第78話:実感がわかないけど……
「今日は、帰ったら、婚姻の際に届ける書類を書こうと約束していたでしょ。さっきの指輪は特注品だから、持ち帰れない。
今日という日に、フレディに買ってもらって家に持って帰れる品が欲しいの」
「それなら……」
フレディがちらっと奥に視線を投げる。
私は頭を左右に小さく振った。
「これなら、日常的に使えるもの。気兼ねなく、いつも身につけていられる品を買ってもらえることも、とても嬉しいのよ」
近寄ってきた店員に買いたいと伝えると、フレディが私のために買ってくれた。
買ってもらったチープな品を胸に抱いて、帰路に就く。
安物だからと否定をせずに、「いいよ」の一言で買ってくれたことがなによりも嬉しかった。
毎日それを身につけたいし、壊れてしまっても、死ぬまで、保管していたい。
高価な品は高価な品で価値はあるけど、今日という日に買ってもらい持ち帰る品には、たとえそれが既製品であっても、私だけの特別な価値がある。
思い出が滲んだ品は、どんな高価な品よりも、意味深い。
こうして家に戻った私たちは、婚姻ための書類を二人で書いた。
後日、宝飾店に寄って、指輪を受け取ったフレディが、いつもより早く帰宅した。
フレディに左手の薬指にはめてもらった私は、光の当て方で色が変化する多色性柘榴石を、角度と光源を変えながら、夢中になって楽しんだ。
伯爵家に婿入りしたフレディは、フレデリック・フォーテスキュー・グレイスに名を変え、上級文官試験に申し込みを行った。
試験に向けて、フレディは忙しくなる。彼には、その試験に集中してほしいので、結婚式の準備は私がすすめていくことになった。
二人で決めたいことがあったら声をかけてと言ってくれたけど、やっぱり試験が終わるまでは、煩わせたくはなかった。
私は時々、伯爵家に戻り、母や祖母、トリスタンの妻であるキャロラインも交えて、話し合った。
場所は、例の宿泊施設を選び、ドレスはパール女史の店にお願いすることにした。料理から、披露宴の進行まで、決めることはいくつもあった。その辺はキャロラインが詳しく、アドバイスを受けながら、候補を絞っていった。
パール女史にもいくつかの希望を伝え、ドレスを用意してもらう。以前着た紫陽花をモチーフにしたドレスも少し手直ししてもらうことになった。
そうこうしているうちに、試験が終わり、結果が届いた。フレディは上級文官になり、私も嬉しかったが、なにより殿下が喜んだ。
下級文官と上級文官では待遇も違う。
フレディは殿下の秘書官に任命され、殿下が必ず目を通し確認承認しなくてはいけない書類以外は、代理で書類に署名できるようになった。
何年も二人で仕事をしてきたので、わざわざ殿下がサインするまでもない書類は熟知しており、フレディが代わりにサインできるようになったことで、殿下の激務も緩和された。
宰相のモーダント侯爵もそれを黙認する。
妃殿下も、胸を撫でおろした。
殿下一人では、体がもたない状況だったらしい。
避妊茶を飲む飲まない以前に、殿下の方が疲労で、毎夜寝入ってしまうことが多く、このままでは健康を害するのではないかと心配していたそうだ。
結婚式の準備は、フレディが上級文官になったことで一気に進む。
彼と相談して決めようとあげていた項目を順番に確定し、準備を着々と進めた。
ほぼすべての準備を整え、十日後に結婚式を控えたある日。
お茶を飲んでいた私は、いつもと味が違うことに気づく。数日前から、夜にいつもより倦怠感を覚え、風邪でも引いたかしらと医務室を訪ねた。
女性の勤務医に症状を伝えると、プライベートを少々聞かれ、出された結論は、妊娠初期ではないかということだった。
一度、出産を扱う医院に行った方が良いと言われ、妃殿下に体調不良を理由に早退させてもらった。
医院に行き、調べてもらうと、ごく初期の妊娠が発覚した。
