新たな手がかり
迎春祭の熱が冷め、騒がしかったアタリカの街もようやく日常を取り戻した。
祭りの後、ノアたちの部屋で変わったことと言えば――花瓶が増えたことだ。それに伴い、花が数本刺さり、ノアが何やらマメに世話をしている。
エミールはノアがすぐに飽きると思ったが、意外と続いたため少し不思議に思うも、あまり気には止めなかった。
エレニアが授業中にノアへ話しかける回数が増えたことだ。彼の気を引こうと頑張っているが、努力が実るのはまだまだ遠そうだ。
でもエレニアはめげない、挫けない、恋する乙女は最強なのだ。
最後に、レオは――結局、彼女ができなかった。
花束の奪い合いで勝ち、祝福を得て今度こそ彼女ができると思ったレオ。
しかし、現実は残酷、彼の春はまだ来なかった。
「おかしいだろ!」
レオの悲しみの嘆きも、みんな見慣れたのか、スルーされた。
哀れ合掌、彼にもいつか彼女ができるのだろうか。
――そして、今、ノアは図書館で調べ物をしている。
セブルス、あと一応トリシアの助けもあって、アカデミアに関する本をかなり読み進めたが、いまだに隠された研究所に関する手がかりが見つからない。
何度も繰り返し本を読み込み、構造の詳細を記憶し尽くした結果、ノアの頭の中にはアカデミアの設計図が完璧に描かれていた。もはや彼に教えを乞えば、案内図すら不要だろう。
肝心の手がかりは見つからないが。
「……なぁ、ノア、見つかりそうか?」
「まだ」
「……そうか」
セブルスは深々とため息をつき、天井を仰いだ。ここ数日、彼の定位置はもっぱらこの図書館だ、毎日見上げる天井の模様さえもはや暗記できそう、できた。
トリシアがノアの魂の数字を割り出す間、彼の調べ物を手伝う約束だったが、全くもって終わりが見えない。
トリシア――秘数学派でもひときわ異彩を放つ天才。幼い顔立ちと体型のせいで、初対面の人々からは子ども扱いされることが多いが、だが、その頭脳は多くの教師が人生を疑うものだ。
かつて、市街で知識の伝授をする秘数学派の教師を相手に数学の議論を挑み、全員を打ち負かした逸話は、秘数学派の中では周知の事実だ。 もっとも、打ち負かされた教師の前で言うと、顔を赤くして定規で襲いかかってくるから言わないが。
神童と呼ばれ、わずか10歳でアカデミアに迎え入れられた彼女は、次々と新しい定理を発見し、ついには秘数学派を代表する存在の一人とまでなった。
その類まれな才能に、セブルスは嫉妬する気さえなれなかった。世の中に天才っているもんだなと、むしろ感心するばかりだった。
性格にクセはあるが――まあ、それは置いておこう。
そんな彼女だからこそ、ノアの魂の数字を割り出すなんて朝飯前だろうとセブルスは信じていた。ほんの数日で終わるはずだ、と。
これでこの退屈な調査とおさらばできると思っていた。
そう思っていたのだが……。
セブルスはため息交じりに、机の上で奮闘するトリシアに視線を向ける。
机一面を占拠するほど計算用紙が山のように積み上げられていた。それらはすべて無数の数式で埋め尽くされ、もはや白い紙だった頃の面影はどこにもなく、黒ずんでいる。
密集恐怖症や数学が苦手な人なら見ただけで泡吹いて気絶しそうな光景が広がっていた。
その恐ろしい光景を作り出した本人は言うと、眉間にシワを寄せ、うんうんと首を傾げていた。
「……トリシア、終わりそうか」
「全然終わらないわ!」
セブルスは肩を落とした、もう何回も繰り返したこのやりとり、慣れてしまう自分が悲しかった。
「変よ、計算式自体は合っているのに、答えが合わないわ」
トリシアは興奮したようにペンを振り回しながら話し続ける。
「カオス理論? 無理数? 肝心の値が常に変わり続けているみたい、不思議」
「……そうか」
トリシアがそう言うなら、自分にはなおさら無理だな。
セブルスはそう思いながらも、もしかしたらと希望を込めて聞いてみた。
「諦めるつもりは……」
「ないわ! こんなこと初めてよ、解き明かさないのは数学者として失格よ」
「……だよな、頑張ってくれ」
真っ黒の計算用紙をくるくると巻いて、新しい被害者に手を出そうとするトリシアを見て、セブルスは再び天井を仰いだ。
――あぁ、見慣れた天井だ、もう一ヶ月以上見てきたからな!
セブルスは現実逃避し始めた。
「ねぇ、セブルス、ペンのインクが切れた! 新しいの取ってきて!」
「俺はお前のパシリじゃない!」
そう抗議しながらも、自分のインクを渡すセブルス。日々こんな役回りに甘んじている自分に、どこか諦めを覚えながらため息をついた。
渡されたインクを素早くセットしながら、トリシアは満足げに笑顔を見せる。
その横で、セブルスはまだ何か言いたげに呟く。
「ノア、お前、なんでアカデミアのことばっかり調べてるんだ?」
「課題」
頭を上げることもなく、短く返すノア。
「課題? 一年の授業でアカデミアについて調べる課題なんてあったか?」
セブルスは疑問を投げかけるが、すぐに自分で納得してしまった。
「……まぁ、あるっちゃありそうだな。授業多いし、全部覚えてるわけじゃないしな」
アカデミアの授業は多岐にわたり、専門分野に深く入り込むことが普通だ。それに、初めての課題で迷子になる学生も少なくない。ノアがそういう課題を受けている可能性もあると考え、セブルスはそれ以上深く追及しなかった。
「アカデミアは美しいから、調べたくなるのもわかるわ」
トリシアが突然そう呟く。
「……えっ、トリシア、計算止めたのか?」
「休憩は大事よ」
伸びをしながら言う彼女の顔は、計算用紙に向かっているときよりも幾分リラックスしていた。
「まぁ、分からなくもない。俺も初めてアカデミアに来たときはその美しさに感動したよ。いったいどれだけの大理石を使ったんだって驚いたもんだ」
セブルスは空になったインク瓶を見つめ、頭を押さえながら思い返す。
アカデミアの建築は、白を基調とした美しい構造物だ。そのほとんどが大理石で作られている。
アタリカ地方は大理石の産地として有名で、特に古代アタリカでは大理石を使った建築や彫像が重んじられた。
汚れひとつない白さに、当時の人々は美しさと神聖さを見出していたのだ。
特に貴族社会が全盛期を迎えた頃、莫大な財力によってアカデミアは大規模に拡張された。その際、陸路や海路を駆使して各地から大量の大理石が運ばれたという。
結果として、アカデミアはただの教育施設を超えた存在となり、初めてその地を訪れる人々にとっては、建築物というより巨大な芸術作品のように感じられるのが常だった。
「そうじゃないの、アカデミアの建築は数学的に美しいのよ」
「……数学的に? どういうこと?」
トリシアの言葉に、ノアが顔を上げる。
その問いに、トリシアはおもむろに計算用紙を引き寄せ、素早く線を引き始めた。
定規を使うことなく、正確な直線を何本も引いていく。数秒後、用紙にはいくつもの長方形が描かれていた。ノアはそれを一目見るなり、何を描いているのかすぐに理解した。
「……アカデミアの地図」
ノアが呟くと、トリシアは満足げに頷いた。
「そう、アカデミアの建築は、黄金比に基づいて設計されているの!」
トリシアはペンを手に取り、地図に大きく長方形を描きながら説明を始めた。
「黄金比っていうのは、数学的に特別な比率のこと。この長方形を見て、これは黄金長方形で、横と縦の比率が黄金比になっているのよ。そして、この長方形から正方形を一つ切り取ると、残った部分もまた黄金長方形になるの」
ペンを動かし、長方形の中に正方形を作るトリシア。ノアは残った部分も長方形になっていることに気づく。
小さくなったが、比率は同じだ。
「この繰り返しの性質、つまり自己相似性が黄金比の特徴の一つよ。自然界には、この比率が溢れているの」
長方形に中にさらに正方形を作るトリシア、どんどん小さな正方形を作る。
それは無限の繰り返しに思えた。
「たとえば、ヒマワリの種の配置! あれも黄金比に基づいてるのよ。螺旋を描くように配置されていて、最大限効率的にスペースを使ってるの」
各正方形の対角に当たる角を中心として、正方形の辺を使って弧を描く。
弧を正方形ごとに繋げていく。
「みて、巻貝の殻に似ているでしょ! 巻貝は成長するとき、黄金比に基づく螺旋を描いていくの。植物や動物だけじゃなくて、人体にも黄金比が隠れているのよ。たとえば、指の関節の比率とか、顔のパーツの配置とか」
いつの間にかアカデミアの地図に巨大な螺旋ができていた。
「美しいでしょ! この比率を使うと、構造が安定して見えるのよ。アカデミアの建築も、どの角度から見てもバランスが取れるの!」
トリシアが目を輝かせ、声を弾ませた。
「アカデミアを設計したのは絶対に秘数学派の人よ! 間違いないわ!」
うんうんと頷くトリシアの顔を見て、セブルスは呆れたように肩をすくめた。
ノアは静かに線を引かれた地図に目を向けた。
あの日、時計塔からアカデミア全体を見渡した時に違和感を感じた。
アカデミアの建築は何か規則があるように感じたが、当時は説明することができなく、あまり気に留めなかった。
しかし、今ならわかる。
ノアの視線は地図の中央、螺旋の起点に吸い寄せられた。
アカデミアの象徴、時計塔があった。




