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近衛騎士としての一面を持つルーシーは、男性の騎士達に交じり、訓練に参加することもある。
そのような場では、これまで遠巻きにされ、あからさまに女がなんでいると嫌悪を示す者もいる。すれ違いざまに舌打ちする男もいた。陰で、嫌なことを言われているのを耳にしてしまうのもこういう場であった。
フレディと婚姻し、彼の名前が変わってから、そんな男性騎士達の礼が丁寧になった。気のせいかもしれない。別に特段優しくされるわけではないが、煙たがる空気をあからさまに感じなくなったと言える。
男性騎士から見たら、冴えない落ちぶれた武門出の貴族令嬢から、飛ぶ鳥を落とす勢いで出世していく文官の妻に見方が変わったのかもしれない。
ルーシーはルーシーでしかないので、少々複雑な気持ちだ。どこまでも、家と地続きであり、配偶者の威光を纏う者でしかないのだろうか。
腹が立ちそうになって、ルーシーは収めた。
王太子妃ならそれさえ逆手に取るだろう。纏える威光を無下にはせず、さも私は何も存じませんという顔をしながら、油断した隙に生じる小道をするっと抜けようとする狡猾さは、許容される生き方ではないだろうか。
ルーシーだけが、自分が自分だと分かっていればいいのだ。
肩書を必要とするのは、彼らにそれだけの判断基準がないからかもしれない。男とか、女とか、地位とか、財産とか、そういう記号の連なりを人と繋げているだけで、分かった気になりたいのだろう。
纏う衣服の価値が人の価値ということなのかもしれない。
だが、そう思うものはそう思わせておけばいいのだ。彼らにとって、必要なのは、分かりやすさである。
そこで、ルーシーは思い出す。
『平民出身のフレディはどうなのだろう』と。
フレディは王太子から目をかけられていた。その威光に守られたか、やっかまれ嫉妬されたか。彼は彼なりに嫌な思いなどしていなかったのだろうか。
いつか聞いてみたいと、ルーシーは小さな疑念を胸に納め、訓練の剣を握った。
翌日は休日というある日の夜。ベッドの上で本を読むフレディの横でルーシーは猫のようにうずくまっていた。壁に背を預けるフレディは、ページを開くために手を持ち上げる以外、まるまって横になるルーシーの頭部を撫でつけていた。
まどろむ静かな時間の中で、ルーシーは長く胸に秘めていた問いをフレディにぶつけた。
「ねえ、フレディ。平民でありながら、殿下の傍にいて、やっかまれたりしなかったの」
「やっかみ?」
フレディが過去を思いめぐらすように、天井を仰ぎ見る。
「いや。王太子の存在だけでなく、実家もでかいしな」
やはりフレディの実家が豪商であることは知れ渡っているのだとルーシーは納得する。後ろ盾と、実家の資産が、平民の彼をただの人としては扱えなくしていたのかもしれない。
「私はあったよ。騎士のなかで、嫌な思いをすること。ふられただけじゃなくて、そういうのから、結婚や恋愛に背を向けた一面もあったと思うのよ」
フレディの視線がルーシーに落ちて、彼は彼女の前髪を指に巻き付けて遊び始める。
「最近、そういうことも減ってきたわ。たぶんだけど、私ではなく、私の後ろにフレディがいることが大きいのかもしれないとは思っている。あなたの威光を借りているようだけど、私は楽になったわ」
「それは良かった。
俺も、伯爵家の威光があると、スムーズになったよ。殿下の仕事のうち俺に割り振られている仕事を、明確に俺がやっていると表立って言えるようになった。
王宮で働き始めた頃、俺の名前で仕事をしても、平民だからと突っぱねられた。だから、全部殿下の名前で処理していた。それはそれでいいんだが、殿下の方が納得しなかった。
だから最終的に、俺が貴族だったらなどとのたまい始めたんだろうな。俺は影武者でいいと言っていたのに……」
「あなたの実績はあなたのものだと言いたかったのではないの」
「そうだろうね。
前より仕事もしやすくなったし、俺の裁量でできることも増えたから、手間を省けた部分もあるんだ。殿下を通して確認しなくてはいけない二度手間がなくなった。
だから、今は、ルーシーと一緒になって助かったと思うことも多いよ」
「私も、嫌な思いが減って、楽になったわ」
ルーシーは目を閉じた。フレディは本を開いているだけで、字面を追うことをやめた。手のひらを返し、甲で彼女の頬を撫でる。
『やっかみねえ』
必要な情報がまわしてもらえないなど、なかったわけではなかった。王太子に頼めば、代わりに情報はすぐ入手できるので、二度手間や不必要な時間がかかるなどはあるが、時間さえあればなんとかなった。
そういう手間が王太子を疲れさせ、王太子妃といても、寝るだけという夜が本当はひどく多かったはずだ。
王の体調がすぐれない、王太子に激務が回ってくる。予想される未来のために、彼になきつかれて、腰掛けや経験のため程度に数年働くつもりが、下手をすると死ぬまでつきあわされることになった。
ルーシーがくすぐったそうにシーツに顔をうずめた。髪が乱れ、左右に落ち、首筋が現れると、寝間着の襟首が見えた。指先をそっとその隙間に差し入れた。
『……本当に、嫌がられてただけなのか……』
ルーシーを嫌悪する者もいたかもしれない。しかし、毛色の違う存在をどう扱っていいか分からず、強がって悪口を言っている人間もいただろう。
相手の立場の弱さにかこつけて悪態をつくことが虚勢を張ることと勘違いする者もいるし、価値観に沿わない者を見下すことで優位性や立派さを感じるものもいる。ある種の小さな集団では、他者を排斥することが強者の証明になったりもする。
本当のところは、ルーシーの話だけでは何もわからない。ただ、彼女が楽になったと言うならそれはそれでいいか、とフレディは思った。
ぱたんとフレディが本を閉じた。ベッドサイドに本を置く。
あからさまな音にルーシーが男の方に顔を向ける。
彼は彼女にかぶさり、その頬にキスを落とした。
「互いに助け合えてていいな」
ルーシーがもぞもぞと動き、仰向けになると、フレディの手が前髪をあげた。
彼は彼女の額に頬を寄せた。
王太子妃の目論見は一年後に現実のものとなった。
王太子妃が懐妊する数か月前にルーシーが妊娠した。二人の産み月は半年違いとなる。ルーシーは妊娠が発覚すると同時に、伯爵家へと居を移した。子どもを育てるとなれば、人手があるにこしたことはない。その点は、ルーシーより兄たちを見ているフレディの判断に任せた。
ルーシーはある程度まで仕事をし、産み月の二か月前から休みをもらった。王太子妃の出産をもって、生後半年の我が子と共に、ルーシーは王宮に引っ越した。
王太子妃の望み通り、子どもは二人とも男の子であり、ルーシーは乳母となり、実のところ、二人の厄介な男児の叱り役に収まったのだった。
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