第67話:過去の清算、新しい関係
部屋に戻ると、ジュリエットは眠り続けるルーシーの額に滲む汗を拭いていた。
その背後にはアナスタシアまでいる。
入ってきた俺たちに真っ先に気づいたのはアナスタシアだった。
「戻ってきたのね。どうだった、首尾よくいった?」
「もちろん。戻ったら、公爵から健康上の理由をもって辞表が出される。俺は受理する。正規の手続きを経て、次の宰相に侯爵を任命する。
道筋はちゃんとできたよ。あっけないものだね」
「今頃、父の管理下で公爵は辞表を書かされているわね。アルフレッドが戻る頃には、机に置いていそう。
書類処理は任せたわ、フレディ」
久しぶりの一言もなく、用件を切り出す。ジュリエットと同じような容姿でありながら、太々しさが際立つ。
「仕事だからな」
素っ気なく答える俺も俺か。
寝ているルーシーに変化はないとジュリエットが教えてくれた。
医師が様子を見に来たが、落ち着いているという見立てであり、怪我をしていることを考えると、痛みもあるので、明日まで寝ていた方がいいと言われたそうだ。
寝顔は落ち着いている。
早く起きてほしい気持ちもあるが、痛みを抱えることを思うと、目覚めは明日でもいいかもしれない。
状況を伝え終えたジュリエットはアルフレッドと連れ立って、部屋に戻っていく。
俺はアナスタシアと二人きりになった。
今さら、気まずくなるのもどうかしている。
アナスタシアには夫がおり、俺だってまもなく婚約するのだ。
「アルフレッドの補佐、よくやっているそうね。彼から仕事ぶりは聞いているわ」
「どうも」
「ルーシーは無事よ。これだけでもあなたは心配するでしょうけど、これが彼女にとって一番軽い怪我よ」
「もっとひどいことになるはずだったのか?」
「そうよ」
「そうか」
アナスタシアが言うなら信じよう。
彼女は、予言の聖女だ。
「ルーシーが最小のケガで済むように計らってくれてありがとう。アナスタシアはルーシーを陥れることもできたはずだ。なのに、そんなことをしないでくれたのは、感謝しかない」
「あなたは関係ない。これが私の天命よ。
私情に流されて、天に唾を吐けば、もっとひどいことになるわ。
現実は、私だけで、実現することはできない。私はここから一歩も出られないのだから。
王国で、殿下やジュリエットたち、協力者がちゃんとおぜん立てしてくれたから、最良へと行きつけたのよ。感謝するなら、あなたに関わったすべての人になさい」
「そうか……」
「戻るわ」
踏み出すアナスタシアはするっとフレディの横を通り抜ける。
アナスタシアは公国の継嗣であり、予言の聖女。
片や、俺は商家の三男であり王国のフィクサー。
関わることはあっても、昔のような友愛ではなく、主従となる。
その関係が、すとんと落ちた。
嫌悪は消え、忠誠が芽生える。
(ルーシーを助けてくれてありがとう)
背後で扉が開き、閉じられる音が響いた。
過去は清算された。ただ楽しく、幼い関係の糸が乾いた音とともにぷつりと切れた。
室内は無音となり、ルーシーの寝息だけが耳に届く。
俺はベッドの傍らに残された椅子に座った。眠る彼女の顔を見つめる。血色は良い、表情も穏やかだ。
可愛い寝息をたてて、ただ寝ている。ずっと見ていて飽きない気がする。
「無事でよかった」
独り言ちる。
どこから、彼女をこんなに好きになったのだろか。
俺は誰かに溺れることはなく、女性に優しくはできるけど、どこか一歩引いたように構えて接するタイプだと思っていた。
のめり込んだり、本気になることはないだろうと思っていた。
彼女を前にして、『逆手にとろう』と言った時は、よもや俺の方がルーシーを好きになるとは思わなかった。
どこから変わったのか、はっきりしない。
印象に残る彼女の言葉を反芻する。
『私の傍にいてくれたら、守ってあげる』
『あなたが私を好いているなら、あなたの目に映るのは私だけであっても当たり前じゃない?』
『ねえ、フレディ。慣れない場で、少し疲れたわ』
『結婚しよう』
『なら、フレディは私のものよね』
『フレディじゃないと嫌なの。これだけ言って、反対するなら、私がこの家を出ていくわよ!』
『本当は、今でも転がり込みたいのよ』
守ってあげるなんて、なにを言い出すのか、面白い子だな、と思った。彼女に好かれ、彼女に気に入られることを優先していた俺は可笑しみを覚えた。
感情の機微に気づいて気遣ってくれて、助かった。寄りかかることだけを望む女性じゃないと、気づいた。
逆プロポーズされた時は、嬉しいを通り越して固まった。
貴族のご令嬢だからと、一緒に暮らしたそうな彼女を軽く突っぱねても、結局、彼女の望みの前に俺は折れてしまった。
(俺が、なにを思っているかなんて、ちっとも気づいていないんだろうな)
一緒に暮らしたいと言われて、内心、舞い上がったなんて言えない。
殿下がいない昼時が待ち遠しかったなんて言えない。
二人きりで、笑ってくれる時間が尊く、沈んだ顔を見たくなくて、アナスタシアについて切り出せなかったなんて言えない。
(年上のしっかりした、紳士で優しい男って見ているよね……きっと)
その彼女のイメージを崩したくなくて、ちょっとだけ演技していた。我慢とも言う。
彼女の寝顔を見ながら、俺は足を組んだ。膝に肘を載せ、頬杖をつく。
空いた手で彼女の頬を撫でた。
夕食は二人分、部屋に運ばれてきた。食堂に出向く予定だったが、ここで済ませてかまわないということだった。
アナスタシアの配慮だろう。
給仕が冷めても食べやすい品を、テーブルに並べてくれた。
小腹が空いて、いくつかつまんで、またルーシーの横に座る。
夕食を終えたジュリエットとアルフレッドも一度様子を見に来てくれた。彼らは穏やかなルーシーの寝顔に安堵し、「フレディも休めよ」と言ってくれた。
夜もふけ、月と星が空に輝く。
ルーシーの傍から離れられず、椅子に座って彼女を見ていた。
そのうち、俺は船をこぎはじめ、眠ってしまった。
頭部をさらさらと撫でてくる手があり、俺の意識が呼び覚まされる。目を開ける。光が眩しい。
いつの間にか寝ていたようだ。
髪に触れる手があり、俺は覚醒する。ベッドの端っこにもたれかかって眠っていたようだ。
「フレディ……」
柔らかく甘やかな声音に反応し、俺はがばっと体を起こした。
横になったまま、こちらに笑みを向けるルーシー。目覚めたばかりだからか、気だるそうだ。
胸にじわっと安堵が広がる。
「目覚めたか……、良かった」
「ジュリエット様は?」
「ジュリエット……」
「無事?」
こんな時も、仕事と護衛対象を気にするのかと苦笑する。さすが忠臣の家系だね。
「無事だよ。安心して」
「良かった」
ほっとしたルーシーが、目を細める。
彼女らしい反応に、泣きそうになった。