実感はわかなかった。
変化は、いつも美味しく飲めていたお茶をまずいと感じるようになったぐらい。倦怠感があると言っても、日常においては気になるほどではない。
濃い味やにおいの強い食べ物に気持ち悪くなって気づくとは聞いていたけど、お茶の味ぐらいで気づくものかしら。
倦怠感以外の変化は感じなかったけど、色々体内の変化は起きているのかもしれない。
体感に大きな変化はない。子どもが育っているような脈動もない。まるで実感がわかない。
妊娠したよ。
フレディに、そう告げたかったが、その日は彼の帰りが遅く伝えられなかった。
翌日登庁し、妃殿下に、どうだったと聞かれ、なんでもありませんでしたと答えた。まだ流産の可能性もあるから、職場では黙っていても良い時期と医院で得た知識をもって秘密にすることにした。
妊娠しました、でも、流産しました。なんて、人に伝えるのは私がつらい。そこは、相手が妃殿下でも自分を優先する。
働いているうちに妊娠についてもとんと忘れてしまった。
フレディにももう少し安定してから伝えよう、十日後の結婚式の後でもいいかと、思いなおした。
お茶の好みが変わる以外に大きな変化はなく、日常を過ごす。
あっという間に、結婚式の当日を迎えた。
結婚式は午後であり、披露宴は夕方からだが、私たちは昼前に会場に入った。
私たち自身も色々準備をしなくてはいけない。当日の流れを確認し、早めの昼食を食べる。会場の下見も行った。
昼過ぎには母とパール女史が到着。二人に手伝ってもらって、着替えを始める。
結婚式では純白のプリンセスラインのドレスを着る。スカート部分は幾重にも薄い布地が重ねられ、柔らかな印象を与える。モチーフは木春菊。重ねられた薄い生地は一枚が花弁のようにカットされており、それを重ね合わせて、スカートにしている。
ふわっと広がるスカートとは反対に、腰回りから胸はぴったりと体にフィットするつくりになっており、鏡で見ると、綺麗なシルエットが浮かぶ。
ドレスを着て、メイクも終わる。
一段落してほっとしていると、今度は家族がやってきた。
父と祖父に祖母。
フレディの家からは義理の祖父母と父母。兄夫婦と子供たちが順番に会いに来てくれた。
結婚式が始まった。
ありきたりの儀式だけど、涼やかな空間に立つと神聖な気持ちに包まれ、この人と生涯を共にするのだと躊躇なく誓うことができた。
式の間。ただただ、心は静寂に包まれ、ほんのりと幸福であった。
泣いたり、騒いだりするのかなと思ったポーリーンも、式の間中、前の椅子にかじりついて、爛々と両目を輝かせ、大人しく私たちを見ていた。
結婚式のあとは披露宴だ。
一度、私たちはお色直しで会場を出る。ほっと一息つきながら、パール女史に着替えを手伝ってもらう。
今度は、思い出がある紫陽花をモチーフとした赤紫を基調としたドレスである。
会場入りするにはもう少し時間があると言うことで、椅子に座ってほっと一息ついていると、ひょっこり、ポーリーンが現れた。
お父さんやお母さんはどうしたの、と聞くと、へへっと笑った。今頃、どちらかが探していることだろう。
私も動けないので、探している人が現れるまでポーリーンとお話しすることにした。またどこかへ飛んで行ってしまっては大変だもの。捕まえておく意味もある。
結婚式が良かったとつたない言葉でポーリンは頬を赤らめてしゃべる姿はとても可愛い。
「このドレスもとても綺麗、私も将来こんなドレスが着たいわ」
私の膝に手を載せて、私の顔をポーリーンが覗き込む。両目がとてもきらきらしている。
子どもの体重がかかって、私の両手がお腹に触れた。
その手をポーリーンがまじまじと見つめる。
「どうしたの」
「秘密よ。じつはね、お腹に赤ちゃんがいるのよ。
まだ、内緒だからね。誰にも言わないでね」
ポーリーンの両目がくりんと丸くなった。




