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求道者  作者: 脱走中の患者
アカデミア編
16/41

商会と指輪

 医務室での一件の後、ノアとエリオスは授業に戻った。ノアの腕に巻かれた包帯を見たエミールたち、特にレオが、エリオスに掴みかかろうとする一幕があった。しかし、エリオスが真摯に頭を下げ、自らの過ちを謝罪したこと、そしてノア本人が全く気にしていない様子を見せたことで、その場は穏やかに収まった。


 エリオスは後日、謝罪の品としてノアに高級デザートを贈った。それは舌が肥えたノアをも満足させる一品で、デザートを頬張るノアの目が輝く様子を見て、エリオスは安堵の表情を浮かべた。

 

 あそれを境に二人の関係は少し変化した。鍛錬の時間ではペアを組むことが増え、最初は同じ過ちを繰り返さないように慎重だったエリオスも、ノアの驚異的な上達速度に心配を手放し、今では互いに全力で打ち合う相棒となっていた。

 

 さらに、ノアがデザートを目当てにエリオスの周りに現れることも増えた。エリオスは苦笑しつつも、どこか嬉しそうに見えた。


 ――そして今、ノアは再びオルビス商会の前に立っている。

 

 チリーン――心地よい鈴の音が響き、ノアは静かに商会の扉をくぐる。


 店内は活気に満ちており、商品棚の間を従業員たちが忙しなく行き交い、客たちが商品を吟味している。前回ノアに対応した従者が彼を見つけ、穏やかに「こちらへどうぞ」と促し、ノアはその後ろを歩き出す。木製の床が足元で軽く軋み、落ち着いた雰囲気の中に微かな喧騒が混じっていた。


 従者が扉の前で礼儀正しくノックをすると、中から落ち着いた声が返る。


「どうぞ、お入りください」


 ノアが扉を開けると、部屋の中は忙しい空気に包まれていた。従者たちが机に並べた書類に次々とペンを走らせ、幹部と思しき男がその中心で指示を飛ばしている。ペンの動きに合わせてわずかに紙が擦れる音が部屋に響き、どこか殺伐とした空気が漂っている。


 ノアが入室したことに気づいた男は、顔を上げてノアを見ると、申し訳なさそうに微笑んだ。


「少々お待ちいただけますか? すぐに終わらせますので」


 男は手元の書類に手を走らせつつ、ノアに近くのソファを勧めた。ノアが静かに腰を下ろし、差し出された飲み物を飲みながら、部屋全体の忙しさが収ま流のを待った。やがて男は手元の仕事を終え、ノアの正面に座った。

 

「お待たせしました」


 男が柔らかな笑みを浮かべて言うが、その顔には疲労の色が滲んでいた。


 ノアは手元のストローから口を離し、淡々と尋ねた。


「忙しいのか」

「ええ、少々……来月の春の帰還を祝う祭りの準備で、商会全体が対応に追われています。祭りは全地域で開催される大規模なものですから、商機を逃すわけにはいきません」


 幹部は目を細めてノアを見つめる。


「それにしても、その飲み物の味はいかがです? お気に召しましたか?」

「美味しい。甘さがちょうどいい」

「それは良かった。こちらは弊社の新商品でして、南海岸特産のオランジュをふんだんに使った一品です。君、私にも同じものを」

「はい、ニコス様」

 

 従者が慌てて同じ飲み物を用意すると、ニコスは一口含み、満足そうに頷いた。


「やはり、疲れた体には甘いものが一番ですね……さて、話を戻しましょうか。ノア様、今回はどのようなご用件で?」

 

 幹部は無言で頷くノアを見つめながら、話を切り出すと、ノアは無言で懐から小さな包みを取り出し、テーブルの上に置いた。ニコスは一瞬困惑した表情を浮かべながら、包みに目を落とす。


「こちらは……」

「ヴィクター先生が『人を石にする秘宝』について調べているのは知ってる?」

「はい、話は伺っています」

「石にされた人を削ってきた、これはその粉、何かに使えない?」


 ニコスはわずかに目を見開き、慎重に包みを手に取って、丁寧に仕舞った。

 

「なるほど、これがあれば秘宝を研究して場所を特定できるかもしれません、本部の研究班に渡して分析を進めましょう」


 ノアは軽く頷き、従者に飲み物のお代わりを要求してから、続けた。

 

「それと、アカデミアの設計図が欲しい、手かかりになるかもしれない」

「設計図……」

「難しい?」


 思案顔を浮かべるニコスを見て、ノアが聞くと、ニコスは軽く首を振った。


「いいえ、ただ、少々厄介です。アカデミアは何度も改築と拡張を繰り返しており、過去の設計図は現状と一致しない部分が多いのです。それに、教廷の妨害で情報そのものが乏しい状況です……アカデミアを調べるなら、図書館から直接調べたほうが早いでしょう」

「図書館?」

「はい。アカデミアの図書館は世界中の本が収蔵されていると言われるほどの規模です。その中にはアカデミア自身の記録も必ず残されているはずです」

「……あまり本は見たくない」

 

 二ヶ月間の猛勉強のトラウマが蘇り、ノアは無意識に肩をすぼめた。その様子に気づいたニコスが小さく笑った。


「そうおっしゃらずに。賢人たちの膨大な業績を除けば、アカデミアの歴史自体は案外シンプルなものですよ。それに、設計図そのものもお渡しします。我々が見落としていた手がかりを、ノア様が発見されるかもしれません」


 そう言うと、ニコスは席を立ち、周囲の従者たちに目配せした。従者たちは迅速に部屋の四隅に散り、門の前を守るように配置についた。ノアが小さく首をかしげる間に、ニコスは部屋の壁の一箇所に手をかざす。


 すると、壁全体に赤い線が走り、音もなく地面に沈み込むように消え、地下へ続く階段が現れた。ランプの柔らかな光が壁の石肌を照らし、薄暗い通路を浮かび上がらせる。


「さあ、ノア様。こちらへどうぞ」

「……わかった」


 ノアはニコスの後に続いた。石壁に並ぶランプが次々と灯り、静かな通路には二人の足音だけが反響する。冷たい空気がノアの肌を撫でる中、しばらく歩き続けた先に、巨大な石造りの扉が姿を現した。


 ニコスが扉に手をかざすと、重々しい音と共に扉が開き、奥の光景がノアの目に飛び込んできた。中は予想を超える広さで、天井は二階建ての建物ほどの高さがあり、床の中央には複雑な魔法陣が描かれていた。周囲には木箱が山のように積み上げられ、その隙間から武器や液体の入った瓶がちらりと顔を覗かせている。


 特徴的なローブをまとった結社のメンバーが作業をしていたが、ニコスの姿に気づき、動きを止めようとした。だが、ニコスは軽く手を上げて制した。


「そのまま続けてください。ただ、先日本部から取り寄せたアカデミアの設計図を持ってきてほしい」

「承知しました。どの範囲を?」

「すべてだ」

「かしこまりました」


 メンバーはすぐさま行動を開始し、数分後、大量の紙束を抱えて戻ってきた。それを広げたテーブルの上には、膨大な量の設計図が並べられる。ノアはそれを一つ一つ眺め、ある一枚の小さな設計図に目を留めた。他のどの建物よりも簡素なその図面が気になったのだ。


「これは?」


 ノアの疑問に、ニコスが設計図を覗き込みながら答える。


「それは、最初期のアカデミアの校舎です」


 彼は指で図面をなぞりながら説明を続けた。


「当時はまだ規模が小さく、この建物が四つ入るくらいの広さしかありませんでした。アカデミアの初期の建設には結社も関与しており、そのため初期の設計図は容易に手に入りました。しかし、後に教廷や貴族の出資で大規模な改築が行われ、その際の情報は教廷の干渉もあって入手困難になったのです」


 ノアは紙束を見つめ、眉をひそめる。


「この量を全部持ち帰れない」


 ニコスは小さく笑みを浮かべ、従者に指示を出す。


「ご安心ください。そのための装備があります」


 従者が小さな箱を持ってきて、テーブルの上に置いた。ノアが箱を開けると、中には銀色に輝く指輪が収まっている。その表面には、細かな紋様が刻まれていた。

 

「これは?」

「空間の指輪と呼ばれるものです。秘宝の力を分析し、我々の研究班が再現した人工秘宝です」


 ノアが指輪を手に取り、じっと見つめると、ニコスが手順を説明した。


「その指輪を装着し、設計図に触れて『しまう』と心の中で念じてください」


 ノアが指示通りに指輪を装着し、設計図に触れると、図面全体が柔らかな光に包まれた。そして、一瞬のうちに設計図は消え去った。


「……消えた?」

「ええ。安心してください。今度は取り出すようイメージしてみてください」


 ノアがイメージを集中すると、消えたはずの設計図が再び光と共に手元に現れた。その様子を見たニコスは満足げに微笑む。


「素晴らしいでしょう? まだ研究段階ではありますが、これが実用化されれば多大な恩恵をもたらすはずです」


 ニコスは情熱を込めた声で説明を続けた。


「この指輪は秘宝を参考に、我々が作り出した人工秘宝です。ですが、量産化はまだ難しく、製作には莫大な費用がかかります。それに性能も完全ではありません。収納可能な容量は馬車の半分ほどが限界で、場合によってはそれ以下になることもあります。また、重さに比例して効力が変動するという課題も抱えています。それでも、この技術が持つ可能性を考えれば、商会にとって革命的な意味を持つのです」


 ノアは指輪に目をやりながら、淡々と尋ねた。


「そんなにすごいものなのか?」


 正直、ノアが真っ先に思いついたのは、袖に入れなくても好きなだけお菓子を持ち歩けるという些細な発想だった。しかし、ニコスはその質問に真剣な眼差しで頷いた。


「ええ、この指輪がどれほど画期的なものか、まだ実感が湧かないかもしれませんが……これは物流の歴史を根底から変える可能性を秘めています」


 ニコスは指で輪を作り、その小ささを強調するように見せた。


「例えば、今まで馬車十台、いや、それ以上を必要とした物資の運搬も、この指輪ひとつで完結するかもしれません。馬を走らせる時間も、人手も削減できる。貿易のコストは劇的に下がり、交易の規模は飛躍的に拡大するでしょう。この指輪が持つ価値は、単なる便利さに留まらず、経済を活性化させ、国家間の物流そのものを変革する可能性があるのです」


 ノアは静かに指輪を見つめたまま、無言でその言葉を聞き入っていた。ニコスは彼の反応を見て、さらに熱を帯びた口調で続けた。


「そして……この技術の本当の価値は、数に限りがあり、奪い合いの対象となる秘宝を、我々の手で再現できたことにあります」


 彼は手を広げ、空間全体を指し示すような仕草をした。


「これまで結社や商会が秘宝に頼ってきた理由は明白です。秘宝はその存在だけで勢力や経済の均衡を揺るがし、時には戦争の引き金にさえなる。しかし、同時に大きな弱点もあります。それは、手に入れるのが極めて困難であり、失えば全てが終わるということです」


 ニコスはノアに向かって真剣な眼差しを向ける。


「この指輪は違います。これは秘宝ではなく、人工的に作られたもの。同じ技術を発展させれば、複製や改良が可能になります。つまり、これまで我々が秘宝に縛られていた時代から、自ら力を創り出す時代へと踏み出したのです」


 彼の言葉には熱がこもり、未来を語る瞳は力強く輝いていた。


「空間の指輪はその第一歩です。まだ未完成な部分が多く、課題も山積みですが、もしこの技術がさらに発展すればどうなるか考えてみてください。指輪だけではなく、箱、馬車、そしていずれは船――これらが全て空間を持ち歩くことができるとしたらどうでしょう? 物流だけでなく、戦争、外交、さらには日常生活のすべてに革命を起こす可能性があります」


 ノアはじっと指輪を見つめた。


 ニコスは彼の様子を見て満足そうに頷くと、最後に言葉を添えた。


「秘宝の争奪戦を終わらせるのは、このような人工の技術です。我々は秘宝に頼る時代を終わらせ、真の自由と繁栄を手に入れる。そのために、この技術を進化させることが私たちの使命なのです」


 その場にいた結社のメンバーから「おぉ」と感嘆の声が上がり、控えめながらも拍手が鳴り始めた。ニコスは一瞬驚いたように視線を彷徨わせたが、ノアが無言で加わるのを見て、思わず照れたように頭を掻く。


「……少し熱く語り過ぎてしまいましたね。ノア様、他に何かご要望はございますか?」


 ノアは指輪を眺めたまま、小さく頷いた。


「話、面白かった。それで、さっきの飲み物……持ち帰っていい?」


 ニコスは心底嬉しそうに笑みを浮かべ、軽く頭を下げた。


「もちろんです。直ちにご用意させます」


 二人は地下の密室を出て、地上の応接室へ戻った。そこには先ほどノアたちが去る時と変わらない穏やかな空間が広がっていた。ニコスは従者に声をかけ、数分もしないうちにトレーに載せたドリンクが運ばれてくる。


 ノアはテーブルの上に並べられた四つのコップをじっと見つめ、首をかしげた。


「四杯あるけど、いいの?」

「ぜひとも、ご友人に差し上げてください。もし気に入っていただけたら、商会の名を広めていただけると嬉しいのですが……」


 その言葉とともに、ニコスの顔に商売人らしいしたたかな笑みが浮かぶ。それを見たノアは小さく頷くと、静かに手を伸ばした。しかし、コップに触れる寸前でニコスが片手を挙げて止める。


「おっと、指輪でしまうのはお控えください。まだ未完成なので、液体が溢れてしまいます」

「……わかった」

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