビス商会の地下――結社の隠された拠点。
広い空間にずらりと並べられた木箱の数々。その中身は、ノアの要望に応じて用意された装備だった。結社のメンバーが一つ一つ丁寧に箱を開け、中身を確認していく。
「ノア様のご要望通り、必要な装備はすべて整いました。こちらをご覧ください」
商会の幹部であるニコスが微笑みながら案内する。メンバーたちが手際よく装備を並べていった。
音を完全に消す設計の小型クロスボウ、小さな投げナイフと、それを収納するベルト。
重さを確認しながら、次々と空間の指輪にしまう。
「こちらは麻痺薬、眠り薬、治癒薬、そして毒物です。すべて即座に取り出せるようベルトに収納しておきました」
薬瓶が収まったベルトを実際に装着して使い心地を確認し、ノアは次に運ばれてきた装備に目を向ける。
純白のローブだった。
フード部分は深く垂れ下がり、鷹の嘴を思わせる独特の形状をしている。
「ノア様の体型に合わせて仕立て直したものですので、ぴったりのはずです」
そう言いながら、ニコスはローブを広げてノアに手渡した。しかし、ノアはじとっとした視線で彼を見る。
「……なんで白? 夜に行動するから、暗い色の方がいい」
ノアの指摘に、ニコスは慌てるどころか、むしろ誇らしげな笑みを浮かべて答えた。
「どうぞ、着てみてください。色については実際にお試しいただければ、きっとご満足いただけます」
胡散臭い、といった表情を浮かべながらも、ノアは結社のメンバーに手伝われてローブを身にまとった。
数秒もしないうちに、純白だったローブが暗い色へと変化を始めた。まるで周囲の空間に溶け込むように、影のような色合いへと変わっていく。
「……これは?」
ノアがローブの袖をじっと見つめる。ニコスが胸を張って説明を続けた。
「それは擬態の大蛇の皮を織り込んだ装備です。エーテルを流し込むことで、周囲の環境に応じて色を変えることができます」
ノアは腕を動かしながら、ローブの色の変化を楽しんでいた。意識していないにもかかわらず、瞬時に色が変わる様子に、ニコスはわずかに眉をひそめる。
「普通はエーテルを意識的に流し込まないと変化しないはずですが……」
予定外の反応に疑問を抱きつつも、問題なく使えることを確認したニコスは、続けて説明を進めた。
「秘宝を回収する際はこちらの手袋をご使用ください。エーテルを通さない素材で作られていますので、触れることで発生する石化などのリスクを大幅に軽減できます」
黒革の手袋を差し出しながら、さらに別のアイテムを取り出した。
「万が一、秘宝が指輪に収納できない場合、この布で秘宝を包んでください。手袋と同じ素材を使用しており、安全に回収が可能です」
ノアは一つ一つの装備を確認しながら、すべてを指輪型の収納道具に収めていく。その姿を見て、ニコスが締めくくるように言った。
「最後にこちらを、ノア様の要望通りに特注した武器です……これで全ての準備は整いました」
「秘宝を回収した後はここに持って来ればいい?」
「はい、任せてください、後はこちらで処理します」
軽く素振りをして装備の性能を確認してから、ノアはそれらを指輪にしまい込み、軽く頷いた。
「ノア様」
立ち去ろうとするノアを、ニコスが呼び止めた。
「どうかご無事で行動してください。会長様からも『何よりご自身の安全を最優先に』と厳しく言われております」
ノアは少し間を置いてから答える。
「……わかった。ヘレナさんにはよろしく伝えておいて」
「承知しました」
ニコスが丁寧に頭を下げるのを横目に、ノアは地下空間を後にした。
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帰り道を歩きながら、ノアの頭は次の行動について考えを巡らせていた。
行動を起こすのは三日後の夜と決めている。
ヴィクターの情報や、自分自身が現地で観察したことで、時計塔周辺の警備の巡回時間を把握できた。警備員が完全にいなくなる時間帯は2時間ほど。その間に、騒ぎを起こさず、迅速に秘宝を回収するのが目標だ。
侵入後はヴィクターとの通信機器を通じて連絡を取り合い、回収中のサポートや、外で何か異変があればすぐに知らせてもらう手はずになっている。
ただ、問題は情報がまだ圧倒的に足りないことだった。時計塔の内部構造の詳細も、防衛の仕組みも、ほとんど分からない。
