図書館
世界最大の図書館と聞かれれば、多くの人がアカデミアを挙げるだろう。八百年以上の歴史を誇るこの図書館には、古代の詩集から貴族の系譜図、さらには偉人の愚痴集まで、ありとあらゆる種類の本が揃っている。
そんなものまで置くから、内部は無駄に広く、迷子になる者が後を絶たない。そのため、いつしか『本の迷宮』と呼ばれるようになった。
かつて、ロザリウムの四代目国王がアカデミアを訪れた際、図書館で遭難して、護衛とともに二日後に衰弱した状態で救出されたという。言い伝えでは、王はその時「もっと分かりやすい図書館を作る!」と息巻き、帰国後に国立図書館を建設したらしい。
そんな哀れな王の話を思い浮かべながら、ノアは受付で学生証を提示し、図書館の中へと足を踏み入れた。
天井のステンドグラスから差し込み光を受け、壁に飾られた油彩画が輝く、中央には壮大な螺旋階段。重厚な大理石と厚木から永久な時を感じさせる、芸術品とも呼ばれるアカデミアの図書館。
受付の近くで足を止めていたノアに、受付の職員が声をかける。
「いらっしゃいませ。何かお手伝いできることはありますか?」
「アカデミアの歴史が書かれた本を探している。どこにある?」
「アカデミアの歴史ですか……少々お待ちください」
職員は資料の束を手際よく確認しながら、ノアに話しかけ続ける。
「珍しいですね。アカデミアの歴史を調べる方はほとんどいませんよ。大抵は偉人の業績や理論を探しに来るんですが」
「アカデミアの歴史には興味がある」
「なるほど、勉強熱心ですね……ありました!」
職員はノアに案内図を渡す。
「ここには近寄らないでください。立ち入り禁止です」
「ここは?」
「先生の同伴がないと入れない場所です。迷宮のようになっているので、許可なく近づくと迷う可能性があります」
「……なぜ迷宮に?」
「重要な本が保管されている場所だそうです。以前、盗もうとした不届者がいて、こうした措置が取られたんだとか」
「ならば金庫にでもしまえばいい」
「私もそう思いますよ。でも、賢人たちは『縁ある者なら挑戦して構わない』とおっしゃっているそうで」
職員は肩をすくめながら微笑んだ。
「普通に申請すればいいだけの話だと思うんですけどね」
ノアは軽く頷き、案内図を手にして歩き始める。コツコツと、階段を踏み締める靴音が小さく反響する。
無数のテーブルで勉強に集中している生徒たち、ハシゴを使って高い本棚から本を取る者、机に突っ伏して寝ている者。誰もがそれぞれの時間を過ごし、図書館の静寂を共有している。階段から見下ろしながら、ノアの足音は図書館を構成する音に溶け込む。
目的の場所には先客がいた。
本棚に囲まれた空間の静寂を破るように、その手に握るペンで大きな紙に数式を書き込む。澄んだ空色の波が頭の動きに合わせて揺れ、その中で跳ねるアホ毛が目を引く。どこか幼さを残す顔立ちの少女が眉間に皺を寄せて紙を睨む。
真剣な顔で問題を解く少女以外に、人影はない。
――どこで見たことある……?
少女の服装に微かな既視感を覚えながらも、ノアはすぐに興味を失い、目的の書物を探し始める。
『求知の灯火:アカデミア創設史』『賢人たちの足跡:アカデミアを彩った人物録』『八百年の叡智:アカデミア年表』……タイトルを眺めただけでも十冊以上ある。ノアはニコスに騙された気分になりながら、一番関係がありそうな本、『アカデミア建築の歴史』を手に取った。
ハシゴから降り、他にテーブルがないから、少女が座るテーブルの端の席に腰を下ろして本を開く。
アカデミアの建築は、創設当初は小さな校舎だけだった。
最初は純粋な学びの場として設計されていたが、次第に多くの人々が集まるようになり、そのたび生徒たちが伝統に従い、自らの手で校舎を拡張したという。
――ぴょこ
二百年後、何度も拡張や改築を繰り返した結果、建物は複雑に入り組み、根本的な見直しが必要とされた。その際、土地計画が全面的に見直され、最初の校舎が取り壊され、新たに象徴的な時計塔が建てられた。このときの設計図が、現在のアカデミアの基本構造を形作ったとされる。
――ぴょこぴょこ
「……」
……やがてアカデミア建築の最も華やかな時代が訪れる。それは貴族の全盛期と重なり、アカデミアで学ぶことがステータスと考えられるようになった時代だ。しかし、アカデミアの入学試験は非常に厳しく、努力なしでは入学は困難だった。そこで一部の貴族たちは、貴重な絵画や彫刻、芸術品、さらには建築補助金として多額の裏金を渡し、わが子の入学を認めさせたという。
この時期に天文台や巨大な集会場といった象徴的な施設が次々に建設された。しかし、それと同時にアカデミアは政治の場となり、創設者たちが掲げた『すべての民の愚を払う』という理念は失われ、後世に『アカデミアの暗黒時代』と称される時期でもあった――。
――ぴょ
「……さっきから何?」
無視を続けようとしたが、視界の端でひたすら揺れ続ける空色のアホ毛の激しい自己主張に、とうとうノアは耐えきれなくなった。ページをめくる手を止め、ジト目で目の前の少女を見据える。
問題を解いていた少女は、いつの間にかノアの対面に座っていた。ペンを握ったまま、困惑した表情を浮かべながらじっとノアを見つめている。
「むむむ……本当に不思議だわ」
少女はじっとノアを見つめたまま首をかしげる。
「あなたの数字が見えないの!」
「数字?」
「そう、数字! 惑星の軌道、物理の法則、蝶の翼や木の葉の模様まで、この世界はすべて数学で説明できるの!」
少女は珍しいものを見たみたいにはしゃぐ。瞳には知性と好奇心が共存するような独特の輝きを放っていた。
「でも……なのに、あなたはまるで何もない空白みたいだわ! 数字が一切見えないなんて、あり得ない……本当に、不思議で仕方ないの! あなた本当に人間?」
これは罵倒と受け取っていいのか?
ノアは困惑した、初めて見るタイプの人間で対応の仕方がわからない。
「……人間以外の何に見える?」
「そうゆうことじゃないの! あ、でも……うーん、もやがかかっているけど、頑張れば見えそうだわ!」
少女は輝く瞳で声を弾ませた。
「これもすべて初めての現象よ! 解明するのが楽しいわ、まるで新しい数式のパズルみたい! ……万物は数で構成されている――『演算』!」
彼女が突然、短く詠唱して指先で宙をなぞる。宙に無数の数式が現れ、目にも止まらぬ速さで変化する。線と線がつながり、幾何学模様が複雑に描かれる。少女の澄んだ水色の瞳は淡い光を帯び始めた。
ノアは即座に後退して戦闘態勢をとる。袖にナイフを召喚して、いつでも攻撃できるようにする。
「ちょ、動かないで! 値がずれちゃう!」
「……何をしている?」
ノアは警戒を緩めず、低い声で問いかける。この状況は異常だ。通常、誰かに向かって突然魔法を放つのは非常識――のはず。
「何って、計算よ! 見て、未知の数式がいっぱい! こんなに面白いこと、滅多にないわ!」
「……?」
手を大きく広げ、無邪気にはしゃぐ彼女を見て、ノアは困惑する。敵意を感じないが……油断するわけにもいかない。とはいえ下手に動くのは任務に支障をきたす。ヘレナさんはこうゆう時どうすればいいと言っていたっけ?
どうしたものかと判断を迷っていると、遠くから足音が近づいてきた。
「トリシア、何やってる!?」
鋭い声が響くと同時に、ノアの目の前で少女――トリシアの頭に見事な手刀が炸裂した。
「ひゃっ、いたっ!」
トリシアが頭を抱えてしゃがみ込むのを見て、ノアは驚きとともに目を細める。いきなり現れた青年の手刀はノアも思わず感心するものだった。
青髪の青年は焦りと怒りが入り混じった表情を浮かべてトリシアを問い詰める。
「お前、ここで魔法を使うなんて何を考えてるんだ!?」
「うぅ、ごめんなさい! でも、見てみて!」
トリシアは頭を抱えたまま指を宙に向ける。
「これ、すごく面白くない? 全てが未知の数式で組み合わさってるんだもの!」
「確かに面白い……だが、ここは図書館だぞ! 魔法の使用は禁止されているんだ。監視員が来たらどうするつもりだったんだ!?」
青年は一瞬、空間に浮かぶ数式を目で追ったものの、再びトリシアに向き直って厳しい声を上げる。ノアは二人のやり取りを静かに観察して、手元のナイフを消した。
そんなノアの視線に気づいた青年は、驚いて振り返り、わずかに身を強張らせた。冷ややかな目を向けるノアの雰囲気は、まるで今にも動き出す蛇のようだった。
「す、すまない! こいつに悪気はないんだ。ただ、少し……調子に乗っただけで……!」
青年は慌てて頭を下げ、申し訳なさそうにトリシアへと視線を戻す。そして慣れた様子で彼女を担ぎ上げると、急いでその場を去ろうとした。担がれたトリシアは足をぶらつかせながら、ノアに手を振る。
二人は一瞬のうちにその場を後にした。
「またね! 絶対、また話そうね!」
勢いよく手を振る彼女の声が図書館の静寂に響き渡る。青年は苦々しい顔で「静かにしろ」と呟きながら足早に立ち去った。
その場に残されたノアは、二人が消えた方向をしばらく無言で見つめた。
「……何だったんだ、今の」
テーブルにはトリシアが使った資料や用紙が広げられたまま散乱している。ノアは一瞬だけ片付けるべきか考えたものの、どうせまた戻ってくるだろうと判断した。
彼は読みかけの本へと意識を向け、静かに続きを読み始める。図書館は再び静寂を取り戻し、先ほどの出来事がまるで幻だったかのようだ。