第76話:笑われる夜
「はい」
『一緒に寝る』
そう言われて、脳裏にぱっと浮かんだのは、公国で並んで寝たような隣り合って横になる姿だった。
はい、と答えた後に、その後があるのかもしれないとぶわっと気づき、途端に恥ずかしくなった。
熱くなった頬は赤くなっていることだろう。私は両手で頬を包む。
カップに視線を落としてから、おずおずとフレディを見た。
彼は涼しい顔でお茶を飲んでいる。
「緊張しなくていいから。しばらく一緒に暮らしてて、ルーシーの方から声をかけてくるかなって待っていたんだけどね。
帰宅が遅いと先に寝ているし、一緒に夜を過ごしても、シングルベッドに行ってしまう。結婚するわけだし、もう、俺から言ってもいいかなと思ったんだ」
フレディが帰らず先に寝てしまうか、彼とお話していても用意してくれたベッドに寝るか、いつも自然にそうしてしまっていた。
それもまた、心地よくて、一緒に暮らしているだけで嬉しい気持ちに包まれて眠れていた。
(もしかすると、私がすやすや寝ている向こう側で、フレディはもんもんとしていたのかしら)
休日も、なんとなく、平日の習慣で一人で寝てしまうことを繰り返していた。
私は申し訳ないことをしていたの?
彼も何も言わないし、私も満足しているし、これでいいと思っていたわ。
いや、このままじゃダメかもとは、薄々分かってはいたのよ。ただ、自分からは踏み込めなかった。
(私、怖かった? なにが……)
「急に、今日からとは言わないからさ」
そう言うと、フレディは立ち上がり、寝間着を掴むと風呂場に向かった。
テーブル席に私一人残される。
お風呂で体は一応綺麗にしている。
席を外した今のうちに、考えておいてということかしら。
でも『今日とは言わない』とも、言っていた。それって、たぶん、シングルベッドで一人で寝てもいいよ、という意味だと、受け止めていいのかな。
(つまり、決断権は私にあると?)
私はぶんぶんと頭を左右に大きく振った。
妃殿下の望まれる乳母になるのだし。
伯爵家にも跡取りが必要だし。
そう、私には子どもが必要なのだ。
そのためにはなにをしたらいいのか、分かっている。
あまりにも今まで、フレディと一緒にじゃれているのが楽しくて、実感なかったのよね。
特にこっちに引っ越してから、生活に慣れることを優先してきたし、慣れて来たら慣れてきたで、日常に彼がいることも当たり前になって、より彼との関係が、普通になってしまった。
(これなら、同居前の方が、男女としての意識があったかもしれない。ううん、あったわ)
殿下の執務室で、二人きりでキスしたり、ハグしたりしていた時の方が、フレディを男性として見ていた気がする。
一緒に暮らしたいと言った背景には、触れ合いたいという意識は確かにあった。
立ち上がった私は、残された食器を台所へと下げる。背後からシャワー音が聞こえてくる。この音が消える前に結論を出さないと。
出さなきゃいけない、わけじゃない。
結論はもう出ている。
テーブルと台所を二往復して、シンクに食器を片づけ、テーブルも拭き終えた。いつもなら、食器を洗うところだけど、今日は水につけただけのままにする。
関係をすすめて、二人の間が壊れることはないのだろうか。
安定しているからこそ、このままでいたい。
変化をどことなく、恐れている。
根拠はない。
それは違うと、変化を怖がる本能を理性で否定する。
同じ関係を続けていることの方が、変化を受け入れない方が、淀むだろう。
シャワー音が消えた。
私は真っ直ぐにフレディのベッドに向かった。
彼のベッドは私のものより広い。二人で寝ることも出来そうなぐらいだ。
(シングルのベッドを用意してくれたのって、やっぱりフレディの好意よね)
十分に二人でも寝れそうなベッドの端にぽんと腰掛けた。
心臓はばくばくとなっている。
ベッドの上にあがった。壁に背をつけて待とうと、四つん這いで進み始める。
その時、背後でがりゃりと扉が開く音が鳴った。
びくんと体が硬直した。
どうしよう、どうしよう。
まだ心構え出来ていない!
