2.元婚約者との再会
王城の大広間に招待された少女は、完璧な装いで豪華な夜会会場の席に座っていた。
かたわらには異国の王に扮した悪魔がいる。
さらに美しく毛並みを整えられた黒い翼のある猫が、小さな王座で歌っている。
「全く、俺のものに歌を仕込むとは、とんだことをしてくれた」
悪魔は相変わらず文句が多いが、少女はミーアを歌わせながら、違うところを見ていた。
それは、少女の元婚約者であり、今は他の女性の婚約者になった男だった。
男は貴族女性の細い腰を支え、広間の中央で優雅な足取りで踊っている。
洗練された装いで、その所作の一つ一つが優美に見える。
「あれが、悪魔と取引してでも会いたかった男か?」
悪魔は興味もなさそうに眺め、嘲るように薄く笑った。
少女は羽のついた扇で顔を隠し、そっぽを向いた。
顔の美しい悪魔の周りには貴婦人たちが押し寄せ、ダンスの順番を待っている。
それを悪魔は巧みな話術で断り、少女の傍を離れようとしない。
高貴な王に溺愛されている少女に、貴族令嬢達たちが不躾な嫉妬の眼差しを向けているが、少女は気づいていなかった。
踊っている元婚約者が、相手の女性をくるりと回しながら、ちらりと少女の方を見た。
元婚約者を見ていた少女は、すぐにそれに気が付いた。
悪魔がどうやって身分を偽っているのかわからないが、悪魔が異国の王であれば、少女はその王に見初められた王妃だった。
元婚約者や元婚約者と踊っている女性より高い身分にあり、王でさえ羨むような宝石を身に着けている。もっと威張って、夜会の中心で勝ち誇ったように微笑んでいても良い立場だ。
元婚約者を呼びつけ、膝をつかせることだって出来る。
それなのに、少女の気分は最悪だった。
思った通りに行かなかったことに失望し、少女は扇で顔を隠し、憂鬱な溜息をついた。
「はぁ……」
「退屈か?」
悪魔は相変わらず嫌な笑みを浮かべている。
唐突に、少女は、この男に純潔を捧げたのだと思い出した。
これほどの美形の男と寝たというのに、憂鬱な夜会のことで頭がいっぱいで、最初から最後までよくわからないまま終わってしまった。
それを、少女は少しだけ残念に思った。
たった一回きりのことだったのだから、もっと楽しんでおくべきだった。
不思議なことに、深く考えもせず悪魔に体を捧げたことに関しては、全く後悔していなかった。
むしろ、初体験の相手がこれだけの美青年であったことに感謝すらしていた。
なにせ、結婚寸前で捨てられた身であり、法で定められた結婚可能年齢を二年も過ぎている。
もうじき二十歳を過ぎれば、少女とも言えない年になる。
庶民であればすでに行き遅れの域に入っているのだ。
今後、そうした体験はもう二度と出来ない可能性だってある。
それに、この悪魔を一目見た瞬間、純潔を捧げるならこんな男が良いと思ったのだ。
一目惚れとも言えなくもない感情だったが、残念ながら、まだ心は元婚約者のことを追いかけていた。
「踊ってみよう」
悪魔が少女の手を引っ張った。
どんな魔術が働いたのか、その巧みな誘導で、少女は誰よりも可憐に美しく踊っていた。
輝くばかりの豪華な宝石を身に着け、艶やかなドレスの裾を花のように広げ、くるくると回り、美形の王に抱き留められる。
まさに女性なら誰もが憧れるような立場にある少女は、悪魔の美貌と同じぐらい注目を浴び、高貴な騎士達からも羨望の眼差しを向けられていた。
ダンスが終わると、王国の王族達がこぞって悪魔に挨拶に訪れ、美しく着飾った少女にも丁寧なお辞儀をした。
その列が短くなってきた時、列の後ろに元婚約者が並んだ。
相手の女性がいるのであれば逃げようと少女は思ったが、男は一人で立っていた。
悪魔と少女の前で、男は腰を屈め、礼儀にのっとって少女の手の甲に唇を落とした。
「第三王女の婚約者であられるとか、将来有望であられるようだ」
男と悪魔のやりとりはごく自然に行われ、少女はそれをぼんやりと聞いていた。
本当は、悪魔の力を借りて、自分をふったことを男に後悔させてやろうと思っていたのだ。
もっと身分の高い男と結婚し、華やかな装いを見せつけて幸せなふりをして笑ってやろうと決めていたのに、悲しいことに何の感情も湧いてこない。
せっかく命や魂まで捧げてここまで来たのに、全ての計画が台無しだった。
男が去ると、少女は邪魔くさいドレスの縁をつまんで後ろを向いた。
悪魔がさりげなく少女の腰を支え、庭園に誘う。
「どうした?嫌がらせがしたいなら力を貸してやるぞ」
噴水の前に置かれたベンチに座り、少女は疲れたように肩の力を抜いた。
「いいのよ……。彼を見たら……幸せそうで良かったって思ったの。将来有望なのでしょう?彼は私を置いて違う世界に行ったのね。それがはっきりとわかった。
今更、私に出来ることなんてなかったのよ。それに……最悪なことにまだ彼を愛している。愛していたら……嫌がらせなんて出来ないじゃない」
悪魔は酷く不愉快な顔をした。
「退屈な話だ。命と魂を捧げたのに、その姿を見ただけで帰るのか?」
「その価値はあったわ。あなたがいなければ、私は楽団の隅っこで、ただカーテンの裏に隠れているだけだった。主役はミーアだったのだしね。
あなたは……少なくとも私が彼の前に堂々と立てるように、手を貸してくれた。どこかの国の未来の王妃としてここに来るなんて、私一人じゃ出来なかった。もう十分よ。今日ついた嘘は、明日になれば消えてしまうの?」
「いや。消えてしまいはしないさ。俺は少し遊んでくるかな」
優美な仕草で立ち上がり、悪魔が去ってしまうと、少女は薄暗い庭園に一人になった。
噴水の水に庭園灯の光が映り込み、オレンジ色に輝いている。
湿った夜風に、咲き誇る花の香が混ざり込み、少女の鼻先を吹き抜けた。
その香りさえ、森の中で自由に咲き、無秩序に香る花たちより上品で洗練されているように感じる。
ここが元婚約者が、婚約を破棄してでも来たかった場所なのだと、少女は静かに考えた。
その時、噴水の音に混じり、石畳を叩くような、固い靴音が近づいてきた。
「フィーネ……」
少女は声のした方に顔を向けた。
薄暗がりに、元婚約者が立っている。
ついこの間まで、自分を抱きしめてくれていた、その頼もしい体は、もう他人のものだった。
「こんなところを見られたらまずいのではない?なにせ、私はあなたに二度と会わないようにと勤め先まで奪われ、さらに誘拐されて国境付近で捨てられたのよ?
ああ、あなたには関係ないことよね。見つかっても、殺されるのは私で、あなたではないものね」
少女は、噴水の波打つ水面に視線を戻した。
元婚約者が息を飲む気配がして、少女は少しだけ安心した。
もしかしたら、自分を追放しようとしたのは、元婚約者かもしれないと、かすかな疑念を抱いていた。
そうではなかったと、確かめられただけでも、ここに来たかいがあった。
捨てられたとしても、少しでも愛があったと思えた方が救いがある。
暗闇からまた元婚約者の声がした。
「知らなかった……」
打ちひしがれたようなその声音に、少女は苦痛を感じ、目を伏せた。
仕返しをしにきたというのに、元婚約者のそんな声は聴きたくないと思ってしまう。
「良かったわ。私はてっきり、あなたが私を追い出そうとしているのだと思ったから」
「違う!俺は……君を守るために王女の婚約者になった。君を……殺すと脅された」
「今の婚約者に会えていなければ死んでいたわ。あなたの行動は意味がなかったみたいね。
裏切られたのだと思って、一人で死ぬところだった。
実際、そうなっていたかもしれない。でも……わかったの。あなたを恨むことは出来ない。
幸せになってね。それから、もう二度と私に近づかないで。私を死なせたくないと思ってくれるのならね」
元婚約者が立っている場所は、ぎりぎり庭園灯の灯りが届かないところであり、その顔は闇の中に隠れている。
にも拘わらず、少女は誰かに見られてしまうのではないかと心配になってきた。
またよりが戻ったなどと誤解されたら、元婚約者と王女の結婚が無くなってしまうかもしれない。
捨てられ、死にかけたというのに、元婚約者の立場を気にしてしまう自分にうんざりし、少女は椅子を立とうとした。
その手にふと誰かの手が触れた。
悪魔がいつの間にかそこに戻っていた。
暗がりから現れ、さりげなく少女の隣に座る。
仕方なく、少女もまたベンチに戻った。
「失礼、邪魔をしたかな?」
悪魔は少女の手を握り、暗がりに立つ男の方に顔を向けた。
「確か、オーレアン将軍だったかな?話を聞いてきたよ。ずいぶん早く出世されたようだ」
オーレアンはぐっと言葉を詰まらせ、唾を飲み込んだ。
夜会に登場した美しいフィーネの姿にも未練を覚えたが、フィーネの現婚約者であるバレア国、国王の存在は思いがけず、オーレアンの胸にえぐるような痛みをもたらした。
二人で庭園に入っていく姿を目撃し、国王だけが戻ってきたところで、すかさず庭園に向かった。
この期に及んで、オーレアンは捨てたフィーネの愛を確かめたくなったのだ。
そんなところを、フィーネの現婚約者に見つかってしまった。これほど情けなく、気まずい話はない。
フィーネを捨てておきながら、その愛に未練を残し、のこのこ人のものになった元婚約者に近づいてきたオーレアンを、国王は憐れみ嘲っているのだ。
返す言葉が見つからないまま、オーレアンは深く頭を下げた。
「気を付けられると良い。王女が結婚を急いでいるのは、理由がありそうだ。まぁ、愛があれば誰の子供でも育てることが出来るだろう。そろそろ戻られては?」
それは確かな疑念をオーレアンに植え付けた。
黒い種火はこれから始まる結婚生活の中でくすぶり続け、いつか燃え上がるかもしれない。
そんな不吉な予感を秘めていた。
それが報いなのだと思い、オーレアンはバレア国の王の言葉を受けとめた。
やはりここに来るべきではなかったと後悔しながら、オーレアンは無言で頭を上げ、踵を返した。
その瞬間、背後で小さな靴音が響いた。
少女が悪魔の手を振り払い、立ち上がった。
「オーレアン!私の婚約者は性格がとっても悪いの。私でも辟易するぐらい本当に悪魔のように性悪なの。だから、ごめんなさい。今の言葉はどうせ、嘘よ!気にしなくて良いの。だから、絶対に、絶対に幸せになってね。私、あなたの幸せを願っているから。愛した人の幸せを願わない人なんていないんだから!」
許しと、それから確かな愛がその言葉には込められていた。
オーレアンは足を止め、振り返りたい想いをぐっと堪えた。
自分のプライドや幸せ、そんなものを投げ出して、フィーネはオーレアンのために、現婚約者の前にも関わらず、最後の愛を伝えてくれたのだ。
これだけの愛を注いでくれた女性に、自分は何をしたのか。
そう考えた瞬間、オーレアンの脳裏に、少女との愛に満ちた思い出が一気に蘇った。
フィーネが広間に姿を現した瞬間、もしかしたら復讐をしにきたのではないかと恐れたが、次の瞬間にはもうその考えを否定していた。
計画したとしても、フィーネにそれが出来るわけがないとわかっていた。
捨てられ、殺されかけても、フィーネは復讐を成し遂げられず、失意のもとに去っていくのだ。
あとで、もっと嫌なことを言ってやればよかったぐらいは思うかもしれない。
でもそれ以上のことは出来ない。
根が真っすぐで愛情深く、優しいからだ。
闇の中で、オーレアンは静かに涙を落とした。
その涙を袖で拭い、夜会会場の広間から溢れ出ている光を遠くに見る。
「君も……。フィーネ、幸せになってくれ」
愛と優しさに背を向け、生きていくのだとオーレアンは覚悟を決めた。
少女と別れたのは、王女の脅しがあったからだけではない。
身分や地位を手放せない気持ちも確かにあった。
華やかな王城の広間でオーレアンを待つのは、愛のない婚約者だ。
少女が捧げてくれた以上の愛は望めない。
拳を固く握り、オーレアンは闇に沈む庭園の中を静かに歩き出した。
その遠ざかる足音を聞きながら、少女は再びベンチに力無く座り込んだ。
「はぁ……」
また憂鬱な溜息がこぼれたが、今度は、どこかすがすがしい諦めの感情も混じっていた。
悪魔がさりげなく少女の肩に手をまわした。
「もう終わりか?」
「終わりよ!」
少女はぴしゃりと言って、空を見上げた。
冷たい雨とは違い、星々は優しく見守るように、少女の頭上できらきらと輝いている。
そんな満天の星に、少女は別れた婚約者の背中を重ね、今度こそお別れね、とかすかに微笑んだ。
「ミー」
少女の膝に、自由で気紛れなミーアが戻ってきた。
歌に飽きて、テーブルの上を歩き回り、たっぷり美味しいものを食べてきたに違いなかった。
王様のお皿からも、ケーキをくすねてきたかもしれない。
それでも、愛されてしまう自由な存在だ。
「ミーア、そろそろ帰りましょうか?」
ミーアは少女の膝で丸くなり、もうその瞼を閉じていた。
それを横目に見た悪魔は、納得できないなといった様子で、形の良い鼻に皺を寄せた。