しかし、悠長にしている余裕もない。ヴィクターによれば、アカデミア内部に潜む教廷勢力が、ここ最近急速に調査の手を強めているという。遅れを取れば、秘宝が彼らの手に渡る可能性がある。それだけは何としても阻止しなければならない。
ノアは思考に没頭したまま、いつの間にか寮の部屋へとたどり着いていた。静かにドアを開けると――
「ない! ないよな? よし、オレの勝ちだ!」
部屋の中では、レオが声を上げていた。机を囲んでカードゲームに興じている三人。レオがまた勝ち、机の上から菓子を掻っ攫う。
「また負けたよ……四回連続って、絶対おかしいでしょ!? なんかイカサマしてない!?」
顔を赤くしたエミールがレオの袖を引っ張ると、その動きに合わせて袖から数枚のカードがハラリと落ちた。
一瞬の沈黙。エミールがレオの襟元を掴んで揺さぶり始める。
「ほら! やっぱりイカサマしてるじゃないか!」
「いやいや、こういうのも実力のうちだろ? 騙される方が悪いって」
「開き直るなーっ!」
隣で呆れ顔をしていたカイが、ドアを開けたノアに気づく。
「ああ、ノア。お帰り。お前もやるか?」
その声に反応してエミールもノアの方を振り向き、慌てて声をかけた。
「あっ、ノア君、お帰り! 今お茶でも用意するから、ちょっと待っててね!」
ノアは一瞥し、机の上に広がったカードと落ちたカードに目をやる。
「それは?」
「これ? なんでも西の方で流行り始めた『トランプ』ってやつだってさ。レオが買ってきたんだ」
カイが説明すると、レオが胸を張る。
「おうよ! 面白そうだと思って買ったんだが、案外ハマっちまってな。お前もやろうぜ、ノア!」
「ペテン師が何を言う」
エミールがジト目でレオを睨む。
「なんだよ、勝てないからって人を悪者扱いするなって!」
悪びれる様子もなく言い訳をするレオに、エミールが最後の手段を使った。
「もう……ノア君、仇を取ってよ! 勝ったら、好きなものなんでも作るから!」
「乗った。ルールを教えて」
エミールの誘いに、ノアが素直に応じる。ゲームに興味を示したノアを見て、レオは自信たっぷりにニヤリと笑った。
「ほう……向かってくるのか。逃げずにこのレオに挑むというのか」
トランプを買って以来、何日も研究を重ねたレオは、ついにはイカサマのコツもマスターしていた。
初めてトランプを触るような奴に負けるわけがない――そう確信している。
「今日こそ勝たせてもらうぞ、ノア!」
数分後。
レオは自分の手札を見つめたまま硬直していた。その顔は、見事に引き攣っている。
「ロイヤルストレートフラッシュ。僕の勝ちでいい?」
静かに告げるノアの言葉に、レオは絶句する。ノアの手札に揃えられたのは、このゲームで最強の役――ロイヤルストレートフラッシュ。
レオは慌てて自分の手札を確認する。しかし、そこにあるのは強いカードどころか、まともな役にすらならない組み合わせだった。
「……なんで、俺の隠してたエースが……こんな雑魚カードになってるんだ?」
その瞬間、レオは気づく。自分が隠し持っていたカードが、いつの間にかすり替えられていることに。
いや、そもそも隠していたカードの存在を見抜かれていたことすら恐ろしい。
「……もはやイカサマとかそういうレベルじゃねぇ、これ、魔法だろ……」
震える声で呟くレオの隣では、エミールがじっとノアの手札を見つめていた。その小さな顔に驚き、戸惑い、そして諦めが次々と浮かび、やがて完全に黙り込む。
釣られて覗き込んだカイも、ノアの手札を見た瞬間、固まった。
「……レオ、お前は悪くない、ただ、相手が悪かっただけだ」
「レオ君、人間には限界ってものがあるんだ。君は、よく頑張ったよ」
二人からの妙に優しい慰めの言葉を受けながら、レオは完全に思考停止していた。
彼の頭の中では、「どうやってやった?」という疑問がぐるぐると回り続けている。けれど、その答えは絶対に得られないのだろう――そんな気がしていた。
三人が沈黙する中、ノアは菓子を黙々と食べ続けている。手元には、勝ち取ったスナックやキャンディが山積みだ。
勝負がどういう形で決着したのか。ノアがどんな技を使ったのか――それら全ては謎のまま。
ただ、菓子を口に運び続けるノアの静かな仕草だけが、この部屋に響く。
三〇七号室でよくあることだった。
……。
月のない夜、回収行動が始まる。