鍛錬・二
「はは、そんなことがあったんだね」
訓練の時間、準備運動を終えたエリオスは、ノアの話に耳を傾けながら、少し同情したような笑みを浮かべた。
「数秘学派の人たちは個性的だからね。そういうエピソード、実は珍しくないよ。あの学派には独特な考え方を持つ人が多いから。でも、悪い人たちじゃないんだ。ただちょっと……癖が強いだけさ。それで、ノア君はもう入りたい学派って決まってる?」
「まだ。哲学基礎の講義を受けてる途中で、どれがいいのか分からない。選択肢が多すぎて迷う。エリオスはどの学派を選んだ?」
「僕は万象学派だよ。分かりやすいし、それに――」
エリオスは指先に小さな炎を灯し、悪戯っぽく笑った。
「単純にカッコいいと思ったからね」
「……分からなくもない」
「それと、克己学も取っているよ」
その言葉に、ノアの瞳が少しだけ疑問を含む光を帯びた。
「学ぶ範囲を広げすぎると、一つの学問を極めるのが難しくなるって講義で聞いた」
アカデミアで学ぶ魔法は、対応する学派への理解度に応じて効果や種類が大きく変化する。例えば、数秘学派では数学や幾何学をベースとした論理的な魔法を扱い、万象学派では火、水、土、風といった四元素に関連した魔法を学べる。
複数の学派を選ぶことで多様な魔法を学ぶことは可能だが、それぞれの学問への理解度が浅くなってしまい、魔法の威力や安定性が低下してしまう。さらに、場合によっては魔法がうまく発動しなくなることもある。こうした失敗は、特に学派選択を間違えた新二年生に頻発する失敗談の一つだった。
「確かにね。最初のうちは一つに集中した方が効率がいいと思うよ。でも――」
エリオスは自信満々に胸を張った。
「僕は自分の頭に結構自信があるんだ。それに、万象学と克己学は相性がいい学派だから、両方を学んでもそれほど負担にならない。それにさ、僕なんかよりもっとすごい人もいるよ。医務室のルーカス先生なんて、六つの学派を同時に取って卒業したんだって」
「それは……驚いた」
もはや狂気の沙汰だ。
「まぁ、とにかく。もし学派選びで迷ったら遠慮なく聞いてよ。アドバイスくらいならいくらでもできるからさ」
「その時は頼む」
ノアは軽く頷いた。
「よーし、お前たち! ペアを組んで模擬戦を始めろ!」
準備運動の時間が終わり、教師の指示が響き渡る。周囲では訓練生たちが素早くペアを組み、模擬戦のためのスペースを確保し始めた。
「じゃあ、僕たちも始めようか」
「うん」
ノアとエリオスも一角に場所を取り、模擬戦を始める。
「ノア君、両手剣の扱い、随分様になってきたね」
エリオスは剣を軽く受け流しながら、ノアを称賛する。
初めて両手剣を握った頃のぎこちなさは薄れ、振り下ろす速度や正確さも格段に向上している。だが、まだ完全ではなく、時折見られる癖が攻撃の隙となる。
「まだエリオスから一本も取ったことがない」
「はは、それは仕方ないよ。僕は子どもの頃からずっと鍛えているからね。さすがに数週間で越えられるわけにはいかない」
エリオスは苦笑を浮かべつつも、攻撃の手を緩めることはない。
すでに何度も模擬戦を繰り返してきた二人。エリオスはノアの動きや対応の範囲をある程度把握しており、この戦いが二人にとって『準備運動』の域を出ていないことをよく理解していた。
打ち合いがひと段落すると、二人は一旦距離を取り、互いに剣を構え直す。
エリオスは剣を大きく振り上げ、上段に構えた。その目には静かな闘志が宿っている。
「それじゃ、行くよ、ノア君」
ノアは両手剣を斜め前方に構え、刃の先端を下げる防御の型を取った。無言のままだが、いつでも対応する準備ができていた。
始めを告げる合図もなく、一筋の影が二人の間を通った瞬間、二人が同時に動き出す。
――観るものは二人の戦いを嵐と喩える。
先ほどの『準備運動』と打って変わって、エリオスから繰り出される激しい攻撃を冷静に裁きながら、ノアは隙を見つけては容赦無く攻撃を差し込む。
エリオスがノアの動きを把握したように、ノアも何回もの模擬戦を通してエリオスの動きを掴んだ。目で追えるようになり、攻撃の対処もしやすくなった。
周囲には、すでに模擬戦を終えた訓練生たちが集まっていた。一部の生徒は食堂から飲み物や軽食を持ち込み、観戦する気満々だ。
「なぁ、どっちが勝つと思う?」
「そりゃエリオスだろ。ノアって新入生だぜ?」
「でも最近、めちゃくちゃ上達してるだろ? 俺なんかもう二人の戦いについていけないし、今日は行けるんじゃねぇか?」
そんな話が飛び交う中、一人の茶髪の青年が輪の外から現れる。その手には小さな箱と数枚の紙。
賭けの道具だ。
「賭けるか? エリオスが〇・六、ノアが一・四の倍率だぞ」
「お前、エリオスの同室の……。ってか、大丈夫なのかよ、こんなことして」
「大丈夫さ。神様だってこんな賭け事は咎めない」
「いや、先生は何か言わないのか?」
「あの人が最初に十銅貨突っ込んだからな」
「マジかよ。自由すぎんだろ」
教師は生徒たちの視線を意に介さず、黙々と戦いを見守っているが、その手元にはしっかり賭けの記録が記されている。教師自身、この盛り上がりを静止するのを諦めたらしい。
「で、買うのか? 買わないなら次のところ行くぞ」
「……ああ、買う! ちょっと待て、いま金を出す」
「――ノアが勝つに三〇銅貨だ」
そこへ、横からはっきりとした声が飛び込んできた。振り向くと、硬貨が入った袋を手にしたレオが堂々と立っている。生徒たちの注目が一気に彼に集まる。
「レオ、本気か?」
「本気だ。ノアは勝つ。いや、勝つべきだ」
レオは迷うことなく袋を箱に放り込む。彼には確信があった。入学初日にノアにコインで気絶させられて以来、彼の強さを疑ったことはない。エリオスに負けたのも、ノアがまだ両手剣しか使えないからだと信じていた。
ちなみに、あの日以来レオも密かにコインを投げる練習をしているが、一度も成功した試しはない。
「お前らも賭けろよ」
「なんで僕がこんな馬鹿なことに巻き込まれるんだ……仕方ない、ノアに十銅貨」
「まぁまぁ、ノア君への応援だと思ってさ。僕もノア君が勝つに十銅貨」
レオに促され、渋々ながらカイとエミールも箱に硬貨を入れる。
「それにしてもさ、先輩たち、ノアと仲良くなりすぎじゃない? 最近鍛錬の時間以外にも顔を出してるって聞いたけど」
「そう思うなら連れ戻してくれ」
レオが茶髪の先輩に抗議すると、彼は面倒くさそうに顔をしかめた。
「ノアって子な、エリオスが例の事で詫びを入れてから、なんかやたら顔を出すようになったんだよ。まぁ、それ自体はいいんだけど、こっちの負担がでかいんだよ。エリオスが毎回圧に負けてデザートを奢る羽目になるたびに、買いに行くのは俺なんだよ、俺! あの行列に並ぶ上に、馬鹿みたいに高いってのに……」
先輩の声には不満が色濃く滲み、最後にはエミールをじっと見つめる。
「お前がもっと早く強くなれば、少しは解決するんじゃないのか?」
「え、えーと……努力します」
エミールは乾いた笑みを浮かべるしかなかった。
「ったく、頼むぜ……」
先輩はため息をつき、視線を再び二人の戦いに戻した。
戦いはまさに白熱の極みだった。エリオスとノアの剣がぶつかり合い、激しい音が場内に響き渡る。観客たちは息を呑み、二人が織りなす技の応酬に目を奪われていた。
互いに隙を見逃さず、ただ勝利を目指して戦う。エリオスの剣さばきは速さと力強さを兼ね備え、ノアに圧力をかけ続けている。それでもノアは冷静だった。攻撃を受け流しながら、反撃の機会を狙う。
エリオスがさらに一歩踏み込む。彼の剣筋は鋭く、流れるような連撃が繰り出される。しかし、ノアはその一瞬の隙を見逃さない。
――ここ。
ノアの剣が鋭い軌道でエリオスの胴を狙う。しかし、その刃を間一髪で受け止めたエリオスが不敵な笑みを浮かべる。
「甘い!」
受け止められてもノアの動きは止まらなかった。流れるような連続攻撃を繰り出し、その剣筋には隙がない。その動きは、エリオス自身の剣技に似ていた。未熟ではあるが、その動きが自分のものだと気付いた瞬間、エリオスの目が見開かれる。
――これは僕の……?
幼少期から努力を重ねて身につけた技術。それを、まだ拙い物の、ノアはたった数週間で模倣してみせた。
その事実に、ノアの才能への驚き、本能的な警戒、わずかな悔しさ、そしてそれらを凌駕する喜びが胸に湧き上がる。
「ノア君、やっぱり君はすごいよ!」
心からの賛辞を口にしながら、エリオスも攻撃の速度を上げた。ノアも一歩も引かず、二人の剣が激しく交錯する。
防御を捨てた攻撃の応酬が続き、さながら二つの嵐が互いを飲み込もうするぶつかり合い。
観客たちは手に汗握り、その動きを一瞬たりとも見逃すまいと目を見開く。
剣と剣がぶつかり合い、火花が散る。観戦していた生徒たちからどよめきが上がる。
「な、なんだこのレベル……!」
「これ模擬戦だよな? 本物の戦場じゃねえよな?」
「ノアって本当に新入生かよ!」
教師は二人の戦いを目を細めて見守り、手元の記録の紙を強く握りしめる。
アカデミアに責を問われる危険を冒しても見る価値があった……!
激しい攻防が一瞬の静寂を迎える。最後の一撃が互いの喉元に向かい、寸前で止まった。
「両者そこまで!」
教師が鋭い声で制止すると、二人は一瞬で力を抜き、木剣を下ろす。
ノアは一瞬ふらつき、エリオスが慌てて彼の肩に手をかける。
「大丈夫か、ノア君!」
「……まだ動きに慣れていない、体力を使いすぎた」
ノアは剣を支えにしながら肩で息をする。厳しい森の中で生き、持続力と集中力に自信があった彼だが、両手剣の重さと動きに慣れない中での戦いは、これまでの経験とは違う負担を与えていた。
「それでも十分すごいよ! 僕がその動きを習得するのに三年はかかったんだ」
エリオスは嬉しそうに微笑みながら手を差し出し、ノアはその手を借りて立ち上がる。
一方、観戦していた生徒たちは次第に現実に戻り始める。そしてある疑問が浮かんだ。
「なぁ、これってどっちが勝ったんだ?」
「え、引き分けじゃね?」
「で、引き分けって……掛け金はどうなるんだ?」
静まり返った空気の中、全員の視線が一人の茶髪の青年――賭けを仕切っていた胴元に集まる。
しかし、そこに彼の姿はなかった。
「あれ、いないぞ!?」
「おいまさか逃げたのか!?」
「いたぞ! って、あいつもうあんなとこまで――! 逃げ足速ぇ!!」
遠くで「うるせぇ! 引き分けなら普通胴元が持ってくもんだろ!」と叫ぶ声が聞こえ、生徒たちは次々に立ち上がって青年を追いかけ始めた。
「いやいや、許されるわけねえだろ! 待ちやがれ!」
後に残されたのは、呆然とする一部の観客と、教師の深いため息だった。
「まったく、どいつもこいつも……」
教師は再び二人に目を向け、疲れたように首を振る。それでも目の奥にはどこか満足げな光が宿っていた。
……。
長い廊下をエリオスと胴元をやっていた青年が並んで歩く。少し服装が乱れていたものの、その腰には硬貨で膨れた布袋がぶら下がっていた。
「あの人の群れから逃げられたんだね、ダリウス」
「あぁ、みんなも本気で追いかけてるわけじゃないからね、負けた不満を晴らしたいだけだから」
茶髪の青年、ダリウスは頭の後ろに手を組みながら笑うが、エリオスが眉をひそめているのに気づくと、ジト目で睨み返した。
「そんな顔するなって、お前が賭け事嫌いなのはわかっているけど、誰のせいでこんなことやっていると思うんだ? スイート・リュトンのケーキは高いからこうでもしないと厳しいっての」
「……それは否定しないけど」
エリオスは苦笑いを浮かべる。
アタリカ地方で一番人気のデザート店スイート・リュトンのケーキは、その質の高さから長蛇の列が絶えない。高価な素材をふんだんに使うため、庶民には気軽に手が届かない代物だ。だが、その味に一度魅了されると、値段を気にせず並ぶ客が後を絶たない。
エリオスはノアが満足するデザートを用意する際もスイート・リュトンのものを買った。
「どうせ、今日も奢るつもりなんだろ?」
「今日も奢るつもりなんだろ?」
「うっ……まぁ、断れなくてさ」
エリオスは肩をすくめる。ノアの『断られることを一切考慮していない』真っ直ぐな瞳に毎回負けてしまうのだ。
最終的にケーキを買いに行くのはダリウスの役目だが。
「全く、しっかりしてつくよな、お前は将来俺の上司になるんだからさ……」
「でも、本国から経費が落とされるんじゃなかった?」
ダリウスは反論しなかった、賭け事は自体彼の趣味であった。
呆れの目でダリウスを見た後、エリオスが顎に手を当て考え込む。
「ダリウス」
「なんだ?」
「ノア君を騎士団に誘うのはどう?」
「はぁ?」
ダリウスの足が止まり、驚いた顔でエリオスを見つめる。
「お前、そっ《・》ち《・》の騎士団にってことか?」
「そうだよ。いい考えだと思うんだけど」
エリオスは確信に満ちた口調で話し続ける。
「ノア君の才能はアカデミアだけに収めておくのはもったいない。数週間で僕の剣技の一部を吸収したんだ。実力は申し分ないし、爺様もきっと認めてくれる。それに――」
エリオスの声には熱がこもる。
「彼と戦うことで、僕ももっと強くなれると思うんだ」
ダリウスは黙り込んだ。
彼には分かっていた。幼い頃からその才能で周囲を圧倒してきたエリオスは、対等に戦える仲間を渇望していた。地元を離れてアカデミアに入学したのも、その一因があった。
しばらく考え込んだ末、ダリウスは頭を振った。
「無理だな。まず、身元がはっきりしない奴を騎士団に入れるのはありえない。それに、ノアがその話を受ける保証もない」
エリオスから初めてノアの話を聞いた時、ダリウスは即座に警戒してノアの身元調査を始めた。
新入生でエリオストまともに戦える奴がいるのがまずおかしい。ダリウスは人脈などの力を使って調べ上げてわかったことは、ノアはルノヴィア帝国の辺境の森にある村で狩をして生計を立て、クセノフォンの弟子の推薦によってアカデミアの入学試験で合格して入ってきた。
それだけなら無くはない。クセノフォンの弟子は世界中に散って貧困な人にほぼ無料で教育を施すことで有名で、何人も優秀な人材を見つけた実績がある。ノアもそのうちの一人かもしれない。
しかし、それではノアの異常な実力を説明できなかった。
エリオスと同じく幼少期から訓練を受けて来たダリウスは、ノアに勝てる自信がなかった。そこにショックを覚えつつも、ダリウスはエリオスに近づくノアを警戒していた。
もっとも、最近のノアがケーキばかり欲しがる姿を見ていると、疑うのも馬鹿らしく思えてきたが。
「疑いが晴れるまでは、踏み込んだ話をするのはやめとけ。それがいい」
ダリウスは静かに結論づけた。
「そっか……いい考えだと思ったんだけどね」
エリオスは少し残念そうにため息をつきながらも、話題を変える。
「それでさ、最近の任務の進捗はどうなんだ?」
「……防音結界を張ってるからいいけど、あまりこういう話を外でするなよ」
いつの間にか、二人の周囲には見えない風の結界が張られていた。
ダリウスは気を取り直し、低い声で続けた。
「本国でも占い系の秘宝を使って探し続けてるが、やっぱりまだ特定はできていない。でも、少なくとも主神クラスの秘宝だってことは分かった」
「主神クラス……」
エリオスの表情が一瞬硬くなる。
「あの人の剣と同じってこと?」
「ああ、だからこそ、本国は何としても持ち帰れってさ。今は人を使って古典的な調査をさせてる。こないだ、石像を少し削って本国に送ったから、その研究成果を待つしかない」
エリオスは短く「そっか」とだけ答えたが、視線を彷徨わせているのをダリウスは見逃さなかった。
彼は皮肉めいた笑みを浮かべる。
「気にするな、お前がやりたがらないことは、俺がやる。それが俺の役目だろ?」
「……助かるよ」