奥に座って、深呼吸をして、それからフレディを迎え入れようと思っていたのに。
「ルーシー」
フレディに名を呼ばれ、私はひゃっと飛び上がりそうになる。バクバクと鳴る心臓が口から飛び出そうなほどだ。
その場にぺたりと座り込み、恐る恐る振り向く。
ベッドの傍らにフレディが立っていた。
私は体をのけ反らせ、彼を見上げた。
彼の顔は、まさかここにいるとは思わなかったと言いたげだ。
「一緒に……、寝ようか」
私の呟きを聞いたフレディがふわっと笑って、ベッドの脇に座った。
ちょっとだけ怖い。私は体を捻り、フレディと正面で向き合う。彼もまたベッドにあがりこみ、あぐらをかいた。
私と彼は、ベッドの真ん中あたりで向き合うかたちになる。
肩にかけたタオルで拭いてあげたくなるぐらい、フレディの髪はまだ濡れていた。
「急いで出てきたの?」
「まあね」
なんで、と聞くのも無粋な気がした。たぶんだけど、私がどう出てくるのか気になったのだろう。
「緊張しているの」
「そりゃあね」
眉を潜めて苦笑するフレディ。
私は手をかざす。
「触って良い」
「どうぞ」
彼の胸に触れると、ばくばくといつもより早い鼓動が伝わってきた。体も火照っている気がした。
私が触れている手を、フレディが包む。
「一緒だね」
「うん、一緒だよ」
手を引いて、胸に寄せる。
笑いかけると、笑い返してくれた。
(怖かったり、緊張するのは、私だけじゃないんだ)
フレディの表情は表面的には穏やかだから、余裕があるのだと勘違いしてしまう。髪も十分に乾かさないまま出てくるぐらいなんだもの。彼にしては、慌てているとか、落ち着きがないとか、言えるのかもしれない。
気持ちの上では、お互いなにも変わらないんだ。そう思うと、ちょっとだけ、心が宥められて、勇気が湧く。
緊張するとか、ドキドキするとか、向き合って感じている想いが一緒なら、どっちかが度胸を示すしかないじゃない。
ふんと鼻をならして、私は両腕を高く上げた。
「脱がせて!」
言い切った私を見ているフレディの表情が崩れた。
私は口を引き結んで、胸を張る。心臓は早いし、体も変に熱い。
「……脱がせてって」
フレディが片手を口に寄せて、背を丸める。両肩が上下に震えていると思うと、笑い声が指の隙間から漏れてきた。
笑われてしまって、あげた両腕をどうしていいか分からなくなる。力なく、肘が折れてくる。
笑われ、待たされているうちに、私は逃げ出したくなってきた。
ひとしきり笑い終えたフレディが口に手を当てたまま、私を見る。うっすらと涙目になっていた。
私の肘は力なく半分折れてしまい、最初はぴんと張っていた指も、しおれてしまった。
「なによ」
恥ずかしさを隠すように、口をすぼめて、睨みつけてしまう。
フレディは笑っている。
「ごめんよ。まさか、そう出るとは思わなかったよ」
「……」
むっとしてしまう。
そんな私に笑いかけながら、彼の手が伸びてくる。
「はい。あらためて、ばんざーい」
フレディは私が着ている寝衣の裾を掴むとざばっと上に押し上げた。私からはぎ取った衣類を彼はぽいっと床へなげてしまう。
私はいきなり寝衣を上にたくし上げられ、脱がされた瞬間にコロンとベッドに転がってしまった。
仰向けになり、天井がうつる。ぶるっと寒くて、脇を閉めた。
いそいそと脱ぎ始めたフレディに向かって、一言。
「優しくしてください」
「善処します」
やっぱり、フレディは笑いを噛みつぶしている。