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「幸せにって……」
「順番は食い違うけど、子どもができるまでは楽しくやろうね」
ルーシーは顔をさらに赤らめて、両手で頬を包み込んだ。
フレディは目を細め、満足そうに笑む。
二年前から男っ気がないルーシーは、本当に仕事に没頭し、何もなく過ごしてきたのだろう。武門の貴族出身で、騎士を目指してきた分だけ色々うといのかもしれない。
『結婚する時とはこんなものなんだろうな』
兄二人は、一人は幼馴染との約束を成就し、もう一人は妊娠を契機に踏み切った。そんななれそめを横目に、時間の余裕に乏しいフレディは、恋愛で結婚することはないとたかをくくっていた。
そこにふってわいた婚約話だ。王太子妃の推薦とあれば、ここで断ってしまうと、あきらめない王太子が何を出してくるかもしれない。断り続け、生涯独身が約束されるかもしれない。
後で、ここでからめとられておけば良かったと思っても遅いだろう。
ルーシーと実家から出て、少し外で会ってみるまではフレディも考えていた。昔の男が現れるハプニングと彼女の反応から、家まで連れてきてしまった。
順番はちぐはぐでも、零れ落ちてきた娘に不満はない。短い時間でも、甘い時間を過ごすこともできる。兄二人を見る限り、子どもができたら、それはそれで難儀なことがまき起こる。
ましてや、あの王太子妃が乳母をと望んでいるなら、なおさら、色々、厄介ごとが付随してくるかもしれない。
いまさら自分の立ち位置に嘆く気はないが、ほとほと流され、巻き込まれる星の元に生まれているとフレディは天井を仰ぎ見た。
フレディに夕食をご馳走してもらうと、雨が上がっており、寮まで送ってくれた。ぼんやりと帰ったルーシーは自室のベッドに横たわると数秒じっとしてから、急に恥ずかしくなり、ごろんごろんと左右に転がった。
仕組まれた結婚なのに、心音が異様に早くなり、体中が熱くなる。恋愛はないと思っていただけに、今日一日でフレディの内面に触れて、けっしてそれが嫌ではなく、むしろ心地よく感じている自分がいることにルーシーは自身の受け止め方に惑うていた。
『俺が幸せにするなんて、言っている意味がわかっているのかしら』
わかっていないわけないと即座に否定する声がルーシーの底からわいてくる。王太子に望まれて出世することが約束されている男性が、そんな馬鹿なわけがなかった。
ごろんごろんともう一度のたうった。
周囲の都合により仕組まれた結婚なのに、もだえるほど、恥ずかしかった。頬が緩みそうになるのを抑えようと意識すると口角が下がった。一緒に目じりも下がる。絶対におかしな顔をしていると確信を持ったまま両手でルーシーは顔を覆った。
『男はこりごりだ、結婚なんてしない。仕事さえあればいい』
一週間前、そう本気で思っていた自分が飛び去り、恋情があふれて、困り果てることになるなど想像もしていなかったルーシーは変化の早さに戸惑うばかりだった。
出仕すれば、早々に王太子妃に呼ばれた。
案の定、彼女の目は輝いている。
「良かったわね。フレデリックは、貴方さえよければぜひにもと話していると聞いたわ」
ルーシーは恋心なんて柄にもない感情を悟られないように凛とした表情を崩さない努力をする。
「妃殿下のご好意を無にすることもありませんから」
ふふっと王太子妃は笑む。
「うれしいわ。このままでしたら、二人とも結婚しないまま、終わりそうだったものね。
ルーシーには言えなかったけど、前の殿方は、あなたが自由であれる人ではなかったのよ。彼が悪い人というより、釣り合わなかっただけだと思うわ。それを分かっていて、ずるずると続けていたから、最終的にあのような結果になったのね」
「……そうでしょうか……」
「分かっていて、現状を見ないようにした互いの結果があの形だったのよ」
ルーシーは黙って、王太子妃が望むハーブティーを淹れる。フレディと出会った今、彼女の言葉が身に染みる。男女の問題など、お互い様ということか。
「私も望みが叶う一歩を踏み出せて、うれしいわ。私の子どもとあなたの子どもが、乳兄弟や幼馴染として育っていく第一歩ね。同性の幼馴染もいいけど、男の子と女の子が生まれて、恋に落ちても、きっと楽しいわよ」
夢見るように両手を組んで胸にかざし、王太子妃は微笑むのだった。
ハーブティーを注いだカップを、ルーシーは王太子妃の前に置く。
「ねえ、ルーシー。結婚か仕事かなんて選ぶ必要ないのよ。欲しいなら、両方バランスよく手に入れたらいいのよ」
王太子妃にはかなわない。ルーシーはつくづく思い知るのだった。
その後、ルーシーは宿舎を出て、少ない荷物を持って、フレディの自宅へと転がり込んだ。少ない時間をやりくりしても、二人で他愛無い時間を共有しようと決断した。
休日をフレディと調整するよう指示した王太子妃はさらに楽しそうだった。
程なく婚姻し、子どもができるまでという期限付きで、二人での暮らしを継続した。フレディの実家から週二回掃除のために使用人が昼間入る以外、二人の間に分け入る者もおらず、穏やかな時間が流れた。
男の縁に薄かったルーシーも、フレディと暮らすことで、絞り出される時間からもたらされる、甘い関係を楽しんだ。
フレディにお茶を淹れるのも、二人で他愛無い話をすることも、それ以上も含めて、ルーシーはけして手にすることがないとあきらめていたものばかりだった。
フレディとルーシーが籍を入れ、最初に変わったのはフレディの名だ。
彼は、フレデリック・グレイスとなる。王太子の目論見通り、重用され、グレイス伯の婿養子として名が通り始めた。元々、文官の間では有名だったのかもしれない彼は瞬く間に、表だって一目置かれる存在になった。
ルーシーの父は喜んだ。娘の代でもまた家は沈み、孫の代に期待しようと思っていたところに、ふってわいた縁談をもって、グレイス家の名が轟いたのだ。フレディはグレイス家に歓迎され、実の息子のように親しまれた。
ルーシーもまた、フレディと結婚することで働きやすくなった。
ルーシーは今も昔も私は私であると思っていた。しかし、仕事上は、落ち目の伯爵家の娘であり、女だてらに出世しようとする。いささか煙たい存在だったのかもしれない。さっさと結婚し、実家で子供でも産んでいればいいというのが大方の見方のようだった。
それが今では、フレデリック・グレイスの妻、として見られるようになり、一人で肩肘を張っていたのが嘘のように楽になった。