合間
日を跨ぎ、考古学の時間――
ノアは考え事をしながら、ぼんやりとノートにペンを走らせていた。教室の中央には遺跡から発掘されたという陶磁器がいくつも並べられていて、生徒たちはその模様をスケッチするよう課されていた。
「ねぇ、大丈夫?」
隣の席から聞こえる声に、ノアは顔を上げると、エレニアがじっと彼を見つめていた。
「心ここに在らずって感じだよ?」
「なんでわかる?」
「なんでって、その鳥に元気がないわよ?」
ノアが素直に聞き返すと、エレニアはため息をつきながら彼のノートを指差す。陶磁器のスケッチが途中からフクロウに似ている生物に変わっているが、羽がよれていて元気がないように見える。
エレニアはノアと同じ授業を一ヶ月以上受けているが、この間、ノアのノートにはしばしば奇妙な生き物が描かれることに気づいていた。頭にキノコが生えたイノシシ、結晶の牙を持つウサギ、家ほどの大きさのトナカイなど、どれも信じられないような生物ばかりだ。ノアはそれらが「実在する」と言い張るが、エレニアは半信半疑だった。
その中で、ノアは特にフィリオルをよく描いていた。
「よく分からないけど、なんでそんなフィリオルに執着してるの?」
「……知っているものを描くのは落ち着くから?」
エレニアは「ふーん」と相槌を打ちながらも、話題を変えた。
「そういえば、あんたって迎春祭には参加するの?」
「まだ分からない」
「そう。もし迎春祭に行くなら、あんたと会うかもね」
ノアは首を傾げると、エレニアが説明を続けた。
「友達がね、好きな子がいるのよ。その子に花を渡して告白したいから、どうしても行きたいって。でも一人じゃ勇気がないから、私にもついてきてってお願いされてさ」
迎春祭には祭りの時に、好きな人に花束を渡して告白すると恋が実るという噂があった。そのため、毎年迎春祭が行われる街中で告白する男女が現れ、カップルの数が増える。
エレニアは正直花売りが儲けるために噂を広めたんじゃないかと思っている。
「エレニアは行きたくないの?」
ノアの問いに、エレニアは肩をすくめた。
「正直、あんまり興味ないわよ。でも友達が必死だから仕方ないでしょ。それにしても……」
エレニアはため息をつきながら付け加える。
「毎年春になるとアカデミアでもやたらカップルが増えるのよね。妙に浮ついた空気になるし、正直落ち着かないの」
「なるほど。発情期みたいなものか」
「……は?」
ノアが真顔で頷いた。
「森にいた頃も春になると動物たちが発情期を迎える。それと似ていると思う」
ノアも春になるとエズラの教えを守り、狩猟する動物を変え、新しく生えてくる野菜を採ることで森の生態系を守っていた。
狩ってはならない動物を覚える必要があるため、印象深かった。
そんな事を知らないエレニアは呆れ顔を浮かべながら額を押さえる。
「……違わなくもないけど、あんたデリカシーって言葉、知ってる?」
「本で見たことがある」
「なら使い方を勉強してきなさい」
ノアは不思議そうにエレニアを見つめるが、彼女は疲れたように溜め息をつく。
「ま、もし祭りで会ったら案内くらいはしてあげるわよ」
「ありがとう」
ノアは静かに頷くと、ちょうどチャイムが鳴り響き、周りの生徒がやっと終わったとばかりに片付けを始める。
エレニアも人の流れに沿ってスケッチを提出して、教団の前で足を止めるノアに目を向ける。
「今日もヴィクター先生に用があるの?」
「うん、考古学に興味がある」
「……本当かしら」
ノートによく落書きするノアに、エレニアが疑いの目を向けたが、ノアには通じなかった。
「じゃ、わたしは授業があるから先に行ってるわ、またね」
「バイバイ」
「なるほど、迎春祭か」
準備室の中、ヴィクターは手際よく『ヴィクタースペシャル』を仕上げながら、ノアの話に耳を傾けた。
「もちろん、行って構わないさ。私に許可を取る必要はないし、アタリカの迎春祭は確かに一見の価値がある。春の訪れを祝う行事はどこでも楽しいものだが、アタリカの迎春祭は特に古い伝統がや独特の風習があって面白い」
ヴィクターは『ヴィクタースペシャル』をノアに渡しながら、やや冗談めかして言う。
「それに、君が石像のかけらを確保してくれたおかげで、研究班の進捗も順調だ。秘宝の特定について、もう間もなく何らかの成果が得られるだろう。しばらくは私たちに任せて、少し気分転換してくるといい」
ノアはヴィクターの提案に軽く頷くも、その目はまだどこか真剣だ。
「研究所、見つかりそう?」
「うむ……正直なところ、まだだな」
ヴィクターはため息をつき、肩をすくめながら話を続けた。
「いくつかの古文書や地図を基に調査を進めているが、具体的な手掛かりはまだつかめていない。そこで、一つの仮説を立てたんだ」
「仮説?」
「もしかすると、研究所は物理的な場所として存在しているわけではないのかもしれない」
「……どういう意味?」
ヴィクターは軽く顎をさすりながら言葉を選び、慎重に説明を始めた。
「ノア、『魔法基礎』の授業でこんなことを学ばなかったか? 魔法を発動させるには『認識』と『エーテル』が重要だって」
「……確かに、そんな話があった」
なぜそんな話を今するのか疑問に思いつつ、ノアは答えた。
「実は、この『認識』という概念に関する学説の一つに、『存在するとは知覚されることである』という考えがあるんだ。つまり、何かが存在するためには、それを誰かが知覚しなければならない、という意味だ」
ヴィクターが自分の考えを喋り始めた。
かつて、魔法という存在が初めて人々に認識された時、賢人たちはその仕組みを解明しようと奔走した。彼らの研究は、魔法が単なる神秘的な現象ではなく、明確な理論と法則に基づいていることを示そうとした。
数々の実験と観察を重ね、その過程で魔法の発生には『知覚』と『エーテル』が大きな役割を果たしているという仮説が立った。
この説によれば、魔法は単に自然現象として存在するものではなく、人間が魔法を『主観的に認識』したときに、『エーテル』が物質的な現象として具現化する性質を持つ。
たとえば、見えない力――今では『エーテル』と呼ばれている――が存在していたとしても、それを使用者が意識的に認識しなければ、魔法として発動することはない。
逆に言えば、魔法の存在は『知覚』という枠組みを通じてのみ、現実世界において具現化するのだ。
この賢人たちの説は、やがて『知覚が存在を形作る』、つまり『認識が世界を作る』という根本的な魔法理論へと発展し、後世の『五元素説』や魔法の体系化へ繋がった。
「……つまり、研究所は魔法と同じ性質を持っていて、そこにいる者が『ここが研究所だ』と認識する条件を満たさない限り、存在できないと言う話だ」
ヴィクターの説明を聞いて、ノアは困惑した顔を見せる。
正直何を言ってるのかよく分からなかった……。
「じゃあ、研究所を見つけるのは無理ってこと?」
「いや、そんなことはないさ」
ヴィクターは微笑む。
「どんなに巧妙に隠されていても、必ず何かしらの手掛かりがあるはずだ。最近、古い書物を少しずつ集めて調べている。時間はかかるが、必ず突破口が見つかるだろう」
彼は少し間を置いてから、話題を変えるように続けた。
「そうだ、迎春祭について少し面白い話をしてもいいか?」
ノアが軽く頷くと、ヴィクターは一息ついて話を始めた。
「迎春祭の起源は、暗黒時代以前の古代にまで遡ると言われている。当時、この祭りは『春の女神の帰還』を祝う行事だったらしい」
「春の女神?」
「ああ、古代の伝承では、冬が訪れる理由をこう説明していた。春の女神が何らかの理由で姿を隠してしまい、世界が寒さに閉ざされるのだとね。そして、春の訪れは女神が再び姿を現したことを意味すると考えられていた」
「どうして女神は隠れてしまうの?」
ノアが問いかけると、ヴィクターは少し肩をすくめた。
「そこがまだ謎なんだ。現存する文献が限られていてね。ただ、一説では、女神が何か大きな災厄を避けるために自らを封じたとも言われている。その真相を知るには、もっと多くの資料が必要だろうな」
ヴィクターはそう言いながら、手元の書類を少し片付けた。
「古代から続く迎春祭には、その名残と思われる独特な風習がいくつかある。たとえば、春の女神を象徴する役割として、若い女性が花飾りをまとって踊る儀式だ。彼女たちは春そのものを象徴していて、街の人々は彼女たちを『春をもたらす存在』として迎え入れる」
「それって、春を演じるってこと?」
「そうだ。女神を模した彼女たちが街中で踊り、祝福の象徴として手にした花束を民衆に投げるんだ。花束を受け取った者は女神の加護を得られると信じられていて、その瞬間、祭りは最高潮に盛り上がる」
ヴィクターはどこか懐かしそうな笑みを浮かべた。
「この花を投げる儀式が、今でも一部の地域で『迎春祭』の重要なイベントとして続いている。花束を受け取ることが、幸運や新しい始まりを象徴するわけだ……もっとも、父神教の台頭以降、迎春祭時たいが廃れてしまい、今ではその伝統を知らない人も多いが」
ヴィクターは少し思案するように言葉を付け加えた。
「こうした祭りの背後には、自然や季節への感謝の気持ちが込められている。それが古代の人々の信仰心や生活の中核だったんだろうね」
ヴィクターは微笑みながらノアの目をまっすぐに見つめた。
「まぁ、話が逸れてしまったが――とにかく、迎春祭は楽しんでくるといい。普段見られないような光景や行事に触れることで、新しい発見もあるかもしれない」