第64話:希望を噛みしめた直後
言葉は誰かに気持ちを伝えるためにとても大切だけど、ちっとも役に立たないことがある。
安心して、と言っても、相手の心が整っていなければ、通じない。
私がどんなに、フレディに不安にならないで、と言ったって、彼が選ぶ心のあり様まで指示できない。
事情を知るためには言葉は必要だ。
状況を知るためには、説明してもらわないと分からない。
それをどう受け止めるか。
どんな気持ちを引き受けるかは、本人次第。
言葉だけではしめせない。
愛していると、言っても。
信じてくれなくては、空回りになってしまう。
私ができることは、私が無条件にフレディを信じることだけだ。
広い心を持って、彼の不安も全部のみ込んで。引き受けて、受け止める。
フレディを愛したいから愛するのであり、信じたいから信じるのだ。
そこに、嫉妬とか、やきもちとか、疑いとか、なんにもない。
愛は静かだ。
唇を離して、もう一度笑んであげると、フレディが追いかけるように迫ってきた。
びっくりした。
目を見開いてしまう。
のしかかるようにキスを返される。
頬に添えていた手を彼の頭部に回し、目を閉じた。
彼のするに任せる。
呼吸するために、二度唇を離しながら、長いキスをした。
(バカだなあ。可愛いなあ)
なんて、思っていた。
年上の彼になにを思うのかって感想だけど、いたいけな少年を抱きしめて、撫でてあげているような気になっていた。
少しだけ、贅沢を願う。
フレディも同じ気持ちでありますように。
フレディにも急ぎの用があり、ポケットから出した時計を確認し、「ごめん、時間がない。また、夕食の時にでも」と慌ただしく出ていった。
残された私は、仕事の一環として来ているので、妃殿下の護衛としての侍女の衣装に着替え始める。
服を変えながら、フレディとの出会いから反芻する。
第一印象は良好で、デートしたら彼の持ち物に驚くあまり怖気づいた。プレゼントには仰天させられ、遅れて参加した夜会では家族のぬくもりに安堵した。滅多に泊れない部屋に寄り添う正装が飾られ、夕食を食べることも忘れるくらい緊張した夜を過ごした。次の日は、新しいワンピースとアクセサリーをプレゼントされ、我慢できなくて泣いてしまったのよね。フレディはどれほど驚いたことだろう。
朝食を食べて、フレディの実家に行き、あたたかな家族愛に触れた。あの家庭の一員になれると思うと、嬉しくなる。
二人の義姉をこれから、なんとお呼びしたらいいのかしら。
またポーリーンに会えるのも楽しみだわ。
男の子二人には、ちゃんと稽古をつけてあげよう。きっとすぐに私なんか足元にも及ばないぐらい強くなるわ。
ほんの一か月前のことだけど遠い過去のようで、笑ってしまう。
後日、伯爵家に運ばれた紫陽花のドレスに、祖母と母は昇天しそうになるほど驚いていた。披露宴で着るという理由がないと受け取れなかったのというと、それはそうでしょうと二人声を合わせて叫んだ。
楽しいことがたくさんある。幸せなこともたくさん。
そう言えば、熟れた桃の茶葉も最近、妃殿下はほとんど飲んでいない。どれくらい影響が残るかはわからないけど、避妊茶の効果は切れていくだろう。
そうすれば、一年か二年で懐妊もありうる。
(そっか、私も急がないといけないのね)
乳母になるためには、先んじて子どもを授かるか、同時に授かる必要がある。
戻ったら、妃殿下の希望を祖母と母に説明し、フレディの一人暮らしの家に転がり込みたい。きっと一緒に暮らした方が、結婚式や披露宴の準備もしやすいもの。婚約も急がないとね。
なにせ、フレディは忙しい。昼時に会えるといっても食事を挟めば、話せる時間は少ない。相談事があるなら、一緒に暮らすのが最適よ。
家族を説得するための理由は十分あるわ。
私はにやけながら、服を着替え終えた。
このままの顔では、妃殿下の前には出られない。気を引き締めるために、頬を二度叩いた。
妃殿下を迎えに行く。
部屋では、殿下と妃殿下が寛いでいた。
談笑を切り上げた妃殿下に案内され、移動する。さすが住んでいただけはある。彼女は城の内部はだいたい把握しているそうだ。
向かうのは、アナスタシア様お気に入りの庭を眺められるテラス席。
廊下の角が見えた。その角を曲がろうとした時だ。
奥から人の影が差した。
妃殿下の足が止まりかける。
現れる人にぶつからないよう、私も妃殿下の横で止まった。
交差する廊下に私と妃殿下の影が落ちた。
角から飛び出す人影が急に走り出す。
私は異様な動きを見せた影に反応し、妃殿下を守るように身構えた。
飛び出してきた人が、私たちの目の前で足を止める。
小柄な人物は、フードを目深にかぶっていた。顔は見えない。濃紺のローブが閃く。覗いた衣類は女性ものだ。手には、小刀が握られている。
フードから光る鋭い眼光は、私を通り越し、妃殿下を捕らえた。
とっさに、私は一歩前に出た。
彼女と妃殿下の間に割り込む。同時に、穴の開いたポケットに手を突っ込み、太ももに隠す小ぶりのナイフの柄を掴んだ。
フード付きのローブを纏う小柄な不届き者は跳ねて、直進する。
廊下から飛び出して、すぐさま前方の妃殿下に向かって跳躍する。そう動くと何度も考え、決めていたように、流れる動きだ。
しかし、相手の動きは緩慢。夢想はしても、訓練はしていない。
私の目には、ゆっくりと映り、無駄も多い。
私は、ポケットから小型のナイフを抜き出した。
訓練していない女性なら、十分だ。
走り込んでくる相手のフードが捲れ上がる。
露になった顔に私は目を剥いた。
彼女は夜会で見た女性だ。
公爵が殿下に紹介したご令嬢。宰相である公爵家のお嬢様、上位貴族の公爵令嬢だ。
(なんで彼女がここに! しかも、妃殿下を狙うの!!)
憎々し気な彼女の眼光に私はたじろぐ。それは一瞬の隙をつくる。
体当たりで迫る彼女と真正面からぶつかった。
ぐっと腹に鈍い痛みが走る。密着したおかげで、捉えやすくなった。
彼女の片腕を掴み、ひねりあげる。背に体重をかけて、床に押し倒した。頭をぐいっともたげ上げた彼女の首元に、ナイフの刃を添える。
それでも暴れようとする彼女を、歯を食いしばって床に縛り付ける。
痛みがじわっと腹にくる。
刃が喉を傷つけることもいとわず、令嬢は叫ぶ。
「あなたのせいよ! あなたが私の未来を奪ったのよ!」
なにを言っているの。
令嬢が叫ぶ意味は不明でも、妃殿下を襲う者は誰であっても許さない。それが護衛騎士というものだ。
妃殿下は口元を引き結ぶ。
何事かと察した人々の足音が近づいてくる。
ほっとした。力が抜けそうになったところで、横から複数の人の手が伸びて、令嬢を押さえつけた。
(よかった……)
私は仕事をまっとうした。そう思うと、力が抜けた。倒れそうになったところを誰かに支えられる。
誰かの怒声を遠く聞いた。
「大丈夫か!」
「誰か救護の者を呼べ。腹部からの出血が激しい」
腹部の痛みはそのせいね。
体当たりした時に、公爵家のご令嬢の刃が私の腹を刺したのだ。