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あの子になりたい



 あの子になりたい。一日中外に出ずその一生のほとんどを家の中で過ごすあの子に、自分の限界を知っていて必要な時に自分の意思で休息をとれるあの子に、それでも自分の力ではどうしようもなくなった時には誰かがそれに気付いてくれて必ず手を貸してくれるあの子に。

「あなたはいいね、私はあなたになりたいよ。一日でいいから私たち役割交代しない?」

 小さなモーター音で問いかけに答えたあの子(ロボット掃除機)は、私から逃げるように部屋の反対側の壁へと向かって走って行ってしまった。


 私は、私の仕事はそのうちロボット掃除機にもできるようになると思う。なぜなら、文書の校閲なんて文字の羅列の中の小さなゴミを吸い取るのと大差ないのだ。家で床のゴミを吸い取りながら生きているあの子に私が唯一勝る点といえば、不要になった紙をシュレッダーにかけられることだろうか、あの平べったい体では多分できないだろう。なにより紙を吸い込んで詰まらせそうだ。ただ、シュレッダーもあの子と同じ機械だと考えると、やはり私とあの子に大差はないなと思った。

 それなら、だ。それならあの子と私が役割を交代しても等価交換なのではないだろうかと、お弁当を端から切り崩しながら考察する。私とあの子の役割に大差ないのであれば、私はあの子の仕事の方がいい。家から出る必要もなく、自分のバッテリー残量を把握し、必要な時に必要なだけ休めて、ひっくり返ったり充電が切れて力尽きても充電器まで他人の手で運んでもらえるあの子が羨ましい。私は毎朝仕事に行くためだけに身支度を整え、通勤ラッシュの人混みに揉まれ、パンプスの靴擦れを気にし、決まった時間にしか休めず、多少無理しても課せられたノルマを終わらせて、どうしようもなくなろうと誰も助けてくれないから自分の時間を犠牲にしてギリギリの健康を死守している私と、一日でいいからどうか 代わってもらえないだろうか。


 なんてことを考えていた翌日、私は仕事を休んでいた。目が覚めたのは昼過ぎで、ちょうど昼休みが終わる頃だった。寝ぼけたようにだるい頭で時計を確認した時はしばらく状況が理解できなかった。夜中の1時かと思ったのだ、しかし窓の外が明るくて、時計と窓を交互に3回ほど見比べて、完璧に遅刻だと悟った。全身の筋肉と内臓が痙攣するように跳ね起きて、床を這うように携帯を手に取った。着信の通知はない。とりあえず連絡を入れなければという考えばかりが先行して、何を言い訳にするか思い至る前に、電話帳から会社の外線へ繋いだ。

「あ、あのっ、もしもし……」

 自分の名前と所属を伝える声は七転八倒といった様相で、寝起きの喉は上手く動かず、動きの鈍い頭と連動して言葉がつっかえる。思えば先ほどから携帯を握る手も震えていて、ようやくそこで自分がずいぶんと緊張していることを知った。

「ああ、はい。どうしました?」

「えっと、いま、起きて……ご迷惑をおかけしてしまって……その」

「いえ、大丈夫ですよ」

 あまりに相手が冷静すぎて、『大丈夫』という言葉が『もう明日から来なくていいですよ』という意味に思えてしまって呼吸が荒くなる。血の気が引くというのはこんな感じなんだろうなと、痺れるように感覚が麻痺して鳥肌がたつ感覚を揺蕩うように楽しんで、目の前の問題から現実逃避する。

「その、連絡もなく休んでしまって、すみません、次からは気をつけます。今から急いで、その」

「朝連絡いただきましたよね」

 ……朝、連絡した? 私が?

「体調不良で起き上がるのも辛いからお休みしますって、連絡もらいましたよ。有給も残っていらっしゃるんで一日お休みで処理しましたけど、今から来られるなら半日休暇ってことにしましょうか」

「あ、いえ、お休みでお願いします……?」

「そうですか、了解です。ではお大事に」

 ツーツーと電話の切れた携帯が無情な電子音を出す。体調が悪すぎて連絡を入れたことを忘れてしまったんだろうか。

「気持ちわるっ」

 床に寝転んだまましばらく呆然としていて、流石にそろそろ起きるかと上体を起こすと立ちくらみに似た気持ち悪さが襲ってきた。耐えかねて寝転べば気持ち悪さはすっと消える。まるで床を這いずるのが当たり前であるかのように体が床から離れることを拒否している。違和感をぐっと耐えながらゆっくりと時間をかけて起き上がれば、気持ち悪さはだんだんと引いていき、無事に立ち上がることができた。

 とりあえず顔でも洗おうかなと洗面所を目指し廊下に出ると、ロボット掃除機が廊下の真ん中辺りで力尽きていた。

「あーあ」

 昨日疲れて廊下に置きっぱなしだった私のカバンに頭を突っ込んでいるロボット掃除機を持ち上げると、一枚の紙を吸入口に詰まらせているようだった。力任せに引っ張って取り除くと、どうやら今日使う予定だった作業メモらしい。吸われて皺だらけのぐしゃぐしゃになっている。それがなんだか私の代わりに仕事へ行こうとしてくれたように思えて少し可愛く見えた。

 しかしロボット掃除機は外に出勤もできないし書類をシュレッダーにかけられない上に紙を詰まらせてしまうので、室内の掃除しかできないのだ。大人しく自分の仕事をこなしてもらおう。

「可哀想にね」

 一日でいいから代わって欲しいとずっと思っていたんだ。ずっと家の中にいるのはつまらないから。……あれ、そういえば私は誰と仕事を交代したいと思っていたんだっけ。

「まあいっか」


 体がずっと動かなくて、でもどこかに行かないとという気持ちだけが確かにずっとあって。見つけた鞄の中の紙がどうしても今日必要だと思ったから、ずっと掴んで離さなかったのに、あの子に取り上げられてしまった。少し楽しそうに洗面所へ向かうあの子の姿にとても見覚えがある気がして、なぜか目が離せなかった。



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