数字
「全く、いきなり図書館で魔法ぶっ放すとか何考えてるんだ、普段はこんなでもないだろ?」
「ごめんなさい、でも図書館では走ってはいけないよ?」
「お前だけには常識を言われたくないわ!」
青年はトリシアを担いて走りながら言う。
「だって、セブルス! あの人の数字が見えなかったのよ! とても不思議!」
「……お前でも見えなかったのか?」
セブルスは怪訝な顔をしながらトリシアを下ろす。
「そうなの! 私が三十七、セブルスが二十八って分かるように、誰にでも数字があるはずなのに、あの人だけは何も見えなかった!」
「たまたまじゃないのか? クセノフォン先生の時だって、見えるまで時間かかっただろ?」
「違うの! クセノフォン先生は私の力量が足りなくて見えない感じだった。でも、あの人は隠されてる感じだったのよ!」
トリシアは目を輝かせ、興奮気味に続けた。
「それでね、魔法を使ってみたら、未知の数式がたくさん出てきたの! 面白くない?」
「それであんなに大騒ぎしてたのか。あのな、人に迷惑をかけるのはやめてくれ。いきなり人に向かって魔法を放つなんて、敵対行為だと思われても仕方ないぞ……あの子、明らかに攻撃寸前だったじゃないか」
セブルスは先ほどのノアの冷たい目を思い出し、思わず身震いした。少し目を離した隙に、こんな事態になるとは思わなかった。
「ったく、毎回毎回逃げやがって、研究室の何が悪いんだ? そこなら魔法も自由に使わせてくれるだろう?」
「嫌よ! 研究室では虚像ばかりの議論に時間を割かれるし、真理に迫る本質的な証明には全く至らないわ!」
「……お前ら原理主義者のことがよくわからん、人間の言葉を喋ってくれ」
セブルスが疲れたようにため息をつくと、トリシアが急に足を止める。
「セブルス! 大変、計算ノートを忘れてきちゃった!」
「……おい、それをもっと早く言えよ」
「だって、セブルスが無言で私を担ぎ上げたんじゃない!」
「……また図書館に戻るのか? 次でいいだろう?」
「ダメよ! ノートには未完成の証明が書いてあるの! あれを忘れたら、全てが無限ループよ!」
「わかったから叩くな。周りに注目されてるぞ」
セブルスは肩を落とし、図書館へ引き返した。
ノアはまだ本を見ていた、秘宝が隠された研究所を探すために『アカデミア建築の歴史』を読んでいるが、そこは本当に歴史ばかりで手掛かりになりそうなものを見つけることができなかった。途中で各時代の建築様式が語り出されて、ノアは他の本を調べた方が早いじゃないかと迷ってきた。
本棚を見上げると数冊もある本、見る気力を失う。これは結社の研究班の結果が返ってくるのを待った方がいいじゃないか?
ノアは訝しんだ。
ノアが考えことしていると足音が聞こえる、振り返るとさっきの二人が見える。
大柄の青年の方はどこか気まずそうにしていて、少女の方は目を輝かせていた。
「あー、さっきは悪かった。こいつも本当に悪気があったわけじゃないんだ。普段はもう少し落ち着いてるんだけど――」
「また会ったね! 数字がない人!」
セブルスの話を遮って、トリシアが勢いよく話し出した。そのまま計算に入ろうとするのをセブルスが首の根を掴んで制止する。
「あ、こら、お前もちゃんと謝れ」
「うぅ、ごめんなさい」
「……気にしてない、それよりさっきから数字というのは?」
ノアは少女の奇行よりもそっちの方が気になった。
ノアに敵意がないのを確認して、セブルスが説明に入る。
「そうだな、まず俺はセブルスで、こいつがトリシア。俺たちは数秘学派に属しているんだ」
「朝よく鍛錬している人たち?」
ノアはようやく既視感の原因を思い出した。朝の散歩中によく目にする、白布を纏った集団だ。
「そうだ、まぁ、数秘学派っていうのは、世界の全ては数学で構成されていると信じていて、人間にはそれぞれ魂の数字があるって考えているんだ。それで、その数字を見ればその人の本質が分かるってわけだ」
トリシアがノアの周りをぐるぐる回ろうとすると、セブルスがひょいと彼女の首の根を掴み、宙に持ち上げた。その様子に、ノアは親猫が子猫を咥える姿を連想した。
「こいつはその数字を見る能力が特に優れていて、大抵の人間は一目で分かるんだ。ただ――」
セブルスはちらりとノアを見てから、「例外もいるが」と小声で心の中だけで続けた。
「お前の数字がよく見えなかった。それで、こいつはつい躍起になったわけだ」
「……人間を数字で説明できるとは思えないけど」
ノアは本を閉じながら、疑念を口にした。確かに、数式で説明できる自然界の法則は読んだことがある。しかし、人間の本質まですべて数字で片付けられるとは到底思えなかった。
「そんなことない!」
宙でバタバタしていたトリシアが、急に声を張り上げる。
「数字はこの世界を解き明かすための鍵なのよ! 例えば、木の葉の模様や枝の分岐は全部フラクタル構造っていう数式で説明できるの! あれ、ただの美しい形じゃなくて、数学的な規則がちゃんと働いてるのよ!」
ノアは怪訝そうな顔を崩さない。
「それだけじゃないわ!」
トリシアは身を乗り出そうとする勢いで続けた。
「シマウマの縞模様やヒョウの斑点も、『反応拡散モデル』っていう数式で作られるの。つまりね、自然界のどんな模様も、ただの偶然じゃなくて数学の法則そのものなのよ!」
「……自然界のことは分かった。でも、人間の性格や行動まで数字で説明できるっていうのは……どうしても信じがたい」
ノアが冷静に反論すると、トリシアの目がさらに輝きを増した。
「信じられない? じゃあ、ヒマワリの種の配置は? あれはフィボナッチ数列に基づいてるし、貝殻の螺旋も黄金比で説明できるわ。それだけじゃない、鳥や魚の群れの動きだって数学的なアルゴリズムに従っているのよ! 万物は数式で動いているのに、どうして人間だけ例外だと思うの?」
「……」
そうなのかも? ノアは説得されそうになった。
「それにね!」とトリシアは畳み掛けるように話を続ける。「音楽だって整数の比率で成り立ってるし、オクターブや和音の調和は全て数式の産物。人間の感情さえ、響き合う数学的な調和によって動かされているって考えれば、魂の数字で人間を表すなんて当然でしょ?」
トリシアの真剣な瞳と熱意に圧倒されて、ノアは頭を傾げた。
――そうなのかも? そうかもしれない。いや、本当にそうなのか……?
ノアは混乱した。
「ちょっと待て、トリシア。一旦まず落ち着け」
セブルスは呆れたように肩をすくめ、宙でバタバタしているトリシアを軽く揺らす。
「……こういうのを、いきなり詰め込むんじゃない。こいつ、困惑してるだろうが」
セブルスの苦言を受けて、トリシアは一瞬だけ動きを止めたが、すぐに再びノアを見つめる。
「でも、私は確信してるの! あなたの魂には絶対に特別な『数』があるはず。それを見つけるのが私の使命だわ!」
「……待て待て、いきなり何を言い出すんだ。それに学派の課題はどうするつもりだ?」
「決まりきった答えなんて興味ないわ! 今は新しい証明が目の前にあるの!」
「お前ってやつは、なんでいつもこうなんだ……!」
セブルスは頭を抱えた。彼はよく分かっていた。こうなったトリシアは、テコでも動かない頑固者になるのだ。
仕方なく、セブルスは再びため息をつき、ノアに申し訳なさそうに頭を下げた。
「悪いな、こいつがこうなったら、もう話は通じないんだ。ただ、問題を解くこと以外は何もしない。もし迷惑じゃなければ、ここにいる間だけでいいから、隣に置いてやってくれないか?」
セブルスは周囲を見回し、ノアの手元の本をちらりと見てから、言葉を付け加える。
「それに、ここに来たってことは何か調べてるんだろ? 俺も手伝うよ。その代わりに頼む、じゃないと何しでかすか分からないから」
セブルスの提案に、ノアは一瞬考え込んだ。情報が漏洩するリスクは否めないが、一人でこの膨大な本の山を読み解くことを想像すると、それも苦痛に感じた。
「……わかった」
最終的にノアは頷いた。
「おお、助かる!」
セブルスは大きく息をつき、安心した表情を浮かべた。そして改めてノアをじっと見つめる。
「そういえば、名前を聞いてなかったな。なんて言うんだ?」
「ノア」
「ノアか。いい名前だな。しばらくの間になると思うが、よろしく頼む」
こうして、ノアの調査に奇妙な仲間が二人、いや一人と一人分の騒動が加わったのだった